チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「ブレークポイント」

2014-11-28 10:16:43 | 独学

 67. ブレークポイント (ジェフ・スティベル著 2014年8月 今井和久訳)(BREAKPOINT Copyright©Jeff Stibel、2013)

 本書は副題に ”ウェブは過成長により内部崩壊する” とあります。著者(脳科学者兼起業家)の主題は、脳神経ネットワークとインターネットのブレークポイントについての考察であります。私は、主題についてはよく解からない部分もありましたので、著者のそれ以外の多様な見識に感心しましたので、ここでは私の感心したものについて話題とします。

 

 『 1944年、アメリカ沿岸警備隊はベーリング海のアラスカ沖合に位置するセントマシュー島に29頭のトナカイを放った。トナカイは苔が好物で島は苔におおわれていたため、トナカイたちはそれをむさぼり食い、大きく成長し、急激に増殖した。1962年までに島のトナカイは6000頭に達し、その多くは本来の生息地に住むトナカイよりも肥っていた。

 セントマシュー島は無人島だったが、1964年5月にアメリカ海軍がトナカイの写真を撮ろうと島に飛行機を送った。しかしトナカイを見つけることができず、クルーは山の多い地形のためにパイロットが低空飛行したがらなかったせいにしていたが、彼らは島のトナカイが42頭を残し全滅していたことをわかっていなかった。苔の代わりに島はトナカイの骸骨に覆われていたのである。

 セントマシュー島のトナカイのネットワークは崩壊していたのだ。個体数が増え過ぎ、消費し過ぎた結果である。トナカイは自然が補充できる苔の量を超えて食べるようになった時に、事の進展に重要なポイント、すなわちブレークポイントを超えたのである。ほんの数年のうちに残った42頭も死んでしまった。

 トナカイは野生においては、その場所の苔を食べつくすと新しい場所に移動し、一年後にトナカイが戻ってくるときには、苔で満たされている。当然のことながら島では移動という選択肢はない。 』

 

 『 デボラ・ゴードンはアリを研究している。年に1回、彼女はスタンフォード大学の職を離れ二人の子供たちに別れを告げて、シャベルとつるはしと学生を満載にしたバンでアリゾナ砂漠に向けて出発する。彼女は調査地の何百ものアリのコロニーそれぞれに名称をつけ、各コロニーのそばの岩に名前を書く。

 ゴードン博士と学生たちはアリにも標識をつける。彼らは日本製の特殊なマーカーを使ってアリの背中に特定の色を塗るのだ。かれこれ三十年にわたって、毎年毎年、デボラ・ゴートンはこのお決まりの作業を行っている。

 デボラ・ゴートンは、子供の時アリをじっと見て時間を過ごし、どうしていつも忙しそうなのか、どうしてまっすぐ行進するのか、大人になってからもずっと、それらの疑問に答えを出すことに打ち込んできた。やがてゴートン博士は生物学の三つの学位を取得し、いくつかの魅力的発見をした。

 アリのコロニーはいくつもの理由から興味深い。アリは地球上に一億年以上前から存在し、約一万二千もの分類種があり、南極を除くすべての大陸に生息する。彼らはコミュニケーションを交わし、自衛し、食べ物を求めて信じられないほど遠くまで出かけてゆく。アリをとことん研究することで、ゴートン博士は事実とフィクションを切り離すことができた。

 すべては、一匹の雌の羽アリが生まれ育った巣を離れて一匹もしくは複数の雄アリと交尾するところから始まる。雄は交尾を終えるとすぐ死んでしまう。交尾をしたあと、雌のアリは野原へ飛んでいき、適当な一区画を見つけて羽を落とし、土の中に小さな巣を堀り、複数の卵を産む。最初に産んだ卵を大切に世話し、大人になるまで育てる。

 大人になった若いアリはただちに食物集めをはじめ、巣を掘って保守し、幼虫やサナギの面倒を見る。最初の雌アリはいまやコロニーを女王であり、巣の奥深くで暮らす。やるべきことはただ一つ、産卵することである。彼女はせっせと卵を産み、最初の5年でアリの数は急激に増える。そのすべてが女王アリの息子であり娘である。

 興味深いのはここからだ。ここで何が起こるか、それを正確に明らかにしたのはデボラ・ゴートンである。女王アリは15年から20年生きて産卵を続けるが、5年目以降、コロニーのサイズはそれ以上大きくならないのだ(ゴートン博士はどうやって知ったか?ある年数を経たコロニーをいくつか掘り返して、一匹一匹、すべてのアリを数えたのだ)。

 女王アリにはいつも赤ちゃんアリがいるが、その赤ちゃんたちが年長のアリと入れ替わる(働きアリの寿命はわずか一年ほどである)、もしくはコロニーの外に送り出されて交尾し、自分のコロニーを創成するのである。アリのコロニーにはブレークポイントがあるのだ。

 「アリは利口ではアリません(アンツ・アーント・スマート)」ゴードン博士は簡潔にこう言っている。アリの脳細胞はおよそ二百五十万個くらしかない(それに対し、平均的なカエルの脳細胞は1600万である)。賢くないにもかかわらず、アリはかなり高度なことをする。コロニーがブレークポイントを超えて成熟すると、アリの集団知が増大する兆候を見せる。

 アリはフェロモンでコミニュケーションを取り、互いに情報をやりとりする。彼らは他のアリから受け取った情報をもとに、その仕事を引き受けるかを瞬時に決める。彼らはまた、コロニー内の未来のアリと時を経て情報を共有しているらしい。つまり、ある種の集団記憶を持っているのである。

 アリの群れは非常に複雑なルートを習い覚えていて、食料を持って帰ってくることができる。アリたちは自分たちの女王を保護し、自分たちの縄張りを捕食者や他の帝国主義的なアリのコロニーから守る。巣を清潔かつ手入れの行き届いた状態に保ち、ゆくゆくはコロニーの外へ出て交尾し、新しいコロニーを創世することになる、生まれたばかりのアリを養育する。

 さて、ここにこの小さな生物機械、アリがいる。アリは知能に関してはとても原始的だが、そのコロニーは非常に高度なことを行っている。大人のアリはグループや一つのユニットになって行動するとき、理論では理解できないくらい素晴らしくなる。そこから、アリの知能は個々のアリのものではなく、グループのものであることがわかる。

 「アリは利口ではアリません(アンツ・アーント・スマート)」だが、コロニーはまぎれもなく優秀である。一万匹からなる収穫アリの成熟したコロニーは総計二五〇億のニューロンを持つ。その数はチンパンジー一匹の五倍にあたる。コロニーの知能は最も高度な脳にさえ匹敵するまでに成長する。

 コロニーは時間を記録できるし、複雑なナビゲーションを行うこともできる。アリたちは公衆衛生、経済、農業、さらには戦争(行為)すらも効果的に管理している。多くの点で、このコロニーの知能は回答を出す以上に多くの疑問を提示する。

 コロニーが成長を止めたあと、アリが賢くなるのはなぜ? なぜアリにとって今あるコロニーをどんどん大きくしていくよりも、新しいコロニーを創世するほうがいいのか? コロニーはブレークポイントを超えて成長することができたなら、ますます多くの知能を獲得していくのではないのか? そしてこれが何よりも重要なことなのだが、アリのネットワークからどうやて知能が生じるのか? 』

 

 『 もちろん、あなたはネットワークについてすべてを知っているはずだ。なぜなら、頭の中にかなり高度なネットワークを持っているからである。私たちの脳はもしかしたら最も複雑なネットワークかもしれない。しかし、アリのコロニーと同様に、お粗末なところもある。

 つい最近まで、脳はまさしく謎であった。脳の画像化技術の急激な進歩によって私たちの頭のなかを透かし見ることができるようになったのは、ここわずか五十年のことである。それまでは、脳は特殊なもの、知ることのできないもの、科学を超えた神秘的なものと考えられていた。

 そう信じている人は今日でもなお、少なくない。心臓をポンプに、眼をカメラのレンズに、関節をちょうつがいになぞらえるのは解かりやすい。人間の脳――頭蓋骨のなかにひっそりと収まっている。しわだらけでねばねばした一四〇〇グラムほどの塊――を、できる限り適切に類推させるものは何だろうか。アリである。

 つまるところ、脳は並はずれた機械的な仕事を行っている普通の臓器にすぎないのである。脳はアリのコロニーと同じく、基本的には巨大なネットワークである。ただ、アリではなくニューロンで構成されている。人間の脳には、大きさが一ミリにも満たないニューロンが約一〇〇〇億個ある。

 個々のニューロンはかなり愚かで、やっていることといえば、オンとオフの切り替えだけである。ところが、ひとかたまりになるとニューロンは緻密な計算をすること、決定すること、コミュニケーションをとること、そして情報を蓄積することができる。

 個々のニューロンは化学物質によって(これはアリと同じだ)、また同時に電流によってコミュニケーションをとる。すし詰め状態のニューロンは協同してパターンを構成し、そのパターンのおかげで私たちは考えたり、動いたり、コミュニケーションをとったりできるのである。

 「アリたちはいわば、コンテンツ(中身)のない小さなツイッター・メッセージを互いに送り合っているようなのです。彼らは受け取るメッセージの割合に応じて次に何をするかを決めるのです。インタラクション(相互作用)そのものが丸ごとメッセージになっている通信システムなのです」。ゴードン博士は彼女のアリのことをこう言っているが、これは彼女の脳のなかのニューロンにもあてはまるだろう。

 アリのコロニーと同じように、人間の脳も初めは急速に成長する。子供の頃の成長によってネットワーク結合がつくられるのだ。互いに100兆回もつながり合った何千億ものニューロンのことである。その結合はまさしく、オン/オフ情報の小さなビットに沿って処理する方法なのである。これは頭脳の言語である。 』

 

 『 しかし一匹のアリがコロニーを賢くするのではないのと同様に、ニューロンが私たちを賢くする何かだと思わないでもらいたい。アリもニューロンも、それぞれが属するネットワークがなかったら無能なのである。アリもニューロンもその意のままにさせておくと、例えば、何匹かのアリをコロニーの外に出すと、消耗して死んでしまうまで、その場をぐるぐる回り続ける。

 人間の場合、生まれてくるまでに大半のニューロンは形成されているが、生まれたときはまだほんの赤ん坊である。ネットワーク結合もまた、私たちを賢くしてくれるわけではない。実際、成長するとともにほとんどの結合は失われていくのだ。脳は最も弱い結合を定期的に取り除き、欠陥のあるニューロンを”細胞の自殺(アポトーシス)”と呼ばれる自然のプロセスで取り去る。

 それは量の多さを質に置き換え、私たちを追加の量を必要とせずに賢くする。脳が成長を止め、量的均衡点に達すると、質的な成長が始まる。私たちは知性を得て、賢くなるのである。

 ここは重要な生物学的ポイントで、何度でも繰り返す価値がある。脳は縮むと賢くなるのである。ゴートン博士の収穫アリのコロニーもまったく同じである。コロニーは五年目に均衡に達すると、約一万匹を残してあとはすべて切り捨てる。この時点で、コロニーにいくつかの変化が生じる。

 思い出してほしい。コロニーが成長を止めると、再生産(生殖)が始まる。繁殖力のある雌は雄とともにコロニーから送り出され、交尾して新しいコロニーを作る。これで元のコロニーは大きくなりすぎないですむ。同時に、人間の脳のニューロン・ネットワークとまったく同じように、アリのコロニーは小さくなって、逆に賢くなる。様々な出来事に対する彼らの反応はより素早く、正確になり、より堅実になる。

 このことをゴードン博士は知っている。コロニーに出かけていって、巣をめちゃくちゃにしたり、あちこちに爪楊枝をばらまいたりしてアリをいじめたからだ。彼女は五年以上経ったコロニーで実験を行ったとき、アリたちはその都度、首尾一貫した反応を示すことを知った。彼らは、「恒常性が高まっていました。もっとひどい目に遭わせたり、混乱させたりしても、コロニーは何事もなかったように行動したのです。一方、若い小規模なコロニーでは反応は様々でした」。

 爆発的な成長の段階を終えると、コロニーはその焦点を量から質へ移すようだ。コロニーそのものは人間の脳とまったく同様に、聡明なネットワークになる。そして、もっと広く自然界を見渡せば、このパターンはあらゆる生物のネットワークにあてはまることがすぐにわかる。 』

 

 『 もしあなたが、私たち人間を他の動物界から隔てているものは何か、一つ挙げよと言われたら、答えは以下のどれになるだろう。二足歩行、他の指と向かい合わせにできる親指、火の利用。これら三点はもちろん重要だが、ハーバード大学の人類学者リチャード・ランガムは四つ目の新説をを唱え、それはブラジルのリオ・デ・ジャネイロ連邦大学の神経科学者、スザーナ・エルクラーノ=アウゼルの調査によって最近裏付けられた。

 彼らは、私たち人間を際立たせているのは調理する能力だというのだ。私たち人間が他の人類猿より脳を発達させるためには、毎日のカロリーの摂取量を七〇〇キロカロリー以上増やす必要があった。今日では簡単そうだが、思い出してほしい、私たちは当初生食で生活していたのだ。それは、私たちの祖先にとって大きな問題となった。

 生のものを食べるのはものすごく時間がかかるのだ。ゴリラは、私たち人間の三分の一のサイズの脳を維持するのに必要なカロリーの食料探しと摂取に、一日の八〇パーセント近くを費やしている。私たちの脳をサルのサイズから人間のサイズに成長させるためには、毎日九時間以上も野菜をバリバリ食べ、生肉を噛まなければならない。

 これでは他のことに費やせる時間はほとんどなくなり、私たちの脳を無用にする。食べ物は調理すると実質的に組成が変化し、調理された食べ物はより速く食べることができるし、消化も速い。調理することで、私たちの祖先は、他の方法よりも多くのカロリーを摂取するようになり、お腹を空かせている育ち盛りで空腹な脳にエネルギーを供給することができたし、その脳を使う時間もできたのだ。

 エルクラーノ=アウゼルは自分の発見を全米科学アカデミーに報告した後、「私たちが他のいかなる動物よりも多くのニューロンを持っているのは、調理が質的な変化をもたらしたからです」とまで言った。人間が他の動物と大きく異なるのは、調理によって他の動物より大きな脳を維持できるところまでエネルギーの摂取量を増やすのとができたからである。

 私たちは、人間が賢くなったのは、木から下りたからだとか、二足歩行をするようになったからだとか、火を発見したからだとか信じていたが、もしかしたら大食いだったからなのかもしれない。人類は他の動物が手に入れることができなかった効率を創造することで、自分の環境収容力を増加させた。

 エルクラーノ=アウゼルが言うように「そのことを考えれば考えるほど、キッチンに敬意を表して頭を下げる。それが私たちがここにいる理由なのだ」 』

 

 『 過去数年にわたって私は、誰かあるいは何かに自分の脳をいじくり回されたり、神経回路を配置替えされたり、記憶のプログラムを作り直されているかのような不快感を抱いている。私が把握している限り、思考がどうかなっているというわけではないのだが、変わりつつある。

 私はかつて考えていたようには考えない……ネットのせいで、集中力やじっくり考える能力が衰えているように感じるのだ。私の思考は今、ネットがばらまくままに情報を取り込んでいる。それは素早く動く粒子の流れのなかにある。かって私は言葉の海のスキューバ・ダイバーだった。今はジェットスキーに乗っているかのように水面を素早く走り抜けるだけだ。

 二〇〇八年にアトランティック誌に記載され、広く読まれたニコラス・G・カー の記事「グーグルは我々を愚かにしている?(Is Google Making Us Stupid?)」は、このように始まっている。カーはこの論点を、ベストセラーでピューリッツァー賞候補になった著書「ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること(The shallows: What the Internet Is Doing Our Breains)」の中でも展開していおり、彼と同年輩の多くの人たちがウェブへの依存状態は危険であると、彼の意見に同意している。(shallow 浅薄(あさはか)) 』

 

 『 ソ連崩壊の後、ロンドンのエコノミストがロシアのサンクトペテルブルクの役人から質問を受けた。「ロンドンの全住民のパンを供給しているのは誰ですか?」。民主主義国家に住んでいる人にとっては、ほとんど理解不可能な質問である。奇妙な質問だとかたづけてしまっては問題点を軽視することになる。

 英国人のエコノミストは笑いをこらえて真面目に回答した。それはどういう意味だ、誰が担当しているかって――「誰も担当していない」。日常生活のあらゆることが中央政府によって計画されている環境に慣れていた新体制の資本主義ロシアの役人には、繁栄しているサプライチェーンネットワークがひとりでに生じたとは信じられないことだった。

 そのように考えると、複雑な仕事が、誰も担当しなくても達成されるのはまさしく信じられないことなのである。しかし、自由市場はそのように機能するのだ。自由市場は限られた中央政府の指揮、限られた官僚制度、限られた規制によって反映する。

 自由市場では、企業のネットワークが、様々な事柄の複雑な連鎖に依存したサービスを途切れることなく提供する。中央で指揮する人なしに製品を消費者に届けるためには、パンのような単純なものでさえ、パン生地製造業者、パン屋、店頭販売員、その他多くの企業が途切れることなく働かなくてはならない。

 英国人エコノミストでさえ、その質問について考えた後で、自分の答えが自明のものであることを撤回した。「そのことについて注意深く考えると、答えは驚くほど信じがたいものだった」

 もしかしたらそれが、科学者たちが二十世紀になるまで脳が中央統制を持たないことを解明できなかったことや、女王アリも他のアリもコロニーを監督しないことの理由かもしれない。もしかしたらアメリカ政府は一九九五年にインターネットの管理をやめたときにそれを理解していたのかもしれない。

 もしかしたら、一九九三年に、ウェブは誰もが自由に使えるようになるだろうと賢明にも発表した時点で、ワールド・ワイドウェブ発祥の地である欧州原子核研究機構(CERN)にとっても明らかだったのかもしれない。

 従って私たちお気に入りのネットワークである脳、アリのコロニー、インターネット、ウェブはすべて自ら組織されているのだ。数ポンドを持った英国人なら誰でもパンを一斤買えることを保証する、ロンドンの小麦生産者、パン屋、食料品店のネットワークのように、誰も統括していないのだ。 』

 

 『 ほとんどの人は、サーチエンジンを情報を見つけるためのものと思っている。さらに「検索」という言葉は「見つける」とペアで使われがちである。そして、見つけることが第一世代のサーチエンジンが行っていたことなのである。それらのサーチエンジンはできる限り数多くのページを見つけた。

 しかしながら、毎日10億ページがウェブに加えられる世界では、いいもの、素晴らしいものもあるが、大半は全く価値のないものである。そこで、サーチエンジンの主たる目的はフィルター機能となる。見つけるのではなく、排除するわけだ。

 10の100乗という巨大な数字に因んで名づけられたグーグルは、索引付のページの量から、検索結果の質へと焦点を移して根本的に変わった。このような変化へのニーズはインターネットの成長と共にはっきりしてきた。偶然ではない。脳も情報を思い出したり検索したりするときに同じことを行う。重要なものに適切な価値を割り当て、それ以外のものを捨てる。

 インターネット上で、どうやったら振るい落すものと維持するものを判断できるだろうか?人間が最も価値があるとみなすものを、どうやったらコンピュータープログラムが判断できるだろう?グーグルはそれらの問題を解決する単純なコンセプトで、新世代の検索への道を開いた。ウェブサイトの重要性は他のウェブサイトとのリンクがどれくらいあるかに正比例する。

 そして、リンクの数だけでなく、リンクの質もまた問題なのである。最良と考えられるウェブサイトは、多くの信頼できるウェブサイトとリンクされている。これはジェリー自身がウェブサイトの質を審査し、彼がそのサイトを気に入ったらリストに載せていた「ジェリーのワールド・ワイド・ウェブ・ガイド」を思い起させる。

 唯一グーグルだけが、ジェリーの役割を、それぞれのサイトを構築しリンクを選んでいる数百万人のウェブマスター(サイトの管理者)に置き換えたのである。もしウェブマスターがあるページにリンクしたら、その人はそのサイトを支持したことになる、というアイデアである。

 そこには数百万人のジュリーがいて、グーグルは基本的にそれぞれの推薦を集めてウェブサイトをランク付けし、ユーザーがそのページを最初に見たいか、あるいは五番目か一〇〇番目かを決定する。その結果、検索結果の中で最も良いリンクが付いたサイトが一番上に表示される。

 もちろん、ひとたびグーグルのトップを獲得したサイトは、さらに人気が出てより多くのリンクを獲得する。聞き覚えがあるだろうか?あるはずだ。なぜならそれが脳の作用だからだ。最も豊かなつながりを持つ最良のニューロンが、その周りの他のニューロンのほとんどとつながっているからである。

 Yahoo!では、ジェリーがサーチエンジンの裏にある脳だった。グーグルではインターネット自身が脳のように働くのである。グーグルのアルゴリズムは、独自の方法で、散乱したゴミを片づけて良いものを見つける脳の機能を模倣している。リンクの関連性を評価するグーグルの方法はまさに単純な自然のネットワークと同じように働く。

 ニューロン間のリンクは、どれだけ他のニューロンとの関連性を持っているかで、重要性をはかられる。また、その重要性が活動を引き起こしたり制御したりしている。グーグルは似たような構造を使って、検索結果を通じてウェブサイトをランク付けしたり抑制したりしている。 』

 

 『 十七世紀後半、ジェームズ・マレー教授はオックスフォード大学出版から仕事を課せられたが、それはまたとない機会だった。「語彙の完全性と、生活と言葉の使い方についての歴史的手法の応用によって、英語と英語学にとって価値が出るかもしれない」辞書を作るというものだった。 

 そのころのほとんどの辞典では話し言葉や科学用語は大半が無視され、言葉の歴史はほとんどすべて除外されていたため、そのアイデアは興味深かった。オックスフォードの提案はマレーに数多くの課題を与えた。まず、既にたくさんの英語辞典があったので、新しいものはユニークでなければならなかった。

 次に、辞書は高価で、編纂するのに時間がかかった。最後にオックスフォードの名前が付いた辞典は他より優れたものである必要があった。新しい辞書を編纂する代わりに、同僚の一団に項目作りをさせるという新しい編集戦略を採用した。

 マレー自身の役割は辞書を作ることではなかった。その代り、彼は全体の編集者となった。この方法を取ることで、マレーは専門家を雇う費用を削減し、大衆のもつ多様性を利用した。最初の数年間で、マレーは、大量の言葉とその意味が書かれた紙片を何万人ものボランティアの寄稿者から受け取った。

 五年後にオックスフォード英語辞典の初版が出版された。世紀が変わっても辞典の仕事は完成版が出版されるまで続いた。それは秀でた英語辞典となり、今日も金字塔的な存在であり続けている。

 このクラウドソースの仕事の成功が、ウィキペディアやワールド・ワイド・ウェブの前になされていることを考えると驚くべきことだ。しかしそんな言い方では、この話の本当のすごい歴史的背景をないがしろにしている。オックスフォード英語辞典は二十世紀に考え出されたものではなく、一〇〇年以上前の一八八四年に始まったのだ!クラウドソーシングはとても古くからあるのだ。

 マレーの辞典をウィキペディアと比べて際立たせている、時代よりももっと重要なことがある。ウィキペディアは項目がすべて大衆によって書かれ編集されているのに対して、マレーは、オックスフォード英語辞典全体を監修する編集長であり続けた。色々の意味で、マレーのこの制限をつけた創作物は、現在ウィキペディアに欠けている質の豊かさを与える。 』

 

 『 ホヤの一生で最初にして最重要の仕事は、住む場所を見つけることである。メクラウナギやヤツメウナギに近いこの小さな海洋生物は海中を泳ぎ回り、いろいろな場所のプラス面とマイナス面を秤にかける。海底や海中の岩、ときには船体の一部分が検討対象になる。

 ホヤは申し分ない場所を見つけると、そこに付着し、終の棲みかとする。ホヤは一生を、この場所で過ごし、ただ一つの作業をする。海水からフィルターをかけて食料となるプランクトンを取り出し、残った水をはきだすのである。

 この作業は呼吸のように自動的に行われ、知力をほとんど必要としない。いい岩を見つけると、ホヤは棲みかを見つけるのを助けてくれた脳をもはや必要としないと判断して、食べてしまうのだ!その後は、脳を持っていたときよりも遥かに少ないカロリーしか必要としなくなる。実に賢い。

 自分の脳を食べてしまうことは、小さなホヤやその仲間たちにとってかなり好都合なのだ。ホヤは五億年以上前、カンブリア紀の初め頃から地球上に存在する。すべての動物の主たる目標は長期にわたって生き残ることで、その目標達成のために、多くの生物はホヤと同様に独自の技を開発している。

 アカガエルは心臓の機能に影響があるほど寒いとき、体のほぼ半分を麻痺させて、一時的に心臓の鼓動を止めてしまう。ある種のオオアリは、強敵に直面したとき、身をよじって、自分の体を破裂させ、敵に毒を浴びせる。

 そのアリは死ぬが、敵を殺し、自らを犠牲にして残りのコロニーを強敵の脅威から守るのでる。カエルであろうと、アリのコロニーであろうと、ホヤであろうと、いかなる種も最終目標はどんな犠牲を払ってでも長く生き残ることである。 』

 

  『 言語学者たちは、子供にとって第一言語を習得するのが最も容易となる重要な発達の時期があることを知った。このコンセプトは一九五九年にマギル大学の神経学者、ワイルダー・ペンフィールドによって初めて理論的に取り上げられ、その後の研究で立証された。

 いくつかの点で異議を唱える学者もいたが、第一言語を習得する重大な時期は生後四ヵ月から五歳までの間であることが一般的に認められた。この時期を過ぎると第一言語を取得することは非常に難しくなる。(第二言語を習得するのにも重大な時期が存在すると信じられている。この段階はだいたい思春期までで、この時期を過ぎると言語習得は一般にもっと難しくなる)。

 この重要な時期についての理由は、成長期の間は、ブレークポイントを超えたあとよりも、脳がはるかに柔軟だと広く信じられているからである。ニューロン接続が成長している間は、脳は非常に適用性があり、そのため学習は促進される。それらのつながりが失われると、脳はより高度に調整されるが、より硬直化もする。

 結果的に、学習し、順応することができる柔軟なニューロンを必要とする言語習得は、子供のほうがはるかに容易なのだ。中年期以降の言語習得は、ニューロンがいっそう固まっているため、より難しくなる。

 もう一つの理論も同じようにもっともらしい。脳のブレークポイントの後、言語を符号化するのに必要なニューロンのつながりを相当数失うようだというのである。一旦脳が第一言語を習得したら、複数言語を持つことに進化的な利益はほとんどないので、それらの高くつくネットワークは必要なくなる。

 この説については、ハーバード大学の言語学者、スティーヴン・ピンカーは自書「言語を生み出す本能」で説得力のある論拠を記している。「言語習得の回路は一回使われたら必要なくなる。その回路は取り除くべきで、もし持ち続けると負担を生じる。……実用性を超えたポイントの辺りにある貪欲な神経組織はリサイクル用ゴミ箱行にふさわしい」

 どちらの理論が正しいにせよ、言語学習には、独自のブレークポイントがあり、それは脳のネットワークの段階とは異なることは明らかで、言語習得には成長段階、ブレークポイント、そして均衡時期がある。 』

 

 『 イタリアのパルマ大学に勤務する神経科学者ジャコモ・リッツォラッティは、サルが手を伸ばしてモノをつかむ時のニューロンの反応について研究していた。リッツォラッティはサルの脳に電極を埋め込んで、サルが一握りのナッツをつかむたびにニューロンが予想通りに発火するのを観察した。

 この実験は目新しいものでもないし、刺激的なものでもなかった。リッツォラッティは神経科学者がとっくの昔に確認したプロセスを研究していたのだ。体は運動皮質のニューロンが反応して動く。しかし、その時、意外なことが起こった。ある大学院生がアイスクリームコーンを手にして研究所に入ってきた。

 サルが関心を移し学生がアイスクリームを食べ始めるのを見た……すると、サルの運動ニューロンが活性化したのだ。当時の認識だと、この結果はあるはずがないことだった。個々のニューロンは単一の単純作業しかしないと想定されていた。ニューロンは狭量で、運動ニューロンは自身の運動皮質で活動発火し、他の誰かの行動で反応しない。

 そしてここが最も重要なところだが、ニューロンは私たちの行動や他の人の行動をたどることはできず、そのような動きはしないと思われていた。それはあたかも車があなたのアクセスペダルを踏む圧力に反応するだけでなく、道路を走る他の車の運転手が踏み込んだアクセスペダルにも反応するようなものである。

 神経学者のリッツォラッティは誰よりも深くこのことを理解していた。彼が最初に出した結論は単純で、実験器具が壊れているか、ニューロンが不適切につながっていたというものだった。そこで彼は別の機械を使って、別のサルで、別の脳の領域で何度か実験を行った。いずれも結果は同じだった。

 ニューロンは他人の行動に反応して発火するのである。リッツォラッティは現在ミラーニューロンと呼ばれている新しいタイプのニューロンを発見した。過去十年以上にわたり、他の神経科学者たちはリッツォラッティの実験結果と同じ結果を出し、そのニューロンが人間にも存在することを証明した。

 ミラーニューロンは実に驚くべきものであり、また、私たちが脳についてどう考えるかの見直しを迫るものだ。それはとりわけ人間に言える。私たちは他のどんな動物よりも、はるかに多くのミラーニューロンを持っており、ミラーニューロン自体ももっとずっと複雑であることが立証されている。

 神経科学者たちは、今やミラーニューロンが、特に共感、文化、言語の分野に於いて、私たちの認識能力の大半の原因となると信じている。常に大胆な神経科学者、V・S・ラマチャンドランは「DNAが生物学に及ぼしたことを、ミラーニューロンは心理学に及ぼすだろう」とまで極言した。

 ミラーニューロンはホムクルス(かって精子の中に存在すると考えられていた超小人)でもなければ知的でもない。しかしミラーニューロンは他のニューロンにできないことができる。予測することである。運動皮質の中のミラーニューロンは行動の意図を見分けることができる(アイスクリームコーンを持つこととそれを食べること)。

 どういうわけか、ミラーニューロンは本当の意図のみに発火し、無意味な行動やでたらめな身振りには発火しないのだ。南カリフォルニア大学の神経科学者マイケル・アルビブは、ミラーニューロンをその全コンテクストで説明した。

 「運動皮質の直前にある前運動皮質に位置するニューロンは、他人の行動の意味を理解する仕組みなのです」

 しかし、ミラーニューロンはそれ以上のことを行う。脳のほとんどの部分で見られることだが、ニューロンは共通点のない情報を共通点のないテーマでつなぎ、文字通り点と点を結んで全容を明らかにすることを可能にする。

 私たちは誰かがアイスクリームを食べるのを見て行動のミラーニューロンを発火させる。それが運動皮質を活性化させる、あるいは行為を真似させるようなことはなくても、誰か他の人の行動を私たちの脳に効果的にリンクして、脳の他の分野から反応を引き出すようだ。ミラーニューロンは私たちに共感を与え、他の人たちを私たちの生活のコンテクストに入れる。

 私たちが言葉と意味をどうやってつなげたかをワードネット(ワード間の意味による相互ネットワーク)が証明したのに対して、ミラーニューロンは実際に言語の習得に必要な構成部品を供給した。結局言葉は言語パズルのほんの一片でしかないことがわかった。残りは予測することを可能にするところから来る。私たちがどうやって言語を習得するかという洞察を探し求める科学者たちは、その答えをミラーニューロンに見出すかもしれない。 

 生後数週間の乳児は周りにいる人々の真似を始める。しかしそれは鳥もチンパンジーや犬でさえ同じようにする。他の人が話す時のように舌と口を動かす、他の人が歩くように腕と足を動かす、他の人の動きに合わせて頭と目を動かす、他の人の表現に反応して微笑んだり眉間にしわを寄せたりする。

 こういう振る舞いはたいてい自動的にされている。純粋に物真似であり、意志や意味に裏打ちされているわけではない。しかし最終的によちよち歩きの幼児は目的物を探し始める。はじめは頭を使わない物真似をしているが、脳が発達すると、理解して物真似するように変わる。こうして幼児は言語を学ぶことができるのである。

 これは、ブレークポイントへと近づきつつある脳の成長期間中、幼児期早期にミラーニューロンの発達の結果として起こるようである。一旦発達すると、複雑なパターンが現れる時、ミラーニューロンは脳内で発火する。ミラーニューロンは言語と脳の運動野とをつなぎ、行動(話す、書く、身振り、手話)と意図を複雑につなげる。

 注目すべきは、ミラーニューロンが最初に発見されたのは、話すことができないサルだったことだ。霊長類のミラーニューロンは人類のそれと比べて原始的なため、多くの意味あるつながりを形成できない。

 つまり、複雑な言語を開発する能力を制限する。代わりに、霊長類は他者の意図よりも環境について予測するのにミラーニューロンを使って原始的な方法でコミニュケーションをとる。 』(第66回) 


ブックハンター「パブロ・カザルス」

2014-11-20 13:03:22 | 独学

 66. パブロ・カザロス (ジャン=ジャック・ブデュ著 2014年7月 Copyright 2012)

 『 カタルーニャの中心都市バルセロナの南に広がる平野には、たくさんの小さな町があった。その中のひとつ、約4000人の住民を数えるエル・ベンドレルの、サンタ・アナ通り2番地に、カルロスとピラールのカザルス夫妻が住んでいた。バルセロナの労働地区で1852年に生まれたカルロスは、エル・ベンドレルの教会のオルガニストで音楽教師だった。

 ピラールはカタルーニャ人だが、彼女自身はスペインの植民地だったカリブ海の島プエルトリコで1853年に生まれ、父親の死後、1870年にエル・ベンドレルへきた。ピラールはカルロスからピアノのレッスンを受けるようになり、ふたりは恋に落ち、1874年に結婚した。夫婦のあいだには11人の子どもが生れたが、無事に成長したのは3人の息子だけだった。

 一番上の息子パブロは、夫婦の最初の子どもが生後すぐになくなったあと、1876年12月29日に生まれた。子どものころの数少ない彼の写真からは、意志が強く自信に満ちた鋭敏さが感じられる。カルロスは息子が幼いころから、「男は泣くもんじゃない」といって育てた。事実、10歳のとき、狂犬にかまれて死にかけたカザルス少年は、バルセロナの病院で口にハンカチを押しこんで、64本の血清注射に耐えている。(この時、バルセロナの病院では実験的に、ルイ・パスツールの狂犬病血清を使い始めていたのである)

カザルスは、4歳で、鍵盤が見えなくても父が鳴らす和音をいいあてた。7歳で、父と一緒にキリストの降誕をテーマにした「ロス・パストルシーリョス」を書いた。もう少し大きくなって、教会のパイプオルガンのペダルに足が届くようになると、ピアノにかわってオルガンを弾くようになった。

 カザルスが11歳のとき、バルセロナ市立音楽学校のチェリストのジュゼップ・ガルシーアひきいる三重奏団が、エル・ベンドレルでコンサートを行った。はじめてチェロの音を聴いたカザルスはその音に魅了され、急いで家に戻ると「パパ、いままでぼくが聴いたなかで、もっとも美しい音の楽器だったよ。あれこそ、ぼくが演奏したい楽器なんだ」と父親にいった。

 しかし、父カルロスは耳を貸さなかった。彼は、息子に音楽の才能があることはわかっていたが、音楽では金にならないことも知っていた。彼は息子を大工にするつもりだった。息子の将来をめぐって、夫婦は口論した。ピラールは夫に反対し、たとえもっと生活が厳しくなっても、チェロを勉強をさせるためにカザルスをバルセロナへ行かせると主張した。

 カザルスは、ピラールの遠い親戚でバルセロナの労働者地区に住む、大工のバネット・ブイシャドスの家に預けられた。カザルスはチェロの才能に恵まれていたため、すぐにレッスンの必要がなくなった。そればかりか、クラスメートや教師までもが驚くなかで、彼はチェロの奏法を改革した。

 当時、チェロは肘を体につけて、腕をかたくしたまま演奏するのものとされていた。しかし、カザルスは、それまで誰も疑問に思わなかったこの決まりごとが不合理だと考えて、肘を体から離し、腕をやわらかくしてチェロを演奏した。そうすると、弓を自由に動かすことができるようになった。

 さらに彼は、3つの半音ではなく4つの半音に届くよう、左手の指を開く指使いを積極的にしようとした。彼以前に、楽器の技法の改革を試みた人物には、イタリアのヴァイオリニストのパガニーニやハンガリー生まれのピアニストのリストがいる。カザルスにとって、ジョゼップ・ガルシーア以上の教師を望むことは難しかった。

 チェロは長いあいだ世に埋もれてきた楽器で、当時の演目はかなり限られたものだったので、演奏する人は少なかった。最初のころ、カザルスはガルシーアの言うことを素直に従っていたが、やがて自分の思いどおりに練習するようになった。それを見てガルシーアは、はじめはあきれたり目を丸くしていたが、結局はカザルスの非凡な才能を認めざるを得なかった。いちじるしい進歩をとげたカザルスに、ガルシーアは作曲も教えはじめ、カザルスは長時間ピアノに向かって過ごすようになった。 』

 

 『 カザルスの才能は、カフェ・トストで知れわたるようになった。当時12歳だったカザルスは、一晩4ペセタの報酬で一日3時間、週3回、カフェ・トストでチェロを弾いた。まもなく、彼は「エル・ネン」(カタルーニャ語で「少年」の意味)と呼ばれて、人気を集めるようになった。

 ある晩、カタルーニャの有名なピアニストで作曲家のイザーク・アルベニスが、カザルスのチェロを聴きにやってきた。情熱的で陽気な彼は、すぐにカザルスの演奏に心を奪われ、演奏が終わると彼にかけよって抱きしめた。そして、自分たちのロンドンの公演に一緒に行く許可をピラールに求めた。

 しかしピラールは、その申し出をきっぱりと断った。「息子はまだ、子供です。勉強をきちんと終える必要があるのです」。アルベニスはピラールの言葉を受け入れざるを得なかったが、それでも、スペインの摂政の個人秘書であるモルフィ伯爵への推薦状を彼女に手渡した。ピラールは、しかるべきときが来るまで、この推薦状を大切に保管した。

 1890年に、カザルスの人生における大事件が起きた。そのころカザルスは、カフェ・トストをやめて、バルセロナの有名なカフェ・レストランであるラ・パジャレーラの仕事を見つけていた。父カルロスは、カザルスにチェロを買ってやり、ラ・パジャレーラで演奏するための新しい楽譜を二人で探しに行った。 

 港近くの界隈を歩いていると、古くてかび臭い店があった。店入ると、カザルスはまず、ベートーヴェンの「チェロとピアノのためのソナタ」を手にとった。そのあと、ほこりだらけの楽譜の山から、バッハの「無伴奏チェロ組曲」を発見した。カザルスは、誰かがこの曲を練習しているところも、コンサートで弾いているところも見たことがなかった。

 事実、この曲は書かれてから一世紀後に、ドイツの作曲家ロベルト・シューマンが忘却の彼方から救いだして、ピアノの伴奏をつけたことがあるだけだった。この作品は無味乾燥で、とくに6曲あるすべてを通して演奏するのは、退屈すぎると考えられていた。この作品がふさわしい地位をとりもどすためには、カザルスの天才的な力が必要だった。カザルスは12年間も練習したあと、ようやく公衆のの前で披露し、この作品の独創性を広く知らしめたのである。 』

 

 『 この楽譜の発見はカザルスの生涯における重大事件だった。彼はその楽譜を手に入れて家にもちかえり、組曲を通して弾いてみて、自分の魂に最も近い音楽を見つけたと実感した。カザルスは後につぎのように語っている。

 ”私は興奮にうち震えながら弾き始めた。それは私にとって最も愛おしい音楽になった……当時私は十三歳だったが、それから八十年間、その発見の驚異はずっと私の中で大きくなり続けている。あの組曲が私の前にまったく新しい世界を広げてくれたのだ” 

 彼がソロ活動を始めたばかり時期に、彼はその組曲をリサイタルのプログラムに取り入れるようになった。しかし、その組曲がカザルスの代名詞となり、何百回とそれを演奏したにも関わらず、彼は演奏するたびに深い愛情と尊敬の念――そして畏れさえ感じていたのだった。彼は自分の編纂した版の出版を断り、録音もたった一度、極度の重圧を味わった後、1936年から1939年にかけて行っただけである。カザルスにとって、バッハの音楽は彼の染色体の一部のようなものだ、それは感情的かつ本能的に、彼の世界観を凝縮している。 』 (この部分は「パブロ・カザルスの生涯」ロバート・バルドック著による)

 

 『 14歳のとき、カザルスのチェロの教師をしていたジュゼップ・ガルシーアは、「もう、あの子に教えることはなにもない」とカザルスの父に告白した。カフェ・トストの経営者は、カザルスを25歳の作曲家シュトラウスが指揮するコンサートにつれて行って、ブラームスやワーグナーの作品が演奏されるコンサートと新しい音楽に触れて驚嘆した。

 しかし、16歳になったカザルスは、1893年春、バルセロナを後にし、母とふたりの弟と一緒に、イサーク・アルベニスが書いた推薦状をもってカザルスは、宮廷顧問で摂政の個人秘書だったモルフィ伯爵にあたたかくむかえられた。音楽愛好家で、才能のある人物を見つけることが好きだったモルフィは、カザルスの書いた曲を聴くと、感動して、「パブロ、きみは本物の芸術家だ」と叫んだ。

 マリア=クリスティーナ女王の前でチェロを披露したカザルスは、女王から当時としては大金である毎月250ペセタの奨学金をあたえられることになった。モルフィはカザルスに特別な教育をほどこした。ドイツ人でリストのもとでピアノを学んだモルフィ侯爵夫人は、カザルスにドイツ語を教えた。カザルスを実の息子のように思っていたモルフィのもとで、彼は文学、哲学、数学、歴史、美術を学んだ。毎週、プラド美術館へ行って有名な画家の作品を鑑賞した。

 マドリードで3年間を過ごしたあと、宮廷でのさまざまな駆け引きに疲れ果て、このままでは息子がたんなるオペラの作曲家となって生涯を終えてしまうと心配した母ピラールは、モルフィ伯爵と衝突した。彼女はバルセロナに戻る宣言したが、王家の支持を受けていたモルフィはそれを拒んだ。数ヵ月にわたる交渉の末、弦楽器の教育の評判の高かったベルギーのブリュッセル王立音楽院へ、チェロの勉強のために行かせることで合意した。

 この音楽院の誰もがこの「スペインの少年」の才能に疑問をもち、ないがしろにした。教室の一番うしろの席に座ったカザルスには、屈辱が待ち受けていた。授業の最後に、ようやくカザルスの演奏を聴いてやろうと、教師が彼にどんな曲が弾けるのかとたずねた。カザルスがどんな曲でも弾けると答えると、教師は皮肉っぽく叫んだ。

 「見事なものじゃないか! このスペインくんは、なんでも演奏なさるそうだよ。大変なお方に違いない」生徒たちは笑い、カザルスは怒りに震えた。教師は、これ以上難解な曲はないフランソワ・セルヴェの「スパの思い出」を弾くようにいった。カザルスは近くの生徒が手にしていたチェロをつかむと、調弦もそこそこに、見事な演奏を披露した。教室は静まりかえった。

 教師は即座にカザルスを自分の部屋によび、慣例に反して、音楽院の一等を保障するといった。誇り高きカザルスは、こう言い放った。「先生、先ほどあなたは私に対して無礼でした。生徒たちの前で、私を笑いものにしました。私は一秒たりとも、この場にとどまるつもりはありません」

 1895年、自分の名誉を守ったカザルスはパリへ行くこと決意した。モルフィはカザルスの選択を認めず、女王の奨学金は打ち切られ、この年の冬は寒さが厳しく、カザルスは赤痢にかかった。状況は悪化し、故郷のエル・ベンドレルでカルロスが工面した旅費で、故郷に帰った。 』

 

 『 3年以上生まれ故郷を留守にしたカザルスは、悲惨な経験からなんとか立ち直った。とくに期待もせず、音楽学校に顔を出すと、彼は「救世主」としてむかえられた。以前カザルスがチェロを教わったジュゼップ・ガルシーアがアルゼンチンへ行ってしまい、後任者が必要だったからである。

 こうしてカザルスは19歳で由緒あるバルセロナ市立音楽学校の教師となり、さらにリセウ大劇場の第1チェリストもつとめることになった。安心したピラールは、エル・ベンドレルの夫のもとに戻った。バルセロナで、カザルスは友人のピアニストのエンリケ・グラナドスやベルギーのヴァイオリニストのマチュー・クリックボームと再会した。

 彼はこの時期、演奏活動と、授業と、技術向上のための練習とで、多忙を極めた。教えることに自分の時間のほとんどを費やすことになったが、それはその後の彼の人生すべて について言えることだった。カザルスは二十世紀で最も偉大なチェロ教師の一人となった。恐らくこれは彼がこの世に残した永遠の遺産であろう。

 彼は七十五年間にわたり、自分が学ぶためには人に教えるということが欠かせないと考えていた。「教師というものはもちろん、生徒よりたくさんのことを知っていなければならない。しかし私にとっては、教えることが学ぶことだったのだ。」そして彼は教えながら、自分の技術をさらに磨き続けていった。

 学校が休みになる夏の時期には、スペイン各地をまわって演奏し、ポルトガルまで行って国王夫妻の前でチェロを弾いた。カザルスはモルフィ伯爵やクリスティーナ女王のことは忘れたことはなかった。思いきってモルフィ伯爵に手紙を書くと、愛情に満ちた返事が返ってきた。カザルスは、3年間のバルセロナ音楽学校を後にして、パリへ行くことにした。国際的な名声を得るためには、パリで活躍しなければならないと考えたからである。 』

  

 『 カザルスと再会したマリア=クリスティーナ女王 は、彼にエメラルドと高価なチェロをあたえた(彼はエメラルドを、自分の弓にはめこんだ)。モルフィ伯爵は、当代随一のオーケストラ指揮者シャルル・ラムルーあての推薦状を書いた。

 パリへ行く前、カザルスはオペラ歌手のエマ・ネヴァダに招かれてロンドン行き、クリスタル・パレスで最初のコンサートを開いた。そのあと、彼のうわさを聴きつけたヴィクトリア女王の前でサン・サーンスの協奏曲を弾いた。1899年11月、モルフィ伯爵の推薦状をもって、シャルル・ラムルーのもとを訪れた。

 しかし、多忙なラムルーは、自分が訪問者に邪魔されてばかりだと不平をいった。カザルスは「お仕事の邪魔をしてすいません。私はただ、モルフィ伯爵のお手紙をもってきただけなのです」といった。ラムルーは手紙を読むと、「もちろん才能はあるだろうよ。明日、チェロをもってまた来なさい」と冷たくいい放った。

 翌日、ラムルーは非常に難しいラロの協奏曲を弾くようカザルスにいった。最初の数小節を聴くと、ラムルーは持っていたペンを置き、リウマチで痛む体を起こした。演奏が終わると、彼は興奮して立ちあがり、目に涙をためながらカザルスをだきしめた。「きみこそ、選ばれた人間だ」

 1899年11月12日、カザルスは名門のラムルー管弦楽団で、ソリストとしてデビューし、大成功だった。残念なことに、モルフィ伯爵はそれを知ることができなかった。スイスで隠遁生活を送りはじめたモルフィ伯爵はすでになくなていた。

 パリでカザルスは、スペインの芸術家たちが大勢集まっていたモンマルトルのキャバレー「ラパン・アジル」近くにある、荒れはてた安ホテルで暮らしていた。しかし、今度はひどい狭心症になり、ふたたび寝たきりになった。

 カザルスの窮状を音楽家仲間から聞いたピアニストのアベル・ラムの未亡人は、カザルスをそのホテルから引きずりだして、有無をいわせず自分の家に住まわせた。ここでカザルスは元気になり、上流階級の人々が交流するサロンに出入りすることができた。

 このサロンでカザルスは、マルセル・プルースト、レオン・ドーデ、エミール・ゾラ、エリック・サティ、アルフレッド・コルトーなどに出会った。 』

 

 『 以下簡易年表より、主なもののみ記す。  1901年: アメリカでの初ツアーコンサート。 1904年: ルーズベルト大統領の招待で、ホワイトハウスで演奏。 1905年: コクトー、ティボーとともに三重奏団を結成しロシア演奏会。

 1914年: スーザン・メトカーフと結婚、ニュヨークに居を構える。 1931年: スペイン共和国誕生式典で、ベートーヴェンの「第九交響曲」を指揮する。 1939年: フランスへ亡命 。 1945年: 英ロイヤル・アルパート・ホールでコンサート。オックスフォード大とケンブリッジ大学の名誉博士号を拒否。

 1952年: プエルトリコ大学学長により招聘される。 1956年: プエルトリコでカザルス・フェスティバルを開催する、心臓発作で倒れる、マルタと結婚。 1960年: アカプリコで「鳥の歌」を初演。 1961年: ケネディ大統領の招待でホワイトハウスでコンサート。 

 1963年: 国連総会で「鳥の歌」を演奏。 1967年: 国連の記念日のためワシントンの憲法ホールで「鳥の歌」を演奏。 1971年: 「国連賛歌」を作曲し、国連総会で演奏、国連平和賞を受賞する。 1979年: 10月22日に、97歳で亡くなった。 』

 

 『 1951年の音楽祭のとき、叔父につきそわれた14歳の少女がカザルスにあいさつした。カリブ海の島プエルトリコ出身で、ニューヨークでチェロを学んでいるマルタ・モンタニュスというこの少女に、カザルスは母ピラールの面影を見た。カザルスがその次にマルティータ(マルタ)と再会するのは1954年11月チェロの指導を受けるために、プラードへ再びやって来た。

 彼女はメリーマウントとマニスの両校を優秀な成績で卒業し、サン=ファンで開かれたチェロ・コンテストで千ドルの賞金を獲得していた。地元の家に下宿し、自転車に乗ってカザルスのレッスンにやって来た。彼女はカザルスの姪のエンリケッタと仲良くなり、一緒に夕べを過ごした。

 1952年以降、カザルスはチェロのマスタークラスを担当するために、スイスのツェルマットへ行くようになっていた。そのころカザルスの事務的な仕事を一手に引き受けていたマルタは、カザルスの健康のことが気がかりだった。彼女は彼に、一緒に行かせてほしいと頼んだ。カザルスはある友人に、こう打ちあけている。

「そういうわけで、彼女はツェルマットに同行した。そこで彼女は、私が授業中に話したことを書きとめた。そのとき、私は初めて、彼女を愛し始めていることに気づいたのだ」 カザルスがマルタの何に魅せられたか、彼は一人ぽっちになり、彼女の寛大かつ明快な性格が、ぽっかり空いた心の穴を埋めたのだ。

 十八歳になるかならないかのマルタは、目を見張るような美女に成長していた。マルタは冷静沈着で、有能で、すべてを自分でこなせる人間だった。彼女はカザルスの生活をより快適に、エネルギーに満ちたものにした。

 スペイン語を母国語とし、また彼女はフランス語、英語をよくし、カタロニア語も素早く身につけた。音楽的には、天賦の才能を有し、しっかりした訓練を重ねていた。それなくしてはカザルスの内的世界に入り込んではいけなかったろう。そしてマルタは、人を楽しませる能力にも大いに長けていた。

 カザルスとマルタの絆がとりわけ強かったのは、彼らの年齢差と大いに関係があった。七十八歳の巨匠と目も眩むようなぴちぴちの十八歳は、互いに居心地いい存在だった。1955年末、カザルスはマルタを連れて、初めてプエルトリコを訪れた。ふたりは1957年8月3日に結婚する。 』

 

 最後に、私(このブログの作成者)から、カザルスとバッハの「無伴奏チェロ組曲」について、私の考察をのべて終わりとします。私が述べたいのは、なぜ、バッハが「無伴奏チェロ組曲」を作曲(1720年頃)してから、一世紀もの間、顧みられなかったか。もう一つは、なぜ、カザルスは、バッハの「無伴奏チェロ組曲」の価値を見出し、97歳で亡くなるまで、練習し愛し続けられたのかの二つの疑問です。

 最初の疑問は、バッハが作曲して、カザルスが発見するまで、チェロの弦が羊の腸でつくられていたためこの難曲で、チェロを鳴らし切るには弱かったと考えられます。二つ目には、この難曲を弾き切るための、チェロの演奏技術がカザルスが、開発するまで困難であった。

 三つ目に、この「無伴奏チェロ組曲」は、華やかな舞踏会より、個人の心の内部(頭脳の内部)で響く音楽であるため、むしろ日本文化の”わび”、”さび”に近い気もするため、一世紀もの間、顧みられなかったと考えます。

 次に、1890年に、当時13歳のカザルスが、なぜ、バッハの「無伴奏チェロ組曲」の真価を発見できたかです。第一に、この曲は、チェロの可能性を最大限に引き出すため、チェロの可能性をバッハが、オルガンを用いて一世紀以上も、早く革新的な作曲をした6つの組曲で、あったためにバッハの時代に受け入れられなかった。

 そのために、この「無伴奏チェロ組曲」を理解するには、ピアノで、この曲を弾き、さらには、チェロで弾くための技術を開発し、その真価を発見する必要があった。

 この6つの組曲は、この6つをすべてを弾き切ることによって、新たな発見があり、さらには、作曲したバッハの立場に立って、「無伴奏チェロ組曲」の楽譜を分析しながら、ピアノかオルガンで弾いてみることによって、新たな発見があると考えられます。これらのすべてをできたのが、カザルス少年であったのです。

 不肖私も、カザルスの「無伴奏チェロ組曲」をレコードで聞いて、30歳のとき道新ホールで、モーリス・ジャンドロンの演奏を聴き、チェロと「無伴奏チェロ組曲」の楽譜を買ってきて、三十年以上練習してますが、1ページすら弾けませんし、何度聞いても、曲を記憶できませんが、何度聞いても、私なりに新たなささやかな発見があるように思います。

 私の「無伴奏チェロ組曲」とは、普段、自分の脳の中の使われない部分を、少し刺激されるように思います。それは、私の解釈では、仏像の前で、般若心経を唱える感じに似ているのではないかと考えます。

 この「無伴奏チェロ組曲」聞けば聞くほど、演奏すればするほど、第1番から6番まで弾いたことがあれば、ピアノやオルガンで楽譜を弾いて、バッハの作曲の革新性を知る人、それぞれに、新たな境地が開けるのでは、ないでしょうか。さらに、バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティ―タの全6曲と聞き比べるのも、興味深いものがあります。(第65回) 


ブックハンター「ヴァイオリン体操」

2014-11-05 13:57:53 | 独学

 65. ヴァイオリン体操 (神原泰三著 2001年5月)

 『 剣聖といわれる宮本武蔵は、「五輪の書」の中で、構えについて次のような主旨のことを語っています。「実戦のときはことさら構えようといてはいけない。剣は持ちやすいように持ち、心のおもむくままに相手に立ち向かえばよい」というような事柄です。そして、構えることにとらわれるとそれが居着きになり、瞬間的な対応ができなくなると説明しています。

 しかし一方、鍛錬に於いては、上、中、下段の構え、そして左右の脇構えの五つの構えを通じて、「刃筋の通し方」や「心構え」「気構え」などを学ぶことの必要性を説いています。

 というのも、構え方によって、心構えや気構えも変わり、刀の操法も違ってくるので、五つの基本の形を通じて心と刀のコントロールの仕方を身につけて、どのようなケースにも対応できる備えをしておくことが大切だということです。そしてその鍛錬の中から、刀の操法の原理原則を体で覚えてしまえば、それ以上は形にとらわれる必要はないとむすんでいます。

 自在なボウイングの構えを身に着けるために、いくつかの基本的な形による、目的別のボウイングのトレーニング法があってもいいのではないかと思います。体のいろいろな使い方を身につけることによって、構えも柔軟になり、奏法の幅も広がるはずです。

 たとえば古澤巌氏(ヴァイオリニスト)は、居合い(剣術の一種)を習いはじめてから、演奏の体の使い方が豊かになったといわれれていますが、その道の名人たちがつくりあげた形を通して、多くのことが学べることと思います。そしてそれを、一つのメソードとして開発すると面白いのではないかとおもいます。

 そしてそれは、武術や舞、礼法や所作事(歌舞伎で演じられる舞踊)など、すべてにおいて形を通して文化を継承してきた、日本においてうまれるかもしれません。

 日本文化はまさに形の文化であり、武術や芸事の世界では、流派の理念、技術、精神などのエッセンスを結晶化した形を編みだして、後世に伝えようとしてきました。 』

  

 ヴァイオリンやチェロなどの弦楽器の演奏に於いては、右手の弓の操法が全体の八割であるとも言われてます。武道における刀とヴァイオリンにおける弓の対比は、興味深いものがあります。日本刀の長さは、70~80cm、ヴァイオリンの弓は74~75cmで、二つの長さは、偶然にも近く、日本刀もヴァイオリンの弓も自在に操ることは、鍛錬を必要とし、奥深いものがあります。

 日本刀は重さがありますので、両手で構えますが、いかなる瞬間、場面にも、自在に対応できることを必要とします。一方、ヴァイオリンは弓を右手で持ちますが、音は最初に、弦と弓の毛(松脂を少しぬる)の摩擦によって、弦を振動させ共鳴板を響かせます。

 このとき弓も振動させるので、弓を自在にコントロールする必要がありますが、弓を自由に振動させるために、小鳥を包むように(種火を持つように)柔らかく持つ必要がありますが、かつ、75cmの弓を正確に、リズミカルに弾かなければなりません。チェロの弓は、少し短く70cmほどですが、同様です。名演奏に於いては、弓の動きだけでもすでに音楽を奏でているのかもしれません。

 

 『 「本当だが不思議だ」セミナーに参加された方は、構えのポイントを整えたり体のつながりを高める体操をしたあとの、音の変化に驚かれます。無理もありません。指導している私自身が、最初のうちは毎回のように驚いていたのですから、しかしよく考えてみると、不思議でも何でもないことがわかります。

 演奏動作を円滑に行えるように体のコンディションを整えていくわけですから、変化がおきるのがむしろ当然だと言えます。そしてこのことは、これまでヴァイオリニストの人たちが、いかに体の調整に無頓着であったかということの表れで、首や肩、腰などが硬い人が多いのが気になります。

 体が全体に硬いというのは、サイドブレーキをかけた状態で車の運転をしているようなものです。体操の効用としてもう一つ見過ごしにできないのが、精神面でのリラクゼーション効果です。というのも、ヴァイオリンの演奏には高度の集中力が要求されるので、ともすると神経過敏に陥りやすい傾向があるように思うからです。

 良いパフォーマンスを行うためには、緊張感をもつことが必要ですが、しかし、冷静さを失った神経のたかぶりは、筋肉を緊張させて体の緻密なコントロールをできなくしてしまいます。

  これまでヴァイオリニストの人たちに体操の指導を行ってきた経験からいえることは、多くの人が首や肩、そして肘などにストレスをかかえており、それによって拘束された構え方や弾き方になっているからです。たとえば、上背部にストレスがたまり背骨の動きが悪くなっている人や、首や肩にかけて凝りがあり腕の動きが制限されている人などが目につきます。そのため、どこか窮屈な弾き方になっています。 』

 

 『 ヴァイオリンの巨匠アーロン・ローザンドが、弦楽専門誌「ストリング」のインタヴューの中で、「ヴァイオリニストは、その構え方で八割がた決まる」と話されています。それぐらい構え方を重要視されており、彼のヴァイオリンの師匠である、ハイフェッツの演奏の写真をいつもヴァイオリンケースに入れて持ち歩いているとのことです。

 実際に一流のプロと呼ばれる人たちの構えは、楽器が体の一部のように感じられるぐらい自然で力みがなく、しかも一分のスキもかんじられません。そして構えに独特の美しさがあります。外見は凛としていながら、体の内側は柔らかく息づいているように感じられ何とも魅力的です。

 構えでの第一の原則は、背すじを、つねにスッキリとさせておくことです。骨格の中心軸である背骨は体の左右のバランスをとる働きもしています。背すじをしっかり通していれば体の左右のバランスがとれ、全身の力を効率よく弓に乗せることができます。

 背骨は、24個の骨(推骨)が積み重なってできており、必要に応じて動けるように造られています。また、演奏中は体の左右のバランスが絶えず変化していますが、体の軸である背骨が柔軟に働くことで全体のバランスがとれています。

 第二の原則は、直立の姿勢にまつわるものです。私たちの体をたえず地球の中心に向かって引っぱっている、重力とうまく調和して立つことです。それは、直立姿勢を獲得したときからの人類の課題であり、背すじを通すことと密接な関係にあります。

 さて、試行錯誤のすえに到達した先人の結論は、重力とうまく調和するためには、体の上下の中心(百会と会陰)を貫く一本のライン(中心線)を意識して、その中心線を重力線と重ね合わせるようにすることで、重量の影響を最小にすることがポイントとなります。

 そして、頭頂がうえにつられているようにイメージして、背骨をぶら下げるような感じで立つようにします。ところで、地上に存在するすべての物は、重力に対抗するために、上部よりもそれを支えている下部の方がしっかりしていなくては安定していられません。つまり構えにも、体の上下で質感が違っていることが求められます。

 それを一言で言い表した言葉が、「上虚下実」であり、上半身はリラックスしていて、下半身はしっかりと安定していることが理想であるという意味です。しかし、楽器を胸より高い位置で構えて両手を激しく使うヴァイオリンの演奏では、ともすると上半身が緊張し、「上実下虚」の構えに陥りやすいものです。

 体の構えを形づくるのは、骨格筋の働きです。それは、屈筋(体の前面および手足の内側の筋肉)と伸筋(体の背面および手足の外側の筋肉)という、二種類の筋肉によって支えられています。また体の動きは、体の前後に分かれているこの二種類の筋肉が対になって働くことでうみだされます。そのため構えの第三の原則は、屈筋と伸筋のバランスをとることであり、この対になっている二種類の筋肉の働きを調和させることが、構えと動作において大切なポイントとなります。

 精妙な手の動きを可能にするためには、その支点となる体の部分がしっかりと安定している必要があります。体の内側は、流動的で活発な状態であるのが構えの極意だといえます。「静と動が一致した構え」といったらいいかもしれません。そしてそれが、一流といわれる人たちが身につけている構えです。なぜなら、その内面の柔らかさが滑らかな手の動きをうみだす原動力になるからです。

 健康面からいっても、体の内部が硬くなっているときは、血液や体液の循環、内臓の働きも健全に行われません。そのために、体の内側を柔軟に保つことが、構えの第四番目の原則となります。体の内部が柔らかく流動的な人は、ヴァイオリンを構えた状態から、予備動作なしで、いきなりトップ・スピードの動きをおこせることです。

 そのためには、普段から深くおだやかな呼吸を心がけるとともに、体の内部に意識を向けて、そこに充満しているエネルギーを感じてみることです。以上が演奏力を高める構えの四大原則です。 』

 

 『 構えをきちっと整えるための最も重要なチェックポイントは、四ヶ所あります。それは、首、肩、腰腹、下肢の構え方に関連することであり、この四ヶ所の構えが、すべての構えの急所といえます。

 この四ヶ所の構えのポイントは、体の設計どおりに、頭と体、体と四肢を正しく連結し、重心をきちっと定めて、体がフルに働けるようにしようということであり、それによって、全身が一丸となって動けるようになります。

 首は、頭を支えるとともに、頭と胴体のバランスをとる役割をしています。つまり、「上半身の構えを整える要」といえます。首の構えが悪いと、肩や胸などの筋肉に余分な負担がかかってきます。

 また手の動きは、第五頸髄神経から第一胸髄神経までの、腕神経叢の働きによって行われるため、首すじのストレスはその神経の働きにダイレクトに影響をおよぼして、手の動きを悪くします。さらには、脳の血液の循環も悪くなり、意識の明晰さが失われます。

 この首の構えは、構えの根本原則である背すじを通すことと密接に関連しています。さらに、「首は気力のバロメーター」とも言われ、首の構えを最初にチェックするのが合理的です。

  二番目は、肩の構えで、首のつけ根をつり上げ、胸の中央を開き、肩の感覚は、ゆるみ広がっている感じがあることです。なぜなら、腕のつけ根である肩がリラックスしてないと、腕を自由に動かせないからです。首のつけ根の大椎のツボを活性化することで肩や肘を楽に持ち上げることができるからです。

 肩の構えにおける、もう一つのポイントは、両肩の協調性ということです。なぜなら、骨格は背骨を中心に左右対称に作られており、両肩はお互いにバランスをとりあうように設計されているからです。

 ヴァイオリンは、左右の手を別々に独立して、演奏するため、両肩のつながりが希薄になり、左右のアンバランスが生じます。肩の構えの第二のポイントは、両肩をまるく合わせるように構えるとともに、胸の中央を開いて両手の間にエネルギーのサークルを意識して構えます。古武術ではそのような両腕や両肩の構えを「円相水走りの構え」と呼んで、構えの極意の一つとしています。

  三番目は、腰腹の構えで、大切なポイントは、腰と腹は協力し合って上半身を支えており、首と腰腹の連携プレーで、上半身のバランスを巧みにとる役割をしています。また、腰は足の爪先と関連して働き、腹は踵と関連して働くため、腰腹のバランスが悪いと、足裏のバランスが悪くなります。

  ヴァイオリンの楽な構え方は、腰のウエスト部分をしゃんとさせて、腰でヴァイオリンを支えるようにすることだといえます。それとともに、腹でヴァイオリンの重さを受けとめるようにして、腰腹のバランスをとることが大切です。

  四番目は、下肢の構えで、楽に立つことが、気持ちよく演奏するための第一条件です。武道の世界では、「足の構えの良し悪しで技の成否が決まるとまでいわれています。下肢の役割は、上半身を支えるとともに体を移動させることにありますが、下肢の構造は歩くことに重点がおかれており、いささか不安定な土台であって、長い時間、楽に立ち続けるには技術を要します。

 理想的な立ち方は、歩いているときと同じような感じで立つということです。具体的にいうと、軽快に歩いているときと同じように、股関節をはじめ膝や足首などの関節をリラクッスさせて立つことです。そして、足の裏と脚のつけ根の股関節との間につながりが感じられるような、下肢全体に弾力がある立ち方が理想だといえます。

 そのなかでも、ポイントは股関節のコンディションの整え方です。なぜなら、股関節は骨盤と下肢の動きを連動させる要であり、足腰の動きの主宰者であるからです。また、膝の関節が一方向にしか曲がらない実直な関節であるのに対して、股関節と足首は、さまざまに角度を変えて下肢のバランスをコントロールしています。

 股関節のコンディションの良し悪しが、足腰の滑らかさを決定づけます。そのため、骨盤の可動性を保って、「股関節の周辺をリラックスさせておく」こと、また、上半身をしっかりと支えるためには、「大腿骨と換骨(股関節)をきちっと連結する」必要があります。

 この二つの矛盾した条件をクリア―するためには、肛門を軽くひき締めることで股関節の奥に締りをつくるとともに、大殿筋(お尻)をリラックスさせることです。そして、股関節と協同して仕事をしている足首や膝をリラックスさせて、下肢全体で柔らかく上半身を支えるようにすることが大切です。ただしそのためには、頭精をしっかりと起こして、下肢の負担を少なくする必要があります。

 演奏の時の立ち方は。第一趾と第二趾の間(小股)に体重をおとして、第一趾(足の親指)で体重を支えるとともに他の四趾でバランスをとるように立つのが、合理的な立ち方だといえます。そのような下肢の構えから、躍動感のある演奏が生まれます。 』

 

 『 これまで、身体能力をフルに発揮するための、構えの四大原則と四大チェックポイントを、ヴァイオリンの演奏との関係を交えながら説明してきました。次に、ヴァイオリンの演奏するときのポイントとなる、構えの「完整ポイント」を紹介します。

 (1) ヴァイオリンが軽くなる構えのポイントは、肩や鎖骨で構えるのではなく、「ヴァイオリンの重量を仙骨で柔らかく受け止める」という意識で構えることだといえます。骨盤の中央にある仙骨は、骨格 上の全身の要となる骨であり、上半身の重みを下半身につたえていく、中継センターをしている骨だからです。

 つまり、ヴァイオリンの重みをダイレクトに仙骨につたえていくことで、その重みを足の裏にスムーズにアースすることができるというわけです。また、両足からの力も仙骨で統一されて上半身につたえられていくため、ヴァイオリンと仙骨をつなげることで、ヴァイオリンと全身が一つにむすばれることになります。

 (2) 演奏が楽になる構えのポイントは、ヴァイオリンを、鼻先と尾骨ではさむことです。ヴァイオリニストは一般に首に緊張がみられます。それを防ぐには、「ヴァイオリンを全身で柔らかく包み込む」という意識が大切です。また、メニューイン(ヴァイオリニスト)は、身体のいろいろな動きに絶えずヴァイオリンを合わせることが、演奏の秘訣の一つだと言われています。

 ところで、背すじがスッキリと整っている状態でアゴを引くと、身体軸のもう一方の端にある、尾骨もいっしょに動くのが自然です。そして、背骨の両端にあるアゴと尾骨が協調して働くことで、体全体のバランスが保たれます。つまりヴァイオリンをはさむのは、仕事上のパートナーといえる「アゴと尾骨とのコンビネーションで行う」のが理想といえます。

 (3) シフティングがスムーズになる構え方のポイントは、ヴァイオリンを一点で支えることです。次の課題は、ヴァイオリンを自在にコントロールできる、安定性と柔軟性をかね備えた構えです。

 正確に演奏するためには、ヴァイオリンを体の一部分であるかのように安定させておくことが必要です。しかし、シフティングやポジショニングの動作を滑らかに行うためには、ある程度の弾力性をもたせて安定させることが大切です。この二つの要素をかね備えた構えをつくりあげるには、自分で体得していく以外ないでしょう。

 (4) 弓の切り返しを安定させる構え方のポイントは、両肘の開合の力を働かせて構える。演奏のときの前腕の動きの支点となり、その働きをコントロールするプロデューサーの役割をするのが肘です。そのため、両肘の構え方によって、ボウイングやシフティング、そして、ヴィブラートをかけるときの、前腕の動きの滑らかさが大きく違ってきます。

 腕の構えのポイントの一つは、構えの第二原則で紹介した「上虚下実」に構えることですが、それだけでは不十分です。前腕を楽に動かすためには、両肘を柔らかく弾力的に構える必要があります。もうすこし具体的にいうと、「両肘の間に、広がる力と引き合う力の両方の力を働かせて構える」ということです。

 それによって、アップボウのときもダウンボウのときも、肘に反対方向の力が押さえとして補助的に働くために弓が安定するからです。また、双方向の力が働いているため、弓を切り返すときの動作もスムーズになり、音のつながりが保たれるようになります。このような両肘の構え方を「開合の構え」と呼ばれます。

 (5) 弓のタッチを自在にコントロールする構え方のポイントは、手のうちに開合の力を働かせて構える。弓のタッチを自在にコントロールするためには、弓を持つときに、握る力とともに手の平に広がる力を働かせて構えることが大切だといえます。というのも、指先に握り込む方向の力しか働いていないと、弓の振動を敏感に感じることができないため、弓のタッチを微妙にコントロールすることができなくなるからです。

 リラックスして演奏しているときには、おのずとそのような、開合の力のバランスのとれた手の構えになっているものです。しかしそのときの手の感覚を、一つの構えとしてはっきり自覚して洗練していくことによって、弓のタッチが軽妙になっていきます。

  (6) ポジショニングが楽になる構え方のポイントは、手の虎口を開き、肘を膝で支えて構える。弦を楽に押さえるためには、腕全体の力が指先にまで通っていなくてはいけません。それには、左肘に絶えず指先に向かう力が働いている必要があります。それが、ポジショニングを楽に行うための構え方の第一のポイントです。

 そしてその力は、下肢とのバランスによってもたらされるのが理想です。ところで、下肢で肘と最も関係の深いのは膝であり、肘と膝は動作をするさいには協調して働かすのが合理的なやり方です。そのため、左肘に指先に向かう上向きの力を働かそうと思えば、膝を少し上につり上げ気味に構える必要があります。

 肘(肩)の力を指先にスムーズに伝えるためには、強く押さえようとしないで、手首の力を抜いて、手首の甲側の中央(陽池)を絶えず伸びのびとさせておくようにすることです。それが最小の力で弦を押さえる秘訣だといえます。さらに、親指と人差し指との間の合谷をリラックスさせて、親指が自由に動けるようにしておくことが大切です。

 (7) ボウイングが力強く滑らかになる構えのポイントは、全身に螺旋の力を働かせて構えることです。ヴァイオリンの演奏の構えの場合、左手を内側に捻じり右手は外側に捻じった状態で、全身を一つにまとめる必要があります。それには、両手に働く二つの捻じりの力の流れ(螺旋)が、体感に於いて二重の螺旋構造になって絡み合いながら、足先にアースされていくように意識して構えることが大切です。

 ちなみに、太極拳では、全身を貫く螺旋の力を「纏糸系」と呼んでいます。そして、纏糸系(てんしけい)を養うことで「筋力を超えた武術的な力」を身につけるのとができるといわれています。人体には、腰を中心に螺旋状の捻じりの力が内在しており、螺旋の力の流れを意識して構えることで、ボーイングの滑らかさと力強さがレベルアップします。

 (8) 演奏にゆとりがでる構えのポイントは、全身を円相に構えることです。太極拳や古武術などでは、腕や内股など、全身の各部分を円相に構えることを基本としますが、演奏の構えも、基本的には丸く構えるという意識をもつことが大切だと思います。

 具体的にいうと、踵と百会、そして足の親指と百会をむすぶ、体の前後の縦の半円と両肩を一つにまとめる横のだ円が基本になります。そして、体の前後左右の空間を包む大きな球体をイメージして立ちます。

 そのような大きな球体の中心に立つというイメージは、武術の場合には、つねに多人数の敵に気を配るための訓練としてですが、演奏の場合にも、伸びのびと演奏するための気持ちの持ち方としてよい方法だといえます。

 (9) イスに座って演奏するときの構えのポイントは、坐骨に腰かけ、足を地につけることです。イスに座って演奏するときのポイントは、上半身と下半身のつながりが分断されないようにすることです。もう一つは、安定性もさることながら、上半身が最もフリーになるような座り方に心がけるということです。 』

 

 『 最後に、武道の構えを応用した、七つのヴァイオリンのポーズを紹介します。

 (1) 舞のポーズ  両足を前後にひらき、両方の爪先を約90度開いて構えます。そして、膝をゆるめて足腰を安定させます。

この構えは、今武蔵と呼ばれた昭和の剣豪、国井善弥(鹿島神道流)の得意とされていた足の構えを参考にしたものです。この構えは、体の軸をいかし、胸と腹の開きを利用したボウイング動作を身につけるのに役立ちます。特徴としては、体の軸がしっかりして手が楽に伸ばせることと、膝をゆるめるときに体の重さが弓によく乗ることです。

 (2) 波のポーズ  左足を半歩前に出し、右足を約60度外に開いて構えます。

 この構えは、槍を突きだすときの基本の構えです。体の前後の動きを使ってボウイングを行うことができ、アップボウとダウンボウを同じバランスで行えるのが特徴です。とくにアップボウは、弓先に重さが乗せやすく、体重を乗せて全身で弓を一気に弾き上げていく感覚が養われます。

 (3) 東見のポーズ  両足を前後に開き、左膝を立て右膝を床に着けて、右足の爪先を立てて構えます。

 居合いの動作の中によく見られる、正座の姿勢から立ち上がりざまに一気に刀を抜き放つときの形です。(立てる膝は逆)。立ち上がろうとする勢いを内(腰)に秘めており、体の勢いを高めるトレーニング法として活用できます。また、左腕が左膝によって支えられるため、シフティングの動作が楽に行えます。

 (4) 木のポーズ  両足を肩幅にひらき、両足の爪先をおのおの45度外に広げて、両足の爪先と踵を結ぶ線が直角に交わるよう立ちます。そして、おへそと腰仙骨部のラインが水平になるように、おへそを斜め下に突きだして仙骨をしめます。

 和弓を引くときの基本姿勢ですが、下半身を盤石に構えるとともに、背すじを力強く通して、腰、腹、胸を割ります。それによって上半身が二つに割れ、肩と腕が軽くなります。この構えで弾くと、高低音ともよく響くようになるので、まんべんなくいろいろな音が出せます。

 (5) 虚歩のポーズ  左足を半歩前にだし、左足の踵を浮かして右足に体重を移します。そして、右足にしっかり乗って、右足の軸で全身をコントロールするつもりで構えます。

 この足の構えは、太極拳で守りを主体とするときによくとられる実践的な構えです。重心を後ろに移して軸足にどっしりと腰を落とすことで、心が冷静になり、音によく集中できます。そのため、はやいパッセージを軽快に弾くことができます。

 (6) 手のポーズ  右膝を床につけ、左膝を開いて浮かし、左右の足の爪先を立てて右足の踵に腰かけます。

 正座の姿勢から立ちあがろうとするときの準備の構えで、安定のなかにも動きが秘められています。そのため、細かい手作業を素早く行なうのに適した構えといえます。実際にこの構えをとると、素早いボウイングを楽に行なうことができます。

 (7) そんきょのポーズ  両膝を開いて腰を落し、両足の爪先を立てて踵に腰かけます。そして、股関節をリラックスさせるとともに、骨盤をしめて背すじを力強く通します。

 相撲の仕切りのときや剣道の試合などで、闘う直前でとるポーズです。腰を割って重心を落し、背すじを力強く通すことで心身を統一することができます。そんため、体の重さを弓に乗せやすく、力強い音を出すことができます。 』

 

 本書は、前段として、体の骨格の体系と各名称、次にはその骨格に動きを与える筋肉の体系、大きく分類すると、屈筋(体を折り曲げる)、伸筋(体を広げる)と深層筋(姿勢を保つ)さらにそれぞれの機能と名称を理解していると、好都合です。各筋肉は、骨格と腱で結合しており、手の先や、足の先は、長い腱が甲の部分を通って、指をコントロールしており、経絡(自律神経)が、張り巡らされており、それらの合流点(交点)が、ツボですが、これらの体系と名称を理解していると、さらに好都合です。

  古武道も弦楽器ともに、奥深くこれを文字で説明することは、土台無理なことではあるが、ある意味70~80cmの棒状のものをコントロールするという点では、共通してます。そして、人は二本足歩行を獲得したときから、体全体の動きの中で、動作を行わなければ、バランスが崩れてどこかに無理が生じ、さらには転倒します。

 ここで述べられている、構えや、身体の動きは、人が二本足歩行と手の自由を獲得した時点での宿命であり、人が歩いたり、料理をしたり、押したり、引いたりするときにも、避けては通れないことだと考えます。美し姿勢、美しい身のこなし、凛とした佇まい、充実した生活に於いても、生かされることを祈って、ペンを置きます。(第64回)