テレビは嘘をついたら絶対に駄目――黒柳徹子が芸能生活70年で気づいたこと #昭和98年
テレビは嘘をついたら絶対に駄目――黒柳徹子が芸能生活70年で気づいたこと #昭和98年
12/2(土) 17:00配信 2023
Yahoo!ニュース オリジナル 特集
撮影:下村一喜
「あれ以来、休みたいと思ったことは一度もないんです」。1971年、黒柳徹子はニューヨークに1年間留学した。休養といえるのはその時期だけで、日本でテレビ放送が始まった70年前から今日まで、第一線で活躍し続けている。辞めたいと思ったことは一度もなく、これまで結婚はしていないが、寂しいと感じることもないという。歩みを振り返って話を聞くと、人生観の根底には、確固たる仕事の信条と幼少期の原体験があった。(文中敬称略/取材・文:内田正樹/撮影:下村一喜/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
芸能生活70年、けんかをしたことがない
撮影:下村一喜
「私、芸能界に入ってこのかた、けんかというものをしたことがないんです。ちょっと鈍感なのかしら」
黒柳徹子はそう言って首を傾げた。今年で芸能生活70年、本当なのだろうか?
「そりゃムッとすることぐらいはありますよ。NHK時代にも、『おまえのしゃべり方は変だ』なんて言う意地悪な先輩がいて、一度だけ、テレビ局の壁を蹴ったことがあります(笑)。つまんないっちゃつまんない人間かもしれないけど、その程度ね。けんかが本当に嫌いなんです」
1953年2月1日、NHKが日本で初めてのテレビ放送を開始した日、黒柳はNHK放送劇団所属のテレビ女優第一号としてブラウン管デビューを飾った。つまり、彼女のキャリアは日本のテレビ放送と共にスタートしたのだ。
「最初の頃はずいぶんいろいろと言われましたよ。ほかの劇団員の人たちは丁寧にゆっくりとしゃべるんです。私みたいにチャラチャラチャラッと早口でしゃべる人なんて、誰もいなかった。あまりに早すぎて、先輩たちは顔をマイクロフォンにぶつけるくらい驚いて(笑)」
小学校低学年の頃(写真提供:本人)
言い争いはしなかったが、自分の個性を曲げるわけでもなかった。
「早口が直らなかったから、次第に周りのほうがあきらめちゃった(笑)。母は私が幼い頃から、『人と自分を比べないこと』と教えていたそうです。そのせいなのか、誰かの真似をするようなことも、他人の成功を羨むようなことも、これまでの人生で全くなかった」
だが、個性ゆえにしばしば疎外感は抱いてきた。幼少時代、落ち着きがなく、独自の言動が目立ち、尋常小学校を1年生で退学させられている。そんな彼女を、編入先のトモエ学園校長・小林宗作が「君は、ほんとうは、いい子なんだよ」と受け入れた。NHK放送劇団員時代には、「もっと個性を引っ込めて」と言われ、途方に暮れていたところ、劇作家の飯沢匡が「あなたは、そのままでいてください」と言葉をかけ、その才能を拾い上げた。
「私の人生は理解者との出会いに尽きます。本当にラッキーでした」
独身生活は寂しい時も退屈な時もない。恋愛は“出たとこ勝負”
撮影:下村一喜
現在もテレビ出演、執筆、舞台と多忙なスケジュールを精力的にこなす。1976年から続くレギュラー番組『徹子の部屋』(テレビ朝日)は、通算放送回数1万回を超える長寿番組だ。「50周年(2026年)までは頑張りたい」と黒柳は言う。
「月曜と火曜は9時か10時ぐらいに起きて、お風呂や1時間ほどの体操を済ませてから家を出て、夕方までずっと『徹子の部屋』の本番です。食事は、夜、帰宅してから。お肉? いっぱい食べますよ(笑)。11時に寝て、朝方4時頃に一度起きて、お白湯を飲んで、たまにお菓子をつまんで、また寝ます。起きている間はずっとテレビをつけていますね」
友達と会ったり、書き物や舞台に集中したり、「寂しい時はない」と言う。「もし結婚していたら、どんな暮らしだったと思いますか?」と聞いてみた。
「きっと子どもも孫もたくさんいて大変なことになっていたんじゃないかと思う(笑)。結婚を取るか仕事を取るかと考えて、特に仕事を取っていたというわけでもないんです。恋愛をしても、時間は何とかしてひねり出せるものだし」
先頃ゲスト出演したバラエティー番組では、外国人音楽家と40年にわたって育んでいたという遠距離恋愛について語っていた。
「この先も、よいご縁があれば、誰かと結婚するかもしれないとずっと思っています。まあ今ぐらいの年齢になっちゃうと相手もちょっと大変でしょうけど、あまり深くは考えていません。恋愛は“出たとこ勝負”なもんですから」
ニューヨーク留学中、アパートのキッチンで(写真提供:本人)
仕事を「辞めたい」「飽きた」と思ったことも一度もないという。
「子どもの頃から、退屈っていうのをしたことがないですね。時々、人に『退屈するって、どんななの?』と聞くと、『うわっ、イヤだこの人』なんて言われちゃう(笑)。落ち着きがないふうに言われたり、何かの症候群じゃないか?と言われたりもするけど、単純作業も延々と続けていられるし、さりとて新しいことを始めるのも嫌いじゃないんですよ」
「どこかに旅をしたくなるようなこともないですね。そう言うと、何もかもがどうでもいい人みたいに聞こえるかもしれないけど(笑)。でも、ニューヨークは行ってよかったと今でも思います」
1971年、当時38歳だった黒柳は芸能活動を休止し、ニューヨークで1年間の留学生活を送った。
「それまで18年ぐらい休まず働いていたんだけど、この辺で少し休みが必要だと感じたんです。その少し前、『結婚してもいいかな』と思ったこともあったんだけど、それよりも演技の勉強をしてみたくなって。周囲の人が電車のように行ったり来たりを繰り返すなか、私は引き込み線に入るようにそっと消えたんです」
初めての本格的な一人暮らしを体験しながら、昼は芝居とモダンダンスの授業に出て、夜は和装してパーティーに出掛けた。そこで敬愛するチャールズ・チャップリンと話す機会にも恵まれた。70年の芸能生活において、今のところ、ただ一度の長期休養だった。
「あれ以来、休みたいと思ったことは一度もないんです。だから、『たまには1年ぐらい休んでもいいんじゃない?』と人に勧めることはありますね(笑)」
“男社会”だったニュース番組で、自分の意見をどう伝えたか
撮影:下村一喜
1972年、帰国した黒柳を待っていたのは『13時ショー』(NET/現・テレビ朝日)というニュースショーのレギュラー司会者の仕事だった。テレビ局側のオファーの意図は、「留学帰りの感性を生かしてほしい」。当時としては異例の抜擢だった。
「今でこそ女性の司会者も増えましたけど、当時はだいたい、司会は男性の方で、女の人は隣でにこにこ笑ったり相槌を打ったりするぐらいの役割しか与えられなかった。まあ今だってわりとそうなんで、日本って変だなと思うんですけど。当時、主な視聴者層は主婦のみなさんでしたから、出演する女性の衣装も、白いブラウスに紺のタイトスカートという感じでした。私みたいに主婦の経験もなくぷらんぷらんと生きている人間が何か言っても、まだ『うるさい』とか反感を買ってしまうような時代でね」
撮影:下村一喜
けんかこそしないが、自分の意見は正直に伝えてきた。彼女は『13時ショー』の出演にあたって二つの条件を出した。
「一つは、私が嫌だと思う内容の時はきちんとそう言わせていただきたい、ということ。それから、自分の好きなものを着て出たい、ということでした。『いいですよ。これからは時代も変わるでしょうから』と言っていただきました」
こうしてスタートした番組だったが、時にはこんなこともあった。
「ディレクターは全員男性で、打ち合わせというと、男性10人くらいに女性は私一人。ある時、番組の途中に唐突な宣伝が組み込まれていたことがあって。私はそれがどうして入るのか理解できなかったから『これ、変だと思いますけど』と言った。そうしたら、担当のディレクターの方に『馬鹿! 俺が言った通りに黙ってやればいいんだよ!』と言われたんです。私、その方の上司のところまで行って、『あの人、私を馬鹿って言ったんですけど、馬鹿な人にニュースショーの司会なんてやらせといていいんですか?』って言ってやったの。結局、あとで謝られました。テレビ番組というものは、どさくさ紛れでやっていいものじゃありません」
撮影:下村一喜
黒柳にはテレビの司会者として大切にしているいくつかの信条がある。その一つは、「玉ねぎ」形のヘアスタイルにも関わっている。
「司会者は斜めや後ろから映される時が多いでしょ。どなたかのお話を聞いている時、首に髪の毛が垂れていると首の動きが見えづらくて、話にうなずいているのかどうか、よく分からない。でも、私の玉ねぎ頭なら、首が全部出ているから邪魔にならないでしょ? 相手に賛同しているのかいないのか、はっきりしておきたいじゃないですか」
1978年から約12年間放送された音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS)は、「絶対にチャートを操作しないこと」を、『徹子の部屋』は「生放送と同じように収録し、極力編集しないこと」を条件にオファーを引き受けた。
「私が70年かけて発見したことは、『テレビは嘘をついたら絶対に駄目』ということ。お客さま(視聴者)というのはテレビの嘘を絶対に見抜くと私は思う。ですから自分の番組で嘘があったら困りますし、私自身も正直にやっています」
世の中は不公平。どんなに泣いても人は死ぬもの
1986年、インド・チェンナイを訪問 © UNICEF/UNI72612/
黒柳は1984年以降、ユニセフ(国連児童基金)の親善大使を務めている。これまでにのべ39カ国を訪問し、自ら開設した募金口座を通じ、のべ44万人から寄せられた65億円(2023年10月末まで)の募金を寄付してきた。
「親善大使になっていなければ、もっと気楽な人生だったのかもしれませんね。飢えたり死にかけたりしている子どもたちの姿をたくさん見てきました」
とりわけ1986年にインドを訪れた際の出来事は、今も忘れられない。
「貧しい地域の病院で、破傷風で死にかけていた子どもたちに会いました。私が10歳くらいの子に、『お医者さんも一生懸命やっていらっしゃる。生きようと思って頑張るのよ』と言葉をかけました。そうしたらその子は、もう満足に声が出ない状態なのに『あなたの幸せを祈っています』と私に言ったんです」
「もし予防接種が1本あれば、その子は死なずに済んだかもしれない。そう考えた時、ユニセフの仕事を続けていこうと思いました。誰だってご飯が3回ぐらい食べられて、病気にならないで、家族と一緒にいられたらそれが一番いいはず。今も、ニュースでガザの子どもたちの様子が流れると、つらくてたまりません。『神様、ちょっと不公平なんじゃありません?』と心の底から言いたくなります」
そうした思いの原体験は、トモエ学園の級友“泰明ちゃん”との思い出にある。小児まひだった泰明ちゃんは、まだ日本にはなかったテレビの存在を黒柳に教え、黒人奴隷の半生が描かれた小説『アンクル・トムの小屋』も貸してくれた大切な友だちだった。
しかし泰明ちゃんは病のため幼くしてこの世を去った。それは彼女にとって初めての“別れ”だった。
「やっぱり泰明ちゃんに会ったことが、私の人生の中で思いがけないほど大きいことだったんだと思います。どうして泰明ちゃんは病気なんだろう? どうして治らないんだろう?って思っても、どうすることもできない。もし泰明ちゃんが小児まひじゃなかったら、もっと一緒にいろんなことができたのに。今でもそう考える時がありますね」
黒柳がトモエ学園時代の思い出を綴った小説『窓ぎわのトットちゃん』(1981年)が初めてアニメ映画化され、まもなく公開される。そこでは黒柳(トットちゃん)と泰明ちゃんとの出会いと別れが描かれている。
「世の中には、どうしようもなく不公平なこと、不条理なことがある。泰明ちゃんと出会った時、そして死んでしまった時、私はそれを初めて知ったんだと思います」
大人になってから今日までもさまざまな出会いと別れがあった。親しい友人のなかには、すでにこの世を去った人も少なくない。
「仕方がないんです、やっぱりね。どんなに泣いても人は死ぬものだし、ただ受け入れるしかないんですよね」
撮影:下村一喜
世の中の不条理を見つめながら、自分に正直に生きてきた。今、黒柳が抱く“幸せ”のイメージとは? 少し考えて、こう答えた。
「何にも思い煩うことがない、ということですかね。何かをひどく思いつめて体を悪くするなんて、つまらないじゃないですか。この仕事はとにかく元気でいることが重要だから、その点、私は幸せなんだと思います」
「最近はみなさん“終活”とおっしゃいますけど、私は全く考えていない。(具体的に)どうすりゃいいの?という感じで(笑)。それよりも、今の仕事をこのまま続けていったほうがいいのか、もしくは、今とはかけ離れた世界に入ってみるのも面白いのか……」
黒柳は近年、「勉強して政治記者を目指すのが夢」と語っていた。どうやら終活どころではなさそうだ。
「『徹子の部屋』の50周年もあるし、恋愛だって結婚だって政治記者だってあるかもしれない。まだまだやりたいことがたくさんありますから」
黒柳徹子(くろやなぎ・てつこ)
女優・ユニセフ親善大使。東京・乃木坂生まれ。東京音楽大学声楽科卒業後、NHK放送劇団に入団。NHK専属のテレビ女優第1号として活躍。日本初のトーク番組『徹子の部屋』は48年目を迎えた。著作『窓ぎわのトットちゃん』は35以上の言語に翻訳され、現在までの累計発行部数は日本国内で800万部、全世界で2500万部を突破。今年、『続 窓ぎわのトットちゃん』が発売された。テレビや舞台出演、執筆業のほか、YouTubeチャンネル「徹子の気まぐれTV」も配信。映画『窓ぎわのトットちゃん』は12月8日全国公開。
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「#昭和98年」は、Yahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」の一つです。仮に昭和が続いていれば、今年で昭和98年。令和になり5年が経ちますが、文化や価値観など現在にも「昭和」「平成」の面影は残っているのではないでしょうか。3つの元号を通して見える違いや変化、残していきたい伝統を振り返り、「今」に活かしたい教訓や、楽しめる情報を発信します。