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「この世は私のもの」と詠んだ権力者・藤原道長の実は気弱で小心な素顔

2024年02月13日 19時03分33秒 | 歴史的なできごと
「この世は私のもの」と詠んだ権力者・藤原道長の実は気弱で小心な素顔
12/26(火) 15:03配信


nippon.com
小林 明



2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』の主要人物として登場する藤原道長は、日本史のキーマンの一人だ。学校教科書には「摂関政治の全盛期を築いた人物」として載っているのはご存知だろう。だが、詳しい経歴や人物像は、広く知られているとは言い難い。


兄たちの死で突如開けた出世街道
『紫式部日記絵巻断簡』には、(左から)道長の妻・倫子(りんし)、道子の腕に抱かれているのは道長の娘・彰子が産んだ敦成親王、道長(下の方の人物)、彰子、そして紫式部(右下)


この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば


1018(寛仁2)年10月、道長53歳のときに詠(よ)んだ歌である。


「この世は私のものだ。満月(望月)のように欠けたところがないくらい満ち足りている」―権力をほしいままにした者のおごりを象徴するかのような言葉。なんて傲慢でイヤな奴なのだろう…と感じる人も多いのではないか。


藤原氏は平安時代、天皇の外戚として摂政関白・内覧(ないらん / 天皇に奏上、あるいは天皇が宣下する文書を確認する関白に準じる職)といった要職を独占する摂関政治体制を築いた。その全盛期に君臨していたのが道長だった。


しかし、この歌のせいで道長のイメージがひとり歩きしている。


国際日本文化研究センター教授の倉本一宏氏は、「道長は多面性を持った複雑な人物であり、『望月の歌』のみをもって語ることはできません」という。


藤原道長『紫式部物語繪巻』 国立国会図書館所蔵


そもそも道長とは、どういう男だったのか? 


藤原氏は、中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに古代の政権を掌握した、中臣鎌足を祖とする一族だ。鎌足は669(天智8)年、天智天皇から「藤原姓」を賜り、その子・不比等(ふひと)の息子たちが4つの家を創設した。これが藤原四家の北家・南家・式家・京家である。なかでも、最も栄えたのが北家だ。


道長は、北家につらなる藤原氏九条流の兼家の子として、966(康保3)年に生まれた。きょうだいは7人。


同母の兄である道隆・道兼、異母の兄、道綱・道義。同母姉に詮子(せんし)・超子(ちょうし)、異母妹に綏子(すいし)がいた。男5人の中では末っ子で、幼少~青春期は、兄たちに隠れた目立たない存在だった。


実際、父の後継者は同母兄の道隆、道兼だった。ところが995(長徳元)年、その兄2人が相次いで死去する。異母兄2人は庶流だったことから、突然、出世の道が開け、内覧宣旨を経て、右大臣となった。道長30歳だった。また、翌年には左大臣就任と、矢継ぎ早に昇進した。


さらに道長と政権を争っていた長兄道隆の子・伊周(これちか)と隆家は、時の花山上皇(第65代)を襲撃する事件を起こし、揃って配流となった。


一方、姉の詮子は、第64代円融天皇の後宮(※1)に入り、第66代一条天皇を産んでいた。道長と詮子は非常に親しかったという。「道長の出世には、詮子の推挙もあったと考えられます」(倉本氏)


こうして、道長の快進撃が始まった。


前代未聞の「一家三后」
官職にはさほど執着せず、藤原家の女性たちと天皇とのつながりを、ことさら重視した。詮子に加え、姉の超子は第63代冷泉天皇の女御(※2)となり、生まれた子がのちの第67代三条天皇で、三条天皇の妃となったのが、道長の妹・綏子という具合である。


道長の娘たちは、彰子(しょうし)が一条天皇の中宮(※3)となり、第68代後一条天皇と、第69代後朱雀天皇を産む。のち皇太后(※4)、太皇太后(※5)となった。妍子(けんし)は三条天皇に入内し、のちに中宮→皇太后。威子(いし)は後一条天皇の中宮となった。


彰子・妍子・威子の3人の娘たちによって、「一家に三后が立つ」という前代未聞の事態となった。その中心に、道長は常にいた。冒頭の「望月の歌」は、この頃に詠んだものだった。


よく泣き、よく怒り、ときに小心
道長が怒りをよくぶつけたという側近・藤原行成『肖像集10』国立国会図書館所蔵


道長のキャラクターは、どんなものだったのだろう?


道長が備忘録的に記していた『御堂関白記』は、世界最古の自筆日記として、世界記憶遺産に登録されている。


倉本氏はその内容にこそ、人間・道長を知る秘密が隠されているという。


「感情表現が豊かで、よく泣き、よく怒り、ときには気弱で、愚痴や自虐も吐きます。怒りっぽいのは権力者によくある特徴と思いますが、自分はそもそも愚者であるとつづるなど、率直な人物像をうかがわせ、こうした面が人をひきつけたのではないでしょうか」


例えば、娘の彰子に関しては、よく泣く。悲しいからではない。道長の次世代にまで権勢が維持できるよう、天皇に奉仕し皇子を産む姿に、娘よ、ありがとうとばかりに、感動して涙する。


「為政者には演技して涙を流す人もいるでしょうが、道長は感極まり、自然に泣いていたと思いますね」


自画自賛も多い。突然、酒宴を開催すると言い出し、人を集めて自慢話に花を咲かせる。しかも、話した相手が楽しんでいると、心底思い込んで有頂天になっている様子さえある。


一方、「道長の側近に藤原行成(ゆきなり)という人がいましたが、この人に対しては、かなり怒りをぶつけています。面と向かって怒鳴るのです。周囲を振り回すタイプだったかもしれません」


気弱で小心な面もある。寺院の字額を書いてほしいと頼まれて揮毫(きごう)すると、「無理といったのに…」と、出来に自信がないかのような心情を吐露する。


「道長は病弱でした。体調のすぐれない日もあったようで、そうしたときには気弱な一面が顔をのぞかせたのでしょう」


だが、ここぞというときは、強引だ。一家の女性たちの立后、つまり娘が皇后や皇太后になる、または娘が産んだ孫が立太子、つまり皇太子に立てられる場面では、剛腕だった。政権を維持していくにはここがポイントと知っていた。要所を決して見逃さない。ゆえに勝負強い。だからこそ、人心掌握にも長けていた。


「小心と大胆、繊細な半面、度量が広く、ときに寛容で、ときに怒りを爆発させる。人間・道長への興味は尽きません」(倉本氏)


冒頭の「望月の歌」も、自己を包み隠さない人間ゆえの感情の発露だろう。剛腕だが人間くさい。今の日本に、こんな政治家がいるだろうか。


[参考文献]
・『藤原道長の日常生活』倉本一宏 / 講談社現代新書
・『紫式部と藤原道長』倉本一宏 / 講談社現代新書


注釈
(※1) 平安京内裏にもうけられた天皇の后妃たちが住む場所
(※2) 天皇の寝所に侍する女性。皇后・中宮の下に位置する。主に大臣の娘が就き、皇后に立てられる者も出た
(※3) 天皇の妃。皇后のほかに並立した。一条天皇の代に、藤原道長の娘・彰子が入内して中宮となり、それまでの中宮・定子(ていし / 藤原道隆の娘)を皇后としたのに始まる
(※4) 前天皇の皇后で現天皇の生母
(※5) 三后のうちの最上位


【Profile】
小林 明
1964年、東京都生まれ。スイングジャーナル社、KKベストセラーズなど出版社での編集者を経て、2011年に独立。現在は編集プロダクション、株式会社ディラナダチ代表として、旅行・歴史関連の雑誌や冊子編集、原稿執筆を担当中。主な担当刊行物に廣済堂ベストムックシリーズ(廣済堂出版)、サライ・ムック『サライの江戸』(小学館)、『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など。


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今朝6:17の朝焼けです❗

2024年02月13日 08時03分58秒 | いろいろな出来事
冬至は、昨日でした

これから、夏至に向けて明るくなりますね🍀


12/23/2021
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突然、舞い降りるシロサギ

2024年02月13日 06時03分22秒 | いろいろな出来事
気がつくと、目の前に現れますね🍀






2・20・2022
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ロシアの40歳女性、バイカル湖の氷の下を85m潜水 世界記録達成か

2024年02月13日 00時03分58秒 | 社会のことなど

(CNN) ロシア・シベリア地方のバイカル湖でこのほど、モスクワ在住の女性が氷の下を潜水で85メートル進むことに成功した。

 エカテリーナ・ネクラソワさん(40)は今月7日、水着と水泳帽、ゴーグルだけを身に付け、湖面を覆う氷を切り出して作った入り口から水中にはしごを使って入った。目印のケーブルに沿って潜水し、ほぼ0度と思われる水温の中1分半息を止めて泳ぎ切った。最後は出口のはしごを上って氷上に出た。 


今回の挑戦で氷の下での潜水距離の世界記録を達成したと見られる。ギネス・ワールド・レコーズはCNNに対し、ネクラソワさんの挑戦の詳細情報を受け取っているが、まだ認定はしていないと述べた。 地元紙シベリア・タイムズがツイッターで、ネクラソワさんが泳ぐ映像を公開した。 今回の挑戦は地上と水中の両方から映像で記録された。挑戦中はサポートチームが背後からウェットスーツを着て追いかけ、万一の事態に備えた。

同紙によると、途中で中止する場合を考えて、厚さ約25センチの氷に一定間隔で穴をあけておいたという。 当初は前日の6日に挑戦を予定していたが、嵐のような風が吹く「ひどい天候」だったという。気温マイナス30度、体感温度はマイナス42度で、危険な状況と判断して延期を決定。翌7日は気温がマイナス21度に上昇し、風も少し収まったことから決行した。

 ネクラソワさんは今回の経験を「楽しかった」と表現。最後は感極まったとも述べ、「この場所の力強いエネルギーが私を助けてくれた。ありがとう、バイカル湖!」と語った。 同日はロシア正教のクリスマスにあたる。ロシアでは洗礼祭の寒中水泳は多くの国民にとって伝統となっている。 


1・20・2021

 ネクラソワさんがフリーダイビングを始めたのは4年前。モスクワでは週に4回は温水プールで、2回は氷の中に飛び込んで訓練をしているという。「氷の下で潜水をするとエネルギーがあふれてきて生まれ変わったかのよう。何物にも代えがたい感覚でとても楽しい。いつもしたいと思う」と語っている。 

ギネス・ワールド・レコーズによると、氷の下の潜水での最長記録は2013年にデンマーク人のスティ・セベリンセンさんがグリーランドで打ち立てた250フィート(約76.2メートル)。

女性では昨年2月29日に南アフリカのアンバー・フィラリーさんがノルウェーの湖で229.659フィート(70メートル)を泳いでいる。


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