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4代家綱の頃からルーティン化した将軍の「日常」

2024年02月21日 10時03分50秒 | 歴史的なできごと


4代家綱の頃からルーティン化した将軍の「日常」
2/17(金) 11:30配信
2コメント2件





【将軍の1日のタイムスケジュール】

狭い行動範囲で規則正しい生活を送る  ここでは、「将軍の仕事と生活」というテーマで江戸幕府将軍の1日、江戸城で執り行われた行事、さらに定型的な年中行事を確認していく。 

 まず、将軍の「1日のタイムスケジュール」を見ていただきたい。これは、幕末の記録や、明治になってからの回顧録をもとに作成した表である。 

 タイムスケジュールを見ると、明六つの起床に始まり、食事(五つ)、

大奥での総触(そうぶれ/四つ)、講義と政務(四つ半~八つ)など、実にきっちりと、1日の日課が決まっていることが特徴である。さらに、これに種々の行事が加わるのだから。将軍の日常もなかなかにハードなものであったといえるだろう。 

 非常に規則正しい日課が遂行されているのはなぜだろうか。  

大きな理由は、太平の世の到来であろう。寛永14~15年(1637~1638)の島原・天草一揆を最後に、国内に戦争がなくなった。4代将軍、幼少で任官した家綱(いえつな)の頃は、社会不安が漂っていたが、幕閣の集団指導体制で乗り越えることができた。後に立派な青年将軍となった家綱は、寛文3年(1663)に諸大名に武家諸法度(寛文令)を発令し、翌年から2年がかりで大名・寺社・公家すべてに領知を安堵する寛文印知(かんぶんいんち)を断行し、統一的知行(ちぎょう)体系を掌握した。

  これらを受け、幕府は真の全国政権となり、泰平の世が到来する。将軍の上洛もなくなり、江戸が唯一の政治拠点となる。このような時代変化の中で、次第に将軍の政治内容も固定化し、規則正しいものになっていったのではないか。並行して、将軍の行事や年中行事も内容が定まっていったと考えられる。

政治の変化と年中行事に見る主従関係の再構築  

将軍は、老中からの伺(うかがい)に対して、伺い通りに裁可する場合は奉書紙(ほうしょし)でできた札に「伺之通(うかがいのとお)りたるべし」と書き、書類に挟み、老中へ下げ渡していた。 

 ここからは、文書を稟議する様子がうかがえるが、これは初期からではなく8代・吉宗以降、文書によって政(まつりごと)が推進されるようになったことを示している。政治案件が膨大化したため、為政者が政治の合理化を考えた末、文書による通達が中心になったと捉えることができる。 

 また、時代によって決裁内容も変わった。末期養子(まつごようし)の禁止や享保以降の相次ぐ改革など、時代の変化に応じ、歴代将軍はその対応を迫られた。  

行事も然りで、時として従来の行事を強化・実施する。将軍は自己の軍団に武の嗜(たしな)みを喚起させる必要があった。泰平の世の中で、軍役令で規定された武具や従者を十分にそろえず、武芸の訓練を忘れ遊興(ゆうきょう)にふける旗本が多かったためである。  

そのため、特に武芸上覧などの諸芸上覧を五番方(大番、書院番、小姓組、新番、小十人組諸番衆の総称)らに求めた。あるいは享保13年(1728)に吉宗は上洛に代わって大規模な日光社参を実施し、のち10代・家治、12代・家慶もこれを継承したのである。

  さらに、年中行事では年始御礼(正月元旦~3日)、上巳(じょうし/3月3日)、嘉祥(かじょう/6月13日)、八朔(はっさく/8月1日)、玄猪(げんちょ)の祝(10月1日)、歳暮(12月28日)の際、将軍が諸大名の御目見得(おめみえ)を欠かさなかったことは、本来的には対立関係にある大名と、主従関係を確認し続けなければならなかったためである。1日、毎年の生活の中で、歴代将軍はそれぞれの抱える課題を模索し続けたといっていい。

  しかし、やはり規則化された窮屈な日課であることも事実だった。将軍の住居兼オフィスである中奥は、江戸城表と大奥に挟まれ、じつは城内で最も面積の狭い空間だった。そんな中で将軍は寝て、起きて、食事し、政務に励み、時間の許す限り、思い思いに余暇を過ごしたと考えられる。

 監修・文/種村威史 (『歴史人』2021年10月号「徳川将軍15代と大奥」より)

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開成が東大合格者数トップを死守できるのは高校受験組「新高生」のおかげ?>首相も☆

2024年02月21日 08時03分17秒 | 教育のこと


開成が東大合格者数トップを死守できるのは高校受験組「新高生」のおかげ?(日刊ゲンダイDIGITAL) - Yahoo!ニュース 




【開成vs麻布の真実】#3 「開成が東大入試でトップを走り続けているのは高校からも生徒を採っていることが大きい」と話すのは同校の元教師だ。2月1日の中学(定員300人)に続き、高校(定員100人)の入試が10日に行われた。555人が受験し、合格者は189人、倍率は2.9倍だった。 

岸田首相「開成愛」の薄さは“新高”出身だから? ソッケない態度に中学入試組との見えない壁 



「中高6年間を通したほうが授業のカリキュラムが組みやすい」(同校関係者)というのがその理由だ。  

それは開成も同じ。中学のカリキュラムが進んでいるために、高校から入学した生徒(「新高」と呼ぶ)については別クラス(50人×2クラス)を設けなければならない。2年次から中学からの生徒(旧高)と合流する。学校運営はたいへんだが、

「高校から新しい血が入るのは、旧高にとっても刺激になる」と元教師はそのメリットを挙げる。  

元々は開成も麻布と同じく、完全中高一貫だった。高校入試をスタートしたのは1960年。当時の募集定員は50人。それ以前から名門校として名が知られた存在だったが、現在のような超進学校ではなかった。高校募集の効果が表れ始め、東大合格者数上位校の常連となるのは60年代半ば。68年以降はトップ10を外していない。

どちらにとってもウィンウィンの関係

岸田首相は1976年開成を卒業した最後の新高正(C)日刊ゲンダイ

 74年、高校の募集定員を倍の100人に増やすと、さらに躍進する。彼らが卒業する77年、初めて東大合格者数首位を獲得。82年からは昨年まで41期連続で首位を死守している。 

「開成が高校からの定員を増やしたのは、67年の学校群制度導入と無縁ではない。学校間格差をなくそうとしたこの制度で、都立上位高が一気に凋落。定員増員は都立高受験を経て一流大学を目指そうとしていた生徒たちの受け皿の役割を果たす目的もあった」(元教師) 

それは生徒にとっても学校にとってもウィンウィンの結果をもたらした。60年代、日比谷、西、戸山、新宿などが東大合格者数上位を独占。こうした名門都立高を目指していた受験生が行き場を失い、開成高に流れてきたのだ。都立とは比較にならないが、当時の開成の学費は私立校の中では圧倒的に安かった。一方、学校にとっての最大のメリットは優秀な生徒を確保できたことだ。 

飛び抜けて地頭がいい生徒が多く、カリキュラムで先行する旧高にすぐに追いつく。1年後に合流して混合のクラスになる頃には、新高の成績が上回っているケースも少なくありません。その傾向は今も変わらない」 

 開成を76年に卒業した岸田文雄首相は高校募集50人時代の最後の新高。この元教師の話からすると、相当に頭が切れるはずだが、一向にその気配はない。いつまで「能ある鷹は爪を隠す」のだろうか。 (田中幾太郎/ジャーナリスト)



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「軽井沢の別荘」を買って家族が「バラバラ」になった、元商社マンの悲しい末路

2024年02月21日 06時03分12秒 | お金のこと
 

大手商社を定年退職し、2500万円で購入した軽井沢の別荘に移り住んだ寺田吾郎さん(仮名・72歳)。妻と二人で夢のようなセカンドライフを送りつつ、「将来的には子どもたちが相続してくれればいい」と考えていたことは、




【前編】『2500万で「軽井沢の別荘」を買って大後悔した、元エリート商社マンの悲惨な老後』でも紹介した通りだ。


10・20・2021

しかし寺田さんの老後の設計は、何から何まで「崩壊」していくことになる……。 


【写真】2500万で「軽井沢の別荘」を買って後悔した、元エリート商社マンの悲惨さ

理想の暮らしに、暗い影が…

Photo by iStock

 そんな暮らしも長くは続かなかった。妻にがんが見つかったのだ。 

 「胃がんでした。宣告されたときにはステージ4、いわゆる末期がんです。転移が進んでいて、病状は日に日に悪くなっていきました。宣告から旅立つまで2年、あっという間でした……」

  懸命に看病した寺田さんだったが、住まいが別荘地であるゆえの苦労もあったという。 

 「病院は少なくはないのですが、高度ながん治療を受けられる施設が近くになくて。通院や、在宅での緩和ケアに移行してから往診を手配するのも苦労しました。子ども2人も時々見舞いに来てくれましたが、仕事があるのでマメには来られません。  

看病はほとんど私がやりましたし、家事も最低限のことはなんとか済ませて……。妻も辛かったでしょうが、私にとっても苦しい2年間でした」 

 あまりにも早く妻が旅立ってしまい、寺田さんは次第に寂しさを募らせていく。家庭菜園や料理への興味も薄れ、東京で家庭を持った子どもたちが孫を連れて時々遊びに来てくれることだけが唯一の楽しみ。充実した老後を送るための別荘だったが、一人暮らしではやはり不自由なことの方が多いのだ。  

妻の闘病を支えていたこともあり、先々の医療面でも不安がある。妻の三回忌の法要が済んだ頃、寺田さんは別荘を売って都内にマンションを購入して移り住もうと決意した。


予想外…こんなに売れないなんて

Photo by iStock

 「価値のある別荘だから、どうとでもなると思っていたんです。きちんと手入れしていたから見た目もきれい。内装もこだわっているし、リフォームしたから水回りもピカピカです。今となっては甘かったとしか言いようがありませんが」 

 子どもに譲ってもいいし、売りに出したとしてもすぐに買い手がつくだろうと思っていた寺田さん。しかし地元の不動産屋の回答は渋いものだった。  

不便な場所なので買い手もつきにくいだろうと言われてしまいました。本当は少しでも早く売却したほうがいいが、売れる保証もない、と。予想していなかったので驚きましたね。そこで、元々子どもに相続させるつもりだったので、少し予定を早めて譲渡したいと子どもたちに相談したんです」 

 ところが娘も息子も難色を示した。  

「これから教育費がますますかかってくるから別荘の維持費なんて払えない。それに仕事と子育てで忙しく、別荘があっても使う時間がない」 

 「譲り受けるにしてもいずれ相続するにしても、税負担が重すぎる。お父さんの方で処分してくれ

  子どもたちは2人とも30代。共働きの子育て家庭には、別荘なんてお荷物だ――そう言われているように寺田さんは感じた。

  「思い出がたくさん詰まった大切な別荘です。子どもからいずれは孫にも受け継いでほしくて何度も話し合いをするうち、だんだんとケンカのようになってしまって……もう電話にも出てくれません。今では年賀状が届くだけです」 

娘と息子、どちらの家族とも疎遠になり、孫たちも成長して全く遊びに来てくれなくなってしまった、と寂しそうに話す。売りに出しても買い手がつかず、子供にも譲渡できない別荘で、寺田さんは今も孤独と不安を抱えながら一人で暮らしている。



数千万円の別荘が「投げ売り」されるワケ

Photo by iStock

 筆者が懇意にしている不動産仲介会社の社員によると、伊豆や軽井沢、蓼科といったかつての有名別荘地でも「投げ売り」される別荘が急増しているという。 

元々数千万円もの大金で購入した別荘であっても、築年数が30年を超えてくると上物部分の価値が格段に低くなるため、売買価格が数百万円になることはざらにある。とある不動産広告のチラシには、「販売価格1円!」「100円!」といった信じられない価格も記載されているそうだ。

  タダ同然で投げ売りされている別荘のなかには、

諸経費を売主が負担する」という破格の条件で売り出されているものもある。損をしてまで別荘を手放したい所有者が急増している理由の一つが、重すぎる税負担だ。 

 別荘には年間の維持費の他に、最低でも固定資産税と都市計画税、住まいにするならば住民税がかかる。ある程度の築年数が経過した物件であれば建物部分の固定資産税はさほどではないが、問題は土地部分だ。

  固定資産税は地価と連動するため、地価の高い有名別荘地の場合、税負担が年40万円を超えることも珍しくない。不動産には税金がかかるものだが、都内のマンションや戸建てに比べて土地も建物も広い別荘は、どうしても税額が高くなってしまうのだ。  

加えて盲点となりやすいのが管理費だ。別荘地は各自治体から許可を受けて開発されているため、生活インフラの維持管理のために別荘主に管理費を請求するという条件が課されている。管理費は別荘の場所や管理会社、土地建物の大きさなどの条件によって異なるが、有名別荘地のなかには管理費だけでも年間60万円かかるケースもある。 

 需要が下がっているところに別荘を手放したい人が急増したため、相場が下がって投げ売り状態となっているのが現在の別荘を取り巻く状況だ。1円や100円といった破格値で売却しようとしても、仲介手数料がほとんど見込めず仲介業者に断られる所有者も多いため、「空き家ゲートウェイ」のような均一価格の空き家マッチングサイトも登場している。しかし、それでも買い手がつかず別荘が余っているのが実情のようだ。  

つまり、持っているだけでお金がどんどん出ていく別荘は、利益を生み出す「富動産」ではなく「負動産」であるともいえる。今後も寺田さんのようなケースは後を絶たないだろう。


後悔しない「資産価値の高い」物件の選び方

Photo by iStock

 時代とともにモノの価値は変わるものであり、それは不動産にも当てはまる。「風の時代」という言葉に象徴されるように、立派な持ち家や別荘、高級車がステータスであるという価値観は変わりつつある。 

 若い世代を中心に、余計なモノを持たず、ライフスタイルの変化に合わせて借りたり買い換えるほうが合理的だと考える人が増えているのだ。 

 不動産は本来、「安心」を得るために所有するものだ。しかし時代や社会情勢が変われば、寺田さんのケースのように不動産が「不安」の塊になってしまうこともある。

  では、「安心させてくれる/人生を豊かにしてくれる」不動産はどういったものだろうか。それはとにかく、「資産価値の高い物件」である。 

 資産価値の面から冷静にみると、別荘の資産価値はバブル期であってもそこまで高くなかったと思われる。当時のプチブルたちがこぞって別荘を手に入れたがったのは単にブームが加熱したからで、立地やニーズからも資産価値が高いとは言い難いことはよく考えればわかるだろう。 

 今も昔も変わらず「資産価値が高い物件」といえば、やはり都内の人気エリア(渋谷区、港区、中央区)があげられる。ただ、こうしたエリアは価格も高いため、なかなか手が届かないことも多い。  

そういった場合、ほかにも人気が続くエリアの物件を選ぶと良い。たとえば、 

---------- 
(1)都心の主要駅へのアクセスが良いエリア 
(2)将来性が見込める開発計画があるエリア 
(3)昔からブランド価値があるエリア 
(4)近年再開発され住環境が向上したエリア 
---------- 

などだ。こうしたエリアの物件はニーズもあるため、リセールバリューも高い傾向にある。資産価値の高い物件はいずれ売ることもできるため、まさに「安心させてくれる/人生を豊かにしてくれる」といえるのだ。 

 不動産というのは、その人の人生を左右しうるほど金額の大きい買い物である。だからこそ、冷静に資産価値を見極めて購入してほしい。ブームや夢に流されて「資産価値の低い=売れない」物件を購入することは、一生の後悔にもなりかねないと再認識したエピソードであった。




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おまえ、本当に医学部でいいのか?」 名古屋の名門「東海」は生徒を迷わせる

2024年02月21日 03時03分19秒 | 受験のこと
おまえ、本当に医学部でいいのか?」 名古屋の名門「東海」は生徒を迷わせる


3/10/2021

連載》進学校の素顔 東海中学・高校(中) 教育ジャーナリスト・おおたとしまさ 

国公立大医学部への合格実績で群を抜く東海中学校・高等学校(名古屋市)。授業やカリキュラムに何か秘密があるのかと思えば、「医学部受験のための特別な勉強なんて学校ではやっていません」。

むしろ「本当に医学部でいいのか絶えず考えさせたい」のだという。どういうことなのか。教育ジャーナリストのおおたとしまさ氏が迫った。
 ■名古屋の病院は東海の卒業生だらけ
 
愛知県名古屋市にある東海中学校・高等学校は、2019年、東大に37人、京大に40人、国公立大医学部に116人の合格者を出している超進学校だ。特に国公立大医学部合格者数では開成や灘をも凌駕(りょうが)する。なぜ医学部合格者が多いのか。

「世間的に医学部ブームだといわれています。でも本校はずっと前から医学部進学志向が非常に強い学校でした。にわかにブームに乗ったように思われるのは甚だ心外なんです」と言うのは高校教頭の西形久司さん。

1888年、もともとは浄土宗の僧侶を養成する学校としてつくられた。大正時代に教育熱が高まると、旧制中学が不足した。そこで東海も一般生を受け入れ、一般的な中学校としての認可を得た。

しかし、愛知県はいわゆる「官尊民卑」の思想が強い土地柄で、特に「官」志向で立身出世を目指す優秀な子どもたちはたいてい愛知一中(現在の旭丘高校)を選んだ。東海を選ぶのは、自営業者が多く、そのなかには医者の家庭も多かった。それで医学部進学率が当時から高かったのだ。

当時から近隣に愛知県立医科大学(現在の名古屋大医学部)があったことも大きい。現在でも名古屋大医学部の約4分の1は東海出身者で占められている。ほかにも名古屋市立大、岐阜大、三重大、浜松医大など、近隣に医学部が豊富であることも、驚異の医学部進学率の前提だ。2019年には名古屋大医学部に29人、名古屋市立大医学部に23人の合格者を出している。

 「このあたりの病院は卒業生だらけなので、『病院では声をかけるな!』と卒業生たちには言っています」と西形さんは笑う。

外部模試は一切行わない 
学校として医学部進学のノウハウでもあるのか。

「医学部受験のための特別な勉強なんて学校ではやっていません。ごく普通の勉強をしているだけです」と西形さんは言う。

定期試験のほかに、高1までは年2回の「実力テスト」を実施する。高2では年3回。高3では年4回の「校内模試」が行われる。業者による外部模試は一切行わず、すべて教員が作問する。教員が自らつくるからこそ、生徒のできを肌感覚で感じとり、その後の指導に生かせるのだという。

高2以降は文系・理系のクラス分けになる。例年、理系が8クラス、文系が2クラスできることが多い。さらに実力テストの成績に定期試験の成績を加味してA群・B群に分ける。B群は比較的少人数クラス構成になり、さらに英語に関しては授業のレベルを自己申告で選択できる。A群が上位クラスだが、B群の生徒たちに手厚いのだ。

高3の夏休みには希望者を対象にした夏期講習が10日間実施される。参加費2500円で好きな講座が受け放題になるしくみだ。それ以外に学校による強制的な補講は一切やっていない。ただし通塾率は高い。また、生徒たちからの個別の要請に応じた随時の補講はたびたび行われている。

 「私は日本史を教えていますが、センター試験が終わってからの約1カ月間は論述式問題の採点を大量に依頼されます。最近はメールを利用して24時間体制で対応しています。働き方としてはよろしくありませんが、せっかく生徒が頼りにしてくれているわけですから、入試直前くらいは勤倹誠実にやろうと思ってます(笑)」(西形さん)
 ■本当に医学部でいいのか迷わせる
 
医学部を勧めるなんてことも一切していない。

「だって定員が100人しかない名古屋大医学部に、うちの学校からヘタすれば100人以上が受けていますよ。効率よく合格実績を出そうとしていたらそんなことにはならないでしょう」(西形さん)

ただし、高1の「総合学習」の時間で病院実習を行ったり、「サタデープログラム」と呼ばれる名物イベントで医学関係者を講師として招いたり、「ようこそ先輩」という行事で医師として活躍するOBの話を聞いたりはする。

高1の総合学習の時間には、医学部志望者を集めて、いわゆる最先端設備がそろった総合病院に実習に行ったり、東洋医学の先生の話を聞いたり、看護師の立場から見た医師という仕事について話を聞いたり、イラクから来た留学生医師が医学を学ぶ理由を聞いたりしたこともある。

サタデープログラムとは、一般市民も参加できる公開講座だ。年2回、学校を開放し、合計約100講座が開かれる。講師として、政治評論家の田原総一朗氏、女優の竹下景子氏、漫画家の荒木飛呂彦氏、著名な弁護士、大学の研究機関や宇宙航空研究開発機構(JAXA)の研究者などを呼ぶための交渉をするのも、当日一般客を案内・誘導するのも、生徒たち自らが行う。いまでは1回につき来校者が6000人にも上る、地域の一大イベントになっている。この企画・運営自体が、生徒たちを大きく成長させている。

 「ほっとくと、成績上位から医者になっていってしまうんです。非常によろしくない。せっかく優秀なんだったらもっと別の分野でも活躍していろいろな角度から社会をけん引してもらいたい。だから本当に医学部でいいのかということを絶えず考えさせたい。迷わせたい。私たちとしてはそう思っているんです。一部の保護者からは『いらんこと言うな』と怒られるかもしれませんが」(西形さん)

医学部合格者数も東大合格者数も知らない 
西形さんはある卒業生の話をしてくれた。

非常に優秀な生徒だった。しかし高1のときに父親の事業が傾き、勉強へのやる気を失い、成績が落ち込み、夜のアルバイトをし始めた。たまたま事件に巻き込まれてしまい、一時は無期停学になったが、そこから奮起し、再び勉強を始めると成績はぐんぐん伸びた。一度どん底を味わいそこからはい上がってきた子どもは強い。高3では学年トップになった。

東大を受け、合格した。職員室にいた西形さんに報告の電話をくれた。しかし電話の向こうに嗚咽(おえつ)が聞こえる。「どうしたの?」と尋ねると彼は告白した。「先生も知ってるとおり、高1のとき、僕は学校をやめる寸前までいった。ぜんぜん勉強できない自分がいた。高3で不思議に勉強ができるようになって学年で1番もとったけど、いったいどちらの自分が本当の自分なのかわからなくなってしまって……。入試当日にいったいどちらの自分が出現するかと思うと怖くて、前の晩は眠ることができませんでした」。強い不安を乗り越えての合格だったのだ。

いつもはお茶目な西形さんだが、「生徒一人一人にドラマがあります。それを束ねて数にしたところで何の意味があるのでしょうか」と言ったこのときばかりは目に力がこもった。

「数字なんてどうでもいい。そういう彼の人生にちょっとでも寄り添うことができたことが、自分にとってはうれしい。医学部合格者数○年連続日本一だとか週刊誌には書かれますが、学校としては医学部が何人だとか東大が何人だとか、はっきり言って何の関心もないです。私自身は数字も知りません」(西形さん)

西形さんはほかにもたくさんの卒業生たちのドラマを語ってくれた。

 「ときどき彼らが学校に来てくれます。しょうがないからメシをおごります。でも彼らの話を聞いているとこちらの世界が広がります。教えていたつもりがいつの間にか教えられている。教師としてこんなうれしいことはありません。在学中だけしりをたたいて勉強させとったって面白くもなんともないでしょう」
 東海中学校・高等学校(名古屋市)
 
創立は1888年。もともとは浄土宗の僧侶育成のための学校としてつくられた。高校から1クラス分の入学枠があり、高校の1学年は約400人。2019年の東大合格者数は37人、京大が40人。東大・京大・国公立大学医学部合格者数の直近5年間(2015~19年)平均は177.2人で全国2位。特に国公立大医学部合格者数では全国でもダントツの1位。卒業生には、予備校講師の林修氏、ニュースキャスターの木村太郎氏、作家の大沢在昌氏、元総理大臣の海部俊樹氏などがいる。




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府中ホテル殺人>“お嬢様”元アイドル24と容疑者の「本当の関係: つぎこんだ1000万円の真相」を友人が明かす>府中市ホテル殺人事件 新証言》

2024年02月21日 00時03分55秒 | 事件と事故


《府中市ホテル殺人事件 新証言》“お嬢様”元アイドル(24)と容疑者の「本当の関係」「つぎこんだ1000万円の真相」を友人が明かす(NEWSポストセブン) - Yahoo!ニュース

《府中市ホテル殺人事件 新証言》“お嬢様”元アイドル(24)と容疑者の「本当の関係」「つぎこんだ1000万円の真相」を友人が明かす
2/13(月) 16:15配信


>「平林さんは石川容疑者からLINEで源泉徴収票の写しを見せてもらったらしく、私も平林さんからその写しをみせてもらいました。石川容疑者の年収は1000万円ほどでした。もちろん貯金もあったでしょうけど、とはいえ短期間に1000万円は渡しすぎでしょう。実際にはかなり追い込まれていたと思います」(Aさん)   


“星谷梨里花”の芸名でアイドルユニット「アオハルsince2015」のメンバーとして活動していた平林さなさん


 府中市のホテルのベッドで、首から血を流して倒れる平林さなさん(24)の遺体が見つかった事件。警視庁は2月3日、現場から立ち去った府中市内に住む職業不詳の石川晃容疑者(54)を殺人容疑で逮捕。石川容疑者は事件前から平林さんと面識があり、「寝ている被害者の首をナイフで3回刺して殺した」と容疑を認めているという。また「(彼女に)1000万円近くつぎ込んだ」と供述しているようだが、親子ほど歳の離れた2人の間に何があったのか──。


平林さんが代々医師の家系に生まれ育ったという背景や、「星谷梨里花」という芸名で『アオハルsince2015』というユニットに加入していたこともあり、SNSでは様々な憶測が飛び交っている。そんななか「詳しい事情を知っている」という男性Aさんが本誌・週刊ポストの取材に応じた。  

【写真多数】石川容疑者の「源泉徴収票」現物、Aさんが平林さんとしていたLINEのスクリーンショット画面、2人の関係を告白したAさんの近影、色白だった平林さんの生前の姿ほか


 Aさんは石川容疑者と平林さんの「双方と面識があり親しかった」という。なぜ今回、口を開こうと決意したのか。複雑な胸中をAさんが語る。 

  「報道では石川容疑者と平林さんの関係性がまったく報じられておらず、“ストーカー”による犯行のように伝わっていますが、2人は非常に親しい間柄でした。今のままでは誤解されたままになってしまうと思うといたたまれない気持ちになり、双方のことをよく知る私が話すべきだと思い至りました」 


 2人の出会いは「マッチングアプリ」 


 Aさんと平林さんが初めて出会ったのは彼女がアイドルグループを辞めた後で、去年の春頃のことだったという。 

「私はもともと平林さんの友人女性と知り合いで、その女性に紹介されて去年春頃に平林さんとも知り合いました。すでにその時点で平林さんは石川容疑者と面識があり、会話の話題にも恋人のような形で出てきていました。出会ったきっかけは『マッチングアプリ』だったと聞きました。

平林さんからは、歳が離れていることもあってか石川容疑者から常態的にお小遣いをもらっていることや、男女の関係も含めて親密だったことも聞かされていました。お小遣いの金額は1回会うたびに10万円程度だと言っていました」(Aさん)  

  Aさんの認識では平林さんは当時、定職についていなかったという。そのため、「普段の生活や身の回りに関することも含めて石川容疑者に支えられていた」のだという。 

  「2人は連日のように一緒にいました。石川容疑者には自宅もあったようですが、なぜか2人は新宿の決まったホテルの部屋を定宿にしていて、そこでかなりの時間を一緒に過ごしていました。なぜ私がそんなことを知っているかというと、私はそのホテルの近所にいることが多かったため、平林さんからよく『あれを買ってきてほしい』などと呼び出されていたんです。少し面倒でしたが、近所のよしみで。その過程で石川容疑者とも顔見知りになりました」(Aさん)   

 Aさんがそのような“小間使い”の役割を引き受けていたのは、新宿のホテルに住む生活になっていた平林さんの身を案じていたからだという。 

  「平林さんは石川容疑者のことを『自分の生活の面倒を見てくれる優しい年上のおじさん』という感覚で交際していました。しかし、石川容疑者のほうは平林さんの将来も含めて面倒を見なければいけないという責任感にも似た気持ちを抱いていたようでした。私は段々と双方に気持ちのズレがあることを感じていました。30歳も歳の差があることも気になっていましたから、定期的に平林さんの様子を見守ろうと思って、頼まれたモノの差し入れをしていました」



 「年収1000万円」の「源泉徴収票」を見せられた 

 そんなAさんの心配をよそに、平林さんは石川容疑者からもらう金銭は膨らんでいったという。 

 「平林さんはお小遣いを受けとるうちに、段々と新宿で派手に散財するようになりました。それに伴って石川容疑者からもらうお小遣いの金額が上がっていきました。一度に100万円を超す金額を受け取っていたこともあり、それで彼が供述している総額1000万円以上になっていたのだと思います。ただ、金額が上がっていくなかで一方的にお小遣いとして渡す関係ではなくなっていきました。   

 石川容疑者は逮捕当時、平林さんのマイナンバーカードを所持していたと報道されていますが、おそらく平林さんの所持品のほうには石川容疑者のマイナンバーカードがあるはずです。これは平林さんから聞きましたが、あまりに石川容疑者からお金をもらうようになっていくなかで石川容疑者が用意した借用書にサインするように言われたそうなんです。その際に“証明”としてお互いのマイナンバーカードを交換したからです」(Aさん)  

  Aさんは昨年の11月頃、石川容疑者が平林さんに傾倒していく様を心配して、平林さんに「そんなに彼からお金を受けとって、大丈夫なの?」と聞いたことがあったという。  

 「平林さんは石川容疑者からLINEで源泉徴収票の写しを見せてもらったらしく、私も平林さんからその写しをみせてもらいました。石川容疑者の年収は1000万円ほどでした。もちろん貯金もあったでしょうけど、とはいえ短期間に1000万円は渡しすぎでしょう。実際にはかなり追い込まれていたと思います」(Aさん)   

 このように2人の交際を見守っていたAさんは事件発覚以降、いまもフラッシュバックに苦しんでいるという。 

  「私が彼らと交流していたのは去年春頃から年末までですが、その間は週に1回は会うかLINEでのやりとりがありましたから、彼らの記憶は鮮明に残っています。だからこそ、事件があってからは毎晩彼らのことを思い出します。平林さんが石川容疑者に刺されるシーンが脳裏に浮かび、石川容疑者が2つのナイフを持っていたという報道から、もしかして心中するつもりだったのではないかと想像してしまい、寝つけなくなるのです」(Aさん) 

   非常に近くで2人の関係を見守ってきたAさん。しかし、「犯行に及んだ石川容疑者の胸中はわからない」という。石川容疑者が身勝手な犯行に及んだ背景には2人にしかわからない関係性の変化や問題があったのかもしれない。事件の真相解明が待たれる。  

 ◆取材・文/河合桃子(ライター)


 https://news.yahoo.co.jp/articles/cffc933816589b52f0c10f62005b34cb18bdc0bc
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