4代家綱の頃からルーティン化した将軍の「日常」
2/17(金) 11:30配信
2コメント2件
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/cd/3a96db4c37bdb397cb6f91fd99616e20.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/af/b45004a75d30129beb256e8a72778cbc.jpg)
【将軍の1日のタイムスケジュール】
狭い行動範囲で規則正しい生活を送る ここでは、「将軍の仕事と生活」というテーマで江戸幕府将軍の1日、江戸城で執り行われた行事、さらに定型的な年中行事を確認していく。
まず、将軍の「1日のタイムスケジュール」を見ていただきたい。これは、幕末の記録や、明治になってからの回顧録をもとに作成した表である。
タイムスケジュールを見ると、明六つの起床に始まり、食事(五つ)、
大奥での総触(そうぶれ/四つ)、講義と政務(四つ半~八つ)など、実にきっちりと、1日の日課が決まっていることが特徴である。さらに、これに種々の行事が加わるのだから。将軍の日常もなかなかにハードなものであったといえるだろう。
非常に規則正しい日課が遂行されているのはなぜだろうか。
大きな理由は、太平の世の到来であろう。寛永14~15年(1637~1638)の島原・天草一揆を最後に、国内に戦争がなくなった。4代将軍、幼少で任官した家綱(いえつな)の頃は、社会不安が漂っていたが、幕閣の集団指導体制で乗り越えることができた。後に立派な青年将軍となった家綱は、寛文3年(1663)に諸大名に武家諸法度(寛文令)を発令し、翌年から2年がかりで大名・寺社・公家すべてに領知を安堵する寛文印知(かんぶんいんち)を断行し、統一的知行(ちぎょう)体系を掌握した。
これらを受け、幕府は真の全国政権となり、泰平の世が到来する。将軍の上洛もなくなり、江戸が唯一の政治拠点となる。このような時代変化の中で、次第に将軍の政治内容も固定化し、規則正しいものになっていったのではないか。並行して、将軍の行事や年中行事も内容が定まっていったと考えられる。
政治の変化と年中行事に見る主従関係の再構築
将軍は、老中からの伺(うかがい)に対して、伺い通りに裁可する場合は奉書紙(ほうしょし)でできた札に「伺之通(うかがいのとお)りたるべし」と書き、書類に挟み、老中へ下げ渡していた。
ここからは、文書を稟議する様子がうかがえるが、これは初期からではなく8代・吉宗以降、文書によって政(まつりごと)が推進されるようになったことを示している。政治案件が膨大化したため、為政者が政治の合理化を考えた末、文書による通達が中心になったと捉えることができる。
また、時代によって決裁内容も変わった。末期養子(まつごようし)の禁止や享保以降の相次ぐ改革など、時代の変化に応じ、歴代将軍はその対応を迫られた。
行事も然りで、時として従来の行事を強化・実施する。将軍は自己の軍団に武の嗜(たしな)みを喚起させる必要があった。泰平の世の中で、軍役令で規定された武具や従者を十分にそろえず、武芸の訓練を忘れ遊興(ゆうきょう)にふける旗本が多かったためである。
そのため、特に武芸上覧などの諸芸上覧を五番方(大番、書院番、小姓組、新番、小十人組諸番衆の総称)らに求めた。あるいは享保13年(1728)に吉宗は上洛に代わって大規模な日光社参を実施し、のち10代・家治、12代・家慶もこれを継承したのである。
さらに、年中行事では年始御礼(正月元旦~3日)、上巳(じょうし/3月3日)、嘉祥(かじょう/6月13日)、八朔(はっさく/8月1日)、玄猪(げんちょ)の祝(10月1日)、歳暮(12月28日)の際、将軍が諸大名の御目見得(おめみえ)を欠かさなかったことは、本来的には対立関係にある大名と、主従関係を確認し続けなければならなかったためである。1日、毎年の生活の中で、歴代将軍はそれぞれの抱える課題を模索し続けたといっていい。
しかし、やはり規則化された窮屈な日課であることも事実だった。将軍の住居兼オフィスである中奥は、江戸城表と大奥に挟まれ、じつは城内で最も面積の狭い空間だった。そんな中で将軍は寝て、起きて、食事し、政務に励み、時間の許す限り、思い思いに余暇を過ごしたと考えられる。
監修・文/種村威史 (『歴史人』2021年10月号「徳川将軍15代と大奥」より)