将軍が大奥に泊まる際の「手順」(歴史人) - Yahoo!ニュース
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将軍が大奥に泊まる際の「手順」
2/17(金) 16:00配信
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写真・図表:歴史人
■中奥で独り寝した将軍も翌日は御座之間で御台に挨拶
将軍が日常生活を送るのは中奥と大奥だが、どちらにも寝所が設けられていた。中奥で寝る場合は「御休息(ごきゅうそく)之間」が寝所となる。御休息之間は居間そして執務室としても使われた。その近くにある「御小座敷(おんこざしき)」も居間として使われたが、表からやって来る役人と対面する部屋としては、別に「御座之間(ござのま)」があった。
起床後、将軍は大奥に向かい、そこで御台所の挨拶などを受けることになるが、大奥で寝る場合は「御小座敷」が寝所に充てられた。
御殿は表と中奥と大奥の3つに分かれていたが、表と中奥は一体化した空間だった。要するに、何か仕切りが設けられたわけではない。両空間は将軍や家臣たちが始終出入りすることを踏まえ、仕切りはなかった。
ところが、中奥と大奥は銅の塀で厳格に分離された。これは、外部から大奥への出入りを遮断したい幕府の強い意思の表れに他ならない。
銅塀(どうべい)で遮断された中奥と大奥の間には、両空間を繋ぐ廊下が設けられていた。これは「御鈴廊下(おすずろうか)」と呼ばれ、将軍だけが通れた通路である。御鈴廊下を経由して、将軍は中奥と大奥を行き来した。
御鈴廊下にもふたつあった。「上之御鈴廊下」と「下之御鈴廊下」である。普段使用されたのは上之御鈴廊下の方で、下之御鈴廊下は火事の時など緊急時に使用された。その名称が示すとおり、御鈴廊下の入口には大きな鈴が付けられており、大奥に将軍が入る時、この鈴が鳴らされた。
中奥と大奥には御鈴番所(おすずばんしょ)が置かれ、人の出入りを監視していた。中奥にいた将軍が大奥に入る場合は、中奥の御鈴番所で鈴が鳴らされ、将軍の通過つまり御成(おなり)を大奥に予告した。逆に大奥にいた将軍が中奥に戻る時は、大奥の御鈴番所で鈴が鳴らされ、中奥に予告した。
入口は「御錠口(おじょうぐち)」と呼ばれた。中奥と大奥を仕切る襖(ふすま)に錠前が付けられており、鍵を入れて襖を開け閉めして将軍を通過させたからだ。その管理を担当した奥女中は、「御錠口」と呼ばれた。そのまま役職名になったのである。
鈴が鳴らされると、奥女中たちは御鈴廊下に集まってくる。将軍の御成を平伏しながら待つ。準備が整ったところで、御錠口が錠前に鍵を入れる。襖が引かれると、中奥にいた将軍は御鈴廊下に足を踏み入れた。
2/17(金) 16:00配信
1コメント1件写真・図表:歴史人
■大奥に泊まる際に将軍は御伽坊主にお相手を伝える 将軍は一人で御錠口までやって来たわけではない。近習たちも御供(おとも)をする。将軍の佩刀(はいとう)を持つ者もいるが、大奥には入れないため佩刀を奥女中に渡すことになる。将軍の後に続いて、刀を抱き抱えた奥女中が御鈴廊下を進んでいく。中奥と大奥の間を行き来するたびにこういう手順が一々繰り返されたのである。
将軍が大奥で泊まる場合は、前もって大奥に連絡が行くことになっていた。その場合は大奥から奥女中を中奥に呼び出し、その意思を伝えて大奥に向かわせたが、使者の役を勤めたのは「御伽(おとぎ)坊主」と呼ばれた奥女中だった。大奥が男子禁制の空間であったのに対し、中奥はいわば女子禁制の空間と言えるが、御伽坊主だけは特別に中奥に入ることが許されていた。
御伽坊主とは頭を僧形にした奥女中で、黒羽織を着用していた。唯一、中奥と大奥の間を行き来できたが、当日の将軍の御相手つまり御伽を勤める奥女中のもとに、その旨を伝えることも御伽坊主の役目とされた。御台所が御相手の場合も、同じく御伽坊主がその旨を伝える使者を務めた。なお、将軍のお相手を一度でも務めると、その奥女中は「御中臈(ごちゅうろう)」と呼ばれるようになる。
大奥での将軍の寝所である「御小座敷」は上之御鈴廊下のすぐ近くにあった。御台所は御殿向内に設けられた専用の御殿から、御台所以外の奥女中の場合は住居である長局(ながつぼね)から向かうのであった。
監修・文/安藤優一郎 (『歴史人』2021年10月号「徳川将軍15代と大奥」より)