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トランプ前大統領のイメージは実は作られたもの?リアリティー番組の元担当者が語る真実とは

2024年10月30日 21時03分17秒 | 国際情勢のことなど

「私たちは怪物を作った: トランプは『アプレンティス』のために作られたテレビファンタジーだった」



トランプ前大統領のイメージは実は作られたもの?リアリティー番組の元担当者が語る真実とは 




 来月5日に行われる米大統領選挙で再選を目指すドナルド・トランプ前大統領が、以前出演していたテレビリアリティショー『アプレンティス』の元広報担当者が公開反省文を作成し話題になっている。


「トランプはテレビショーのためのファンタジーだった」という寄稿文


米NBC放送で『アプレンティス』のプロモーションを指揮していたジョン・ミラー元マーケティング担当ディレクターは17日(現地時間)に、U.S.ニュースに「私たちは怪物を作った: トランプは『アプレンティス』のために作られたテレビファンタジーだった」という記事を寄稿した。


ミラー氏はこの文章でリアリティショーで示されたトランプ前大統領のイメージについて「控えめに言ってもかなりの誇張であり、最悪の場合、それは実際よりも成功して見せる誤った物語だった」とし、誇張があったと述べた。



彼は「成功したほとんどのCEOはリアリティショーに出演するにはあまりにも忙しく、ショーで勝利した誰かを雇いたがらなかった」とし、反対に「トランプは撮影できる時間が多く、注目を浴びることが好きだったので、そのような心配はなかった」とキャスティングの理由を明かした。


また、トランプ前大統領が放送前に、4回も破産宣言をしたことに言及し「私たちが宣伝したトランプのイメージは非常に誇張されたものであり、フェイクニュースだった。我々はマーケティングには成功したが、トランプが成功した指導者であるという誤ったイメージを作り出し、取り返しのつかない害を与えたことを後悔している」との意向を伝えた。


『アプレンティス』ショーのプロモーションするために、トランプが成功したビジネスマンという「フェイクニュース」を作り広め、結果的にトランプ前大統領が政治的巨人になるのに加担してしまったという。実際にトランプ前大統領は2004年から『アプレンティス』に出演し、全国的な認知度を高め、この時に得た認知度と実業家のイメージが、2016年の大統領選勝利の足掛かりとなった。


「お世辞を言うと言いなりになる…プーチン・金正恩も気づいている」


一方、ミラー氏はトランプ前大統領について「彼は巧妙だが、驚くほど操りやすい人間だ」とし、「彼は称賛に関しては埋まらない穴があるので、どれだけしても十分ではない。彼はお世辞を言うといいなりになる」と述べ、ロシアのストロングマン・ウラジーミル・プーチンや北朝鮮の独裁者・金正恩(キム・ジョンウン)もこれに気づいていると語った。


また、トランプ前大統領が『アプレンティス』で黒人と白人の対決を進めることを提案したことも挙げ、広告主たちが人種間の対決を嫌がるだろうという趣旨で遠回しに反対したと伝え、「彼はそれがなぜそんなに悪いアイデアなのか理解できなかった」とし、「彼は疑わしい判断力を持っていた」と批判した。


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10・29・2024
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高市新党誕生で“政界大再編”の可能性 自民・立憲民主の「大連立」を中心に右派・中道・左派の3大グループという構図に

2024年10月30日 15時03分15秒 | 政治のこと


高市新党誕生で“政界大再編”の可能性 自民・立憲民主の「大連立」を中心に右派・中道・左派の3大グループという構図に



10/30(水) 6:59配信


NEWSポストセブン
自民と立憲民主の「大連立」という可能性も(左から石破茂氏/写真=共同通信社、野田佳彦氏/時事通信フォト)


 今回の衆院選を受け、米ニューヨーク・タイムズは「日本の有権者は自民党を罰したようだ」「日本政治はこの数年で、最も不安定な時期を迎える」と報じた。自民党総裁選で注目を集めた勢いで解散総選挙を乗り切ろうとした石破茂・首相の目論見は大きく外れ、恨みを募らせた反主流派との政争が始まる。発火点と見られるのは高市早苗・前経済安保相だ。高市氏を支持する反主流派がここぞとばかりに“石破降ろし”に動いた結果、石破首相退陣。さらには高市新党結成で自民党分裂といったシナリオも想定される。そして、その先にあるのは政界大再編だ──。【全4回の第4回】


【政界再編図】プレイヤーは149人、自民・立憲民主の「大連立」も 今後の政界は右派・中道・左派の3大グループに分かれるか


自民と立憲の大連立の可能性
 高市新党が飛び出せば、それを引き金に政界全体を巻き込む大再編につながっていく。


 自民党が過半数を確保して政権を維持するには大きな連立の組み替えを迫られるわけだが、すでにその事態に備えている様子が窺える。


 森山裕・幹事長は連立組み替えの可能性について、選挙中から「政策的に一致することができれば、会派を同じくして日本の発展のために一緒に頑張るということも大事なことだ。拒むことはあってはならない」と前向きな発言をしている。


 掲載の図は、これから起こる政界再編に向けた149人のプレイヤーの立ち位置を示した相関図だ。


 石破政権で主流派に属する自民党議員が言う。


「現在の主流派には、高市氏や彼女を担ぐ旧安倍派の連中が生き残ると、いつまで経っても党のイメージが刷新されないという懸念が根強くある。であればむしろ、高市支持派にはさっさと出ていってもらって、右寄りの日本保守党や参政党を取り込むなり組むなりしてもらえばいい。その時は、維新や国民民主との連立に組み替えても過半数には届かない状況になるので、立憲民主に手を突っ込んでいくことになるだろう」


 まさかの野党第一党の立憲民主との「大連立」という話だが、専門家や関係者の話を総合すると、今後の政界がその大連立を中心に、右派・中道・左派の3大グループへと再編されていく可能性が十分にある。


 まず、政治ジャーナリストの宮崎信行氏は、「自民と立憲民主との大連立の実現性はある」と見る。


「立憲民主の期限付きの連立参加は考えられます。自公が少数政権になった場合、来年の参院選までの間、来年度予算を成立させる限定的な連立はなくはない。


 民主党政権時代の東日本大震災の時は、民主、自民、公明の3党で復興基本法を成立させたことがある。当時の自民党政調会長で合意をまとめたのが石破首相だった。また立憲民主の野田佳彦代表も首相時代に民自公で消費税率を10%に引き上げる3党合意を結んだ。連立を協議する人脈はある」



立憲も野田vs枝野で分裂
 2007年には自公が参院過半数割れに追い込まれ、政権運営に苦慮するなかで、福田康夫首相と当時民主党代表だった小沢一郎氏の間で、大連立の成立寸前まで協議が進んだこともあった。民主党内の猛反発で実現には至らなかったが、その小沢氏が現在は立憲民主・野田代表の後ろ盾である。


 そして政治評論家の有馬晴海氏は“令和の大連立”に向けた動きをきっかけに立憲民主の党内に亀裂が走り、現在の政界の枠組みを大きく塗り替えるかたちの「保守勢力同士の連立」となる可能性を指摘する。


「総選挙で躍進した立憲民主党には民主党時代から続いている党内の左右対立がある。保守・中道の議員は自民党と連携できるはずですが、労組系の左派議員は自民党とは組めない。立憲丸ごとでは自公との連立には踏み込めない。成功するかは自民党側の仕掛け人次第ですが、自民党が分裂した場合はそれを契機に、立憲民主党も野田氏ら保守・中道系の議員と枝野幸男・元代表を中心とする左派リベラルの議員に割れる可能性が高い。そうすれば、自民と立憲民主の保守中道議員が本格的な保守勢力同士の連立に踏み込むことができるでしょう」


 自民党からは高市新党で右派の議員が分離して日本保守党など保守勢力が形成され、自民党の残った議員が立憲の保守・中道議員と合流する。そして立憲の左派グループは社民党やれいわ、共産党と左派ブロックを形成するという構図だ。維新をはじめとする他の野党も党内に亀裂がある。


 今回の総選挙は、そうした政界大再編という“本当の大嵐”の序章なのだ。


(了。第1回から読む)


※週刊ポスト2024年11月8・15日号


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京都で隣人から「うちの前に車を停めてもええで」と言われても絶対に停めてはダメな理由 

2024年10月30日 03時03分29秒 | 社会のことなど

京都で隣人から「うちの前に車を停めてもええで」と言われても絶対に停めてはダメな理由 地元の不動産会社が教える「古都」のホンネと建て前
(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース 




京都で隣人から「うちの前に車を停めてもええで」と言われても絶対に停めてはダメな理由 地元の不動産会社が教える「古都」のホンネと建て前

8/15(火) 11:02配信2023

デイリー新潮
“京都の人は何を尋ねても笑顔で答えてくれる”
誰もが一度は住んでみたいと思う古都の風景


<京都への移住に関心を持つ首都圏の若者が増えている>。こんな書き出しから始まる記事が京都新聞に載ったのは6月14日のことだ。記事は、東京で開催された京都への移住希望者を対象とするイベントなどに触れ、とりわけ若者を中心とした“移住熱”の高まりを指摘する。そして、背景には<新型コロナの影響でテレワークが進んだことや都会暮らしへの疑問、子育てをする上で自然環境を求める意識>があると報じている。


【写真】京都・夏の街角スナップ どこを切り取っても絵になる街である


「京都移住への関心は間違いなく高まっていると感じます。ただ、京都には長い歴史に基づいた、独特な文化や慣習、物の考え方が根づいています。その点をきちんと理解せずに引っ越すと、近隣で浮いた存在になってしまうこともあるのです」


 そう語るのは株式会社洛斗コーポレーション代表で、一級建築士の畑尚樹さんである。同社は京都を拠点に戸建てやマンションの設計・改築を手がけ、不動産業に加えて京町家をリノベーションした一棟貸しのゲストハウスビジネスも展開している。


 そんな京都に根を張る“不動産のプロ”のところにも、ここ最近、「投資目的ではなく、京都への移住を前提にした問い合わせが少なくない」そうだ。では、なぜ京都が“移住先”として人気を博しているのだろうか。


「やはり、多くの人が“古都”という響きに憧れを抱いているのだと思います。よく耳にするのは、学生時代に修学旅行で京都を訪れた方が、大人になって再訪して“やっぱり京都はいいなぁ”と惹かれるパターンですね。たしかに、京都には風情のある綺麗な街並みや神社仏閣、祇園祭といった他の地域では味わえない文化的な要素が目白押し。東京とは違って、都会でありながら、自然や田舎の感じもほどよく残っている。しかも、観光で訪れると、京都の人は何を尋ねても笑顔で答えてくれるので“一度は住んでみたい”と思っていただいているようです」


「どっからきはったん?」
 だが、本当に京都移住を目指そうとすると、数えきれないほど多くの“落とし穴”が待ち受けているのだ。観光で足を運ぶことと、実際に住むことの間に、京都ほど大きな落差がある街も他にあるまい。


 畑さんによれば、移住希望者がまず気を付けるべきは、京都人の「ホンネ」だという。


「京都人が“何を尋ねても笑顔を答えてくれる”のは、あくまでも観光客向けの顔と心得るべきですね。一定期間のお付き合いは笑顔で済ませても、隣に引っ越して来るとなれば話は別。ちょっとしたやり取りの行き違いで、相手の態度が数日前までとは全く変わってしまうこともあります」


 たとえば、京都に家を建てるため、ご近所にあいさつへ訪れたとしよう。隣家の住人の第一声は「どっからきはったん?」。この時、京都府内の別の場所から越してきたのならともかく、“東京から来ました”などと嬉しそうに答えると、「なんで、わざわざ京都にきはったん?」と白けた雰囲気になることもあるという。さらに、「東京は便利でよかったんですが、京都の落ち着いた雰囲気に憧れまして……」などというのは避けた方がいい。「こんな不便なとこに、わざわざ遠くからすんませんなぁ」と返されるのがオチだからだ。


大事なのは、決して“ふるさと自慢”をしないことです。京都人の物差しは“京都かそれ以外か”なので、引っ越す前の街について聞かれたら、枕詞に“京都にはかないませんけど”をつけて端的に回答するのが正解です。そうして上手く立ち回ると、“ええ人え”といった評判が町内に出回ることになります。ちなみに、うちの会社には先祖の代から京都に住み続けて7代目の女性スタッフがいるのですが、彼女によれば、同じ京都でも伏見から京都市内に引っ越すと“遠いところからよくきはって”と言われるそうです」



何よりも大事な近隣へのあいさつ
 なんとも気を遣うやり取りの連続……。移住希望者だけでなく、京都で建築や改築に携わる畑さんの会社も地元でのコミュニケーションにこそ神経を使うのだという。


「東京の人が京都の町家を買って、うちの会社がリノベーションを請け負った場合、工事前には私たちも近所へのあいさつ回りをします。その際、我々が“京都の会社”だと説明すると安心してもらえる。それは京都人のホンネを理解しているからです」


 畑さんは、京都への移住を希望する人には地元に通じた不動産業者と関係を築くことを勧める。それも、京都生まれ京都育ちの担当者が望ましいそうだ。


「できれば物件探しもネットではなく、地場の不動産屋に相談するのがいいですね。担当者には、京都人が何よりも重視する近隣への“あいさつ”にも付き合ってもらう。最初のやり取りに失敗すると、その後もずっと気まずい状態を引きずってしまいます。一方、京都育ちの担当者が同行すると、咄嗟の反応や受け答えに京都人らしさが滲み出るので、相手も心を開きやすいんです」


警察に通報されることも
 それに加えて、“ホンネ”を汲み取ることも重要だ。


「たとえば、建築工事の資材を積んだトラックの停車場所を探している時に、隣家の人から“うちの前に停めてもらってもええで”と言われたとします。しかし、絶対に停めてはいけません。この言葉を額面通りに受け取ると“常識がない”と判断されてしまう。それどころか、警察に通報されることもあります。そうした言葉は社交辞令と受け流し、とにかく近隣に迷惑をかけないように配慮すると、“さすが京都の業者さんやわ”と言われるようになるんです」


 ここまでの話を聞くと、軽い気持ちで京都への“移住”を口にするのは許されないと思えてくる。だが、畑さんは次のように語るのだ。


「京都人は、観光客や移住者を含めて外から人が入ってくることを嫌がっているわけではないんです。むしろ、本心では外の人と喋りたいし、仲よくしたいと考えている人が多いと思います。ただ、“角が立たないようにコミュニケーションを取ること”を京都人がとても大事にしているという点は理解してほしい。移住してすぐに受け入れてもらおうとするのではなく、まずはほどよい距離感で生活してみる。その積み重ねによって周囲が徐々に警戒心を解いていけば、“地蔵盆”など地元の行事に招かれるようになるはずです。それに、最初は大変かもしれませんが、京都に移住したのをきっかけに日常生活の中で細やかな気配りを身につけてしまえば、その後のビジネスシーンなどにもきっと活かせると思いますよ。おススメです」


 なるほど、結論として京都への移住はおススメということらしい。いずれにしても、長い歴史のある街で受け入れてもらうには、それなりに時間をかけるべきということか。


「そうですね。3代くらい住み続けたらかなり警戒心も解けると思います(笑)」



 京都、おそるべしである。


デイリー新潮編集部















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「もう戦争はこりごり」家康の生きた戦国から子孫が受け継いだ宝とは

2024年10月30日 00時05分05秒 | 歴史的なできごと


「もう戦争はこりごり」家康の生きた戦国から子孫が受け継いだ宝とは
9/2(月) 7:02配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/3c5dfc5c8d5045c967f963ebf8a4635bb05f4201





左から徳川宗家19代当主の徳川家広さん、MUFG相続研究所長の入江誠さん、MUFGファミリービジネス総合研究所・主任研究員の松平和大さん

相続会議
左から徳川宗家19代当主の徳川家広さん、MUFG相続研究所長の入江誠さん、MUFGファミリービジネス総合研究所・主任研究員の松平和大さん


2023年1月、江戸幕府初代将軍・徳川家康から連なる徳川宗家の19代当主に就任した徳川家広さん。三菱UFJ信託銀行MUFG相続研究所長の入江誠さんによる、徳川さんへのインタビューを3回にわたってお届けします。初回のテーマは、“家督”や徳川一族に受け継がれてきた理念についてです。三菱UFJ銀行MUFGファミリービジネス総合研究所・主任研究員の松平和大さんとともに伺いました。


災禍に見舞われ続けた徳川の家宝を守るには
入江(以下、敬称略):資産管理や資産承継に関する調査・研究などを行うMUFG相続研究所の所長を務めております、入江です。本日は徳川宗家における相続や承継について伺いつつ、現代の日本においてそれらが円滑に行われるためのヒントを頂戴できればと思っています。


松平:同族企業や創業家の永続的な発展への貢献を目指すMUFGファミリービジネス総合研究所で主任研究員をしております、松平です。私からはファミリービジネスや創業家のファミリーガバナンスという観点でお伺いし、それらに対するご示唆をいただけたらと思っています。


入江:いまインタビューの場をお借りしている公益財団法人 徳川記念財団は、徳川宗家の先代の恒孝(つねなり)さんが江戸開府400年目となる2003年4月に設立されました。その設立の目的について教えてください。


徳川:いまは徳川宗家と言い習わしていますが、慶長8年(1603年)に初代家康公が江戸に幕府を開いてから明治維新までは将軍家であり、維新後は公爵の爵位を受けた公爵家でありました。この徳川宗家(将軍家・公爵家)に伝わる歴史的・美術的価値のある史料や文化財を後世へ継承し、学術研究や社会教育の発展に寄与することが徳川記念財団の役割です。


最後の征夷大将軍・15代慶喜公の大政奉還後に徳川宗家として跡を継いだ16代家達(いえさと)は、明治維新後に駿府に移り住みますが、版籍奉還で江戸改め東京に呼び戻されます。このとき、家康公が最初に祀られた久能山東照宮(静岡市駿河区)に、江戸城から持ってきた家宝の半分ほどを寄贈しており、ここは戦災に遭わずに済んだため素晴らしい宝物館(現・久能山東照宮博物館)として残りました。


残り半分の家宝は、現在の東京体育館がある千駄ヶ谷(東京都渋谷区)の屋敷で保管していたものの、1920年代に放火に遭い、その半分ほどが消失してしまいます。さらに第2次世界大戦中は、疎開先の立川や八王子で空襲に遭います。そのようにして最後に残ったものを、父が17代家正から引き継ぎました。


政変、放火、空襲などでどんどん減ってきたとはいえ、2万数千点の文化財があります。今後は散逸することがあってはならない、という思いで徳川記念財団を設立したと聞いています。父は日本郵船の副社長を務める傍らで財団設立の準備を進め、無事に江戸幕府開府400年に合わせて設立することがかないました。


入江:財団の活動もそうですが、家広さんご自身、江戸時代の制度などの最新研究やSNSでの情報発信もされています。私も相続のあり方という点で、明治に入って法律によって画一的な制度となったものの、実はその前の江戸時代については地域性も認められるなど多様性が許容されていた時代だったのではないかと考え、関心を持っているのですが、明治以降との比較を含め、江戸時代とはどのような時代だったとお考えでしょうか。


徳川:日本史研究は時代ごとに分かれることが通例です。江戸時代は近世ですが、家康公はその人生の多くが戦国時代、つまり中世です。さらに明治維新後、16代家達と17代家正は貴族院議長を務めていたこともあり、その時代の記録の研究・公開も重要になってきます。日本史の研究の感受性からすると非常に珍しい、戦国時代から日本国憲法が発布される現代までをカバーする財団法人となりました。





185年ぶりの生前交代で徳川宗家当主に
入江:2023年1月29日には、父・恒孝さんから“家督”を継いだことに伴う「継宗(けいそう)の儀」が徳川家の霊廟がある増上寺(東京都港区)で執り行われました。祝儀(祝いの儀式)としては11代家斉公から12代家慶公への生前交代以来185年ぶりとのことですが、どのような儀式だったのでしょうか?


徳川:「継宗の儀」の目的は、関係する皆様方へのお披露目とご挨拶ということが一つあります。現在の法律上、「当主」も「家督」というものも存在しません。ただ、オーナー社長さんのお家や、代々政治家をなさっているお家もそうだと思いますが、慣習として「家督」のようなものは存在しています。家が半ば法人化しているということですね。私どももその一つでございました。


旧華族の当主らは「霞会館」という一般社団法人の会員になっていますが、そこでの催しにはやはり“家”の人間として参ります。徳川記念財団の運営にも関わっていますと、徳川の家を代表する人間であるという風にはっきりしたほうがよいのでしょう。


同時にご先祖様への報告も必要なことです。これは、うちが特別な家だからということではなく、誰もがご先祖様が累々と重なってきて今日に至っているわけですし、日本人の宗教感性からしても普通のことだと思います。


ただ、うちは地縁が全国各地に散らばっているのと、ゆかりのある社寺の宗派も様々です。そこで2022年11月から、日光東照宮(栃木県日光市)、寛永寺(東京都台東区)、久能山東照宮、大樹寺(愛知県岡崎市)、増上寺、輪王寺(栃木県日光市)といった徳川家ゆかりの6カ所をご挨拶して回り、先祖に当主の交代を報告する神事・法要を行いました。


入江:先代の恒孝さんとは、2015年の家康公没後400年の祭事にご一緒に出席されたあたりから、継承について考え始められたそうですね。お二人の間でどのようなお話をされたのでしょうか。


徳川:大げさな話ではなく、「そろそろ当主を僕が引き継ごうか」と言ったら「もうお前だと思っていたよ」という程度の話です。いまの民法下での前例もないわけですから「自分で考えてやりなさい」と、信頼しつつ突き放したような感じでしたね(笑)。




平和への転換点を作り出してきた先祖たち
入江:さきほど神事・法要というお話がありましたが、祭祀と言えばいまの日本の民法上、分割または共同相続が基本となっているなかで、祭祀や墳墓だけは慣習に従って祭祀主宰者が引き継いでいくことが原則になっています。日本人にとっては重要な意味を持っており、徳川宗家においても歴代将軍やご当主、御台所のご命日の法事をはじめとして、代々のご当主が継承されているかと思います。


松平:祭祀の他にも、初代家康公より受け継がれているものとしてはどのようなものがあるのでしょう。例えば、初代家康公から続く徳川宗家の一貫した理念などはあるのでしょうか?


徳川:よく「(家康公の)直系の子孫ですか」と聞かれますが、うちは養子でつないできました。会津松平家の一門に生まれた父も、中学2年生の13、14歳ごろに徳川家へ養子に入りました。


そうすると様々な考え方の人がいそうなのですが、驚くほど一貫して「もう戦争はもうこりごりだ」という家康公の思いはずっと受け継いできています。


最後の将軍である慶喜公も、内戦を避けるために職を辞しました。王政復古のクーデターで抵抗しなかったのは、これが元で大戦争になり、一歩間違えれば外国の植民地となってしまうといった皆の心配を受けてのことだったのではないかと思っています。


16代家達は、大正3年(1914年)に内閣組閣の大命を受けますが、熟考の末に辞退しています。天皇陛下の命令ですから軽々と断ってはいけないものなのですが、病気などのやむを得ない理由でもないにもかかわらず、辞退したというのは大きな判断をしたと思っています。もし、そのときに内閣総理大臣になっていたら、第1次世界大戦の宣戦布告をすることになっていたでしょう。


その代わりに、軍縮問題を討議したワシントン会議(1921~22年)では、全権委員の1人として参加しています。17代家正は最後の貴族院議長として、帝国議会で日本国憲法を成立させました。日本国憲法施行を控え、最後となった帝国議会の貴族院本会議では、世界恒久平和の確保に向けて努力する国になってほしいという思いとともに、演説 しています。


江戸幕府の開府に始まり約260年もの間戦争がなかった時代と、戦後の平和憲法の下での約80年間を経て、家康公が薨去(こうきょ)する間際に「こういう日本であってほしい」と願っていた社会にだいぶ近づいてきていると思うわけです。


松平:江戸時代あるいは徳川将軍家・宗家代々の当主の考え方といったものは、いまの日本社会のどのようなところに影響を及ぼしていると感じていますか。


徳川:私はいま、「東京の観光振興を考える有識者会議」の委員の1人として、東京の観光資源として江戸のレガシーを生かす取り組みに携わっています。増上寺の三解脱門(さんげだつもん)や上野東照宮ももちろん見どころなのですが、外国人観光客が東京に来てまず驚くのは、渋谷のスクランブル交差点で人がぶつからないでちゃんと見事にすり抜けていくことや、新宿ゴールデン街の狭い区画の中でも殴り合いにもならずにみんな仲良くお酒を飲んでいるようなことなのです。


江戸時代も、最初のうちは日本中から若い男性が主に土木工事で集まってきて、相当荒っぽかったのですよね。それを「限られた狭い空間で、仲良く暮らしましょう」という風に長い時間をかけて、新しい文化を作っていった。こうした江戸時代に生まれた文化や慣習の名残が、今日まで残っているわけです。


また、徳川幕府は儒教がイデオロギーだったとよく言われますが、実際は仏教で、家康公は敬虔な仏教徒でした。寺請(てらうけ)制度で戸籍を寺に管理させたり、民間の教育を寺子屋に任せたりしていたことからも、そうした意思はかなり強く感じられます。


結果として、江戸時代以前と以後では日本語のボキャブラリーも大きく変化し、私たちがいま使っている言葉にも仏教由来の言葉が多くありますよね。世間や人間のあり方が大きく変わったというのも、江戸時代の遺産かと思います。


●徳川家広さんのプロフィール
とくがわ・いえひろ/作家・翻訳家。1965年、東京生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、米ミシガン大学大学院で経済学修士号を取得。国連食糧農業機関FAOローマ本部とハノイ支部で勤務後、米コロンビア大学大学院で政治学修士号を取得。2000年末に帰国後は政治経済評論家としても活動。著書に『自分を守る経済学』(ちくま新書)、『マルクスを読みなおす』(筑摩選書)ほか訳書多数。2021年6月から公益財団法人徳川記念財団理事長。2023年1月、徳川宗家19代当主に。


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