犬神スケキヨ~さざれ石

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独善と言う病に凭れる人々

2024-05-06 18:52:00 | 草莽崛起
5月3日は憲法記念日でしたね。
何やら大阪の扇町公園では恒例の『護憲』を標榜する人々の集会が行われていたようです。



『輝け!憲法』だそうで。
大爆笑のタイトルですね。

100人をゆうに超え、13歳の少女が北朝鮮なる三流国家に拉致され取り返せずにいる現状は、現憲法下です。
一体現憲法の何が『輝く』のでしょうか?
バカバカしいにも程がある。

ま、いわゆる『護憲派』と言う連中は憲法条文など読んだ事もないのでしょうね。
ハードルは高くとも96条に改憲手続きが明記されているんですがね。


護憲派の努力も虚しく、読売新聞の世論調査では63%が改憲賛成です。
9条二項だけを見ても53%が賛成なのです。

つまりは我が国は改憲へと舵を切ったと言う事で、後は政治の判断のみと言う事です。

また、この護憲運動にカウンターをする人々もいますが、そんな事をしている場合ではない事は世論調査を見れば明らかです。

改憲阻止勢力なるものは、今や完全なオワコンで、またそれにカウンターをかけるのも完全なオワコンだと言う事です。
単なる、アホによるアホの為のアホなお祭りという話しですね。
世論はもっとずっと先に進んでいるのです。

4月29日の昭和の日でも、反天皇なる連中に右翼や自称保守とか言う人々がカウンターをかけたりしてますが、これもまた両方共にアホによるアホの為のアホ祭りです。

日本国民の大半は『天皇と言う御存在が必要』と考えているのです。
だから126代今上陛下がおられるわけです。
天皇の存在を担保しているのは国民です。
幾ら反天皇を掲げようと『革命』でも起こさない限りそれは変わりません。
だからアホなんです。
また、そんな事は明白であるのに『けしからん』とカウンターをかける方もアホです。

天皇がいなくなれば世の中が良くなるとか、そんな考えはけしからんとか、どちらも単なる独善と言う病に冒されているのです。

拉致された同胞がいる事を無視して『護憲』等と言うアホもまた『独善』と言う病に冒されているのです。

世の中には矛盾や理不尽な事は山ほどありますが、それは皆で努力して薄めていくしかありません。

独善と言う病は恐ろしいもので、一度罹患すると中々寛解するものではありません。

世の中の矛盾に直面し『なんとかしなければ』と考え出します。
その内に『自分がなんとかしなければ』とか考え出したり、言い出したりします。
本当は殆ど何ら影響していないのに『自分が動いたから良くなった』とか言う始末。
ここまで来たら立派なステージ4で末期です。

だいたいここまで来ると、法や憲法は限界だ!それを超えても構わないとか言い出す始末です。
これを右や左関係なく言い出すのです。
『尊皇』を標榜する者ですら、これを言い出します。
天皇陛下ですら絶対に遵守する憲法や法を下品な平民が超えても良いとか、何のコントやねん!てな話しです。




ま、右も左もとどのつまりは同じなのですね。
右や左は直線上の左右ではなく馬の蹄鉄のようにU字型の端と端と言う事です。

とにかく法を超えても、現状変更する事が一番だと考えるわけです。

完全に独善病です。

左に至っては未だ『革命』を標榜するアホがいるのは言わずもがなですが。

私の事を『理想主義者』と言う方もおられますが、どちらかと言えば現実的で原理主義に近いと思います。
何故なら『独善』を忌避しているからです。

独善に陥らない為にはどうすべきか?

それは原理原則に従うと言う事でしょう。
それは歴史的にも正しいのだと考えます。

保守だ革新だ、リベラルだなんだとよく耳にしますが大した定義らしい定義等ありはしません。

戦前、1930年代には『革新』と言えば右翼の代名詞であったのです。
革新右翼と呼ばれ、国家による統制を敷いた社会主義国家を目指していたのです。
いわゆる保守思想や、はたまた左翼からの転向組まで塊って国家社会主義を目指していたのです。

戦後は自由民主党が結党され、それに対抗を自認する勢力、つまりは日本社会党一派が革新と使い出したのです。

戦前は右翼が、戦後は左翼がと時代によっても変わっているわけです。
これを見ても私が主張する『右翼も左翼も同じ』と言う話しの根拠を理解出来ると思います。

戦前は、226事件を起こし戦後はインフレ時に労働争議を起こしていた連中とは根っこが同じ。先述した馬の蹄鉄です。

またリベラルと言うものも昨今は丸で左の代名詞の様に用いられもしますが、本来は自由主義と言う事です。
我が国では保守の対義語の様になっていますが、全く対義語でもありません。

そもそもリベラルの目指す所は、伝統的な規範や君主制、宗教などを議会と法の支配に置き換える事にあるのです。
明治維新後の我が国を見れば、長く培って来た伝統的規範を帝国憲法に置き換え、議会制民主主義を導入した事は実に見事なリベラルと言えるのではないでしょうか?
自由主義の由来が市民革命にある事から、いわゆる保守との対義に解釈されているのでしょう。

ならば保守とは何ぞや?となります。

一説には従来からの伝統、習慣、制度、考え方を維持し改革・革命・革新に反対する思想とされます。
過激な傾向を拒否し、穏健な立場を奉ずるとも言われます。

しかし保守なるものが具体的な思想や体制を掲げて何を指すかは明確ではありません。
国や立場や時代により随分と違います。
社会主義国では社会主義思想が、イスラムではイスラム教に基づく考えが『保守』と呼ばれたりするのですから正直よくわかりません。
北朝鮮では、朝鮮労働党やもっと言えば金一族の統制が『保守』であろうし、支那であれば支那共産党こそが保守であるわけです。
この辺りが理解出来ずに保守などと言う言葉にしがみついている我が国の『保守標榜者』とは一体何なのか、よくわかりませんね。

選挙になれば『保守票』だの『保守分断』だのよく耳にしますが、そう言わなければどうにも纏まりのない『一団』なのであろうと思います。

方や左と呼ばれる人間も『リベラル』を標榜しますが意味など理解していないでしょう。

保守と標榜者も『あいつは保守じゃない』とか言う始末で『我こそは保守本流なり』とでも言いたいのでしょうが、そんなもん存在しないのは先述の通りです。

いわゆる左にしても基本的に社会主義、共産主義に凭れているのですから『我こそマルクスレーニンの真の理解者なり』と言って自分と違う解釈をする者をパージします。

こういう事がいわゆる『内ゲバ』と呼ばれる所以であると先ず理解しましょう。

革新右翼、革新左翼、リベラル、保守等と言うものに凭れる人々と言うのは、詰まる所独善という病に冒された気の毒な人々と言う事です。

毎度、話しでいますが例えば国際関係論で理論らしい理論がない中で理論化されたラセット&オニールの平和の為の五要件などは実にわかりやすく原理原則を端的に表していると解ります。




民主主義・国際的な組織・経済的相互依存という『リベラリズム』として手段。
強い同盟関係・防衛力とう『リアリズム』としての手段が揃って初めて『継続的な平和の維持』が可能であるのです。

どちらか一方では平和は構築出来ません。

先の病に冒された人々はリベラルかリアリズムのどちらかしか考えていません。

さて話しは戻りますが、人は私を『理想主義』と言ってみたり『保守』と言うカテゴリーに入れてみたりもします。

ならばそれに乗っかって言うなら、私はリベラルでしょう。
何故なら、人は先ず自由であるべきだと考えるからです。
そしてそれらは法により担保し、条文として明記すべきだと考えるからです。
そこに明記されない自由や権利など無いとも考えています。
いわゆる和式のリベラリストの様に、『多様性』をウルトラエクストリーム歪曲して、森羅万象全てに自由や権利が存在するなど考えません。
民主主義の手続きに則り、我々国民が考えて合議を得て条文化すべきです。

方や、我が国の伝統的規範も重視しており、先ずはそれこそが我が国の一丁目一番地だと考えています。
皇統の存続、天皇の存在、更には文化風俗風習。武士道や神道と言う信仰。
それら全てが日本国の根っこであり決して蔑ろにしてはいけないものです。
と、言うと『保守』と言われますね。

しかしこれが原理原則なのです。

私自身が自らを『原理主義』と言う所以です。

ですから現在我々が使っている『成文憲法』など必要ないとも考えています。
現在ある憲法など全く必要ありません。
伝統的規範や宗教観があるのですから、現在の憲法は全く必要ありません。
我々に必要なものは『理念』であって、それを『憲法』とすれば良いだけです。

理念法の下に基本法をぶら下げておけば良い。
憲法が理念だけなら、改正する必要もなく20条もあれば事足りる。
基本法なら幾らでも改正できます。

例えば帝国憲法第一条などは理解しやすい。

  • 第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
  • そもそも草案には『天皇之ヲ知ラス』とあったわけですが、当時でもさすがに『知ラス』は国民でも理解出来まいとして『統治ス』とされたわけですが、帝国憲法義解に伊藤博文は『これは知らすと言う意味だ』と解説しています。
  • 知らすとは『知る』と言う事で天皇のご本務を端的に表現しています。天皇のご本務とは祈ることです。国民の為に祈る。
  • 祈る為には『知る』事が必要です。国民の日常や生活を知り、その幸福と安寧を願い祈ります。これは天孫降臨にも示されています。
  • 天照大神が邇邇芸命に対して『地上世界をお前が知らせ』と。知らせとは知るの命令形です。知ることでより祈りは強いものとなります。
  • 帝国憲法草案を書いた井上毅は、草案作成に当たり日本書紀や古事記を熟読しています。また天皇の大御心を表す仁徳天皇『民の竈』すら帝国憲法に反映させたのだとも理解出来ます。
  • 大御心とは一般国民の総意です。
  • 帝国憲法下にあって民主主義の手続きにより議員を選び議会を運営し、民意を反映していました。天皇は国務大臣の輔弼を経て裁可を下す。
  • ですから、世に言う天皇主権なるものも甚だおかしな話しでもあるし、そもそも大御心が国民の総意であるのですから、これに逆らうことは天皇には出来ません。東大憲法学宮澤俊義が言う八月革命説などチャンチャラおかしな話しです。
  • これが我が国の原理なのです。ならば憲法条文に『日本国は万世一系の天皇が知る国』とすれば、女系だ男系だと言う議論すら必要ありません。万世一系と書くわけですから。女系論など『ハイ!終わり』です。
  • 万機公論に決すべし!と憲法に書いて、後は基本法をぶら下げて細かな仕組みを作り法制化すれば終わりです。
  • 伝統と規範を重視するなら、これで良いわけです。それを条文化する。
  • conservativeとliberalismと言うこれがリアリズムと言うものです。
  • 何も病を患い、独善に凭れる必要はありません。原理原則に従えば良いだけです。
  • 戦後、アメリカは日本に対して三布告なるものを突きつけます。占領統治するに当たり突きつけて来たのです。内容はと言うと以下の通りです。
  • 日本國民二告グ
  • 布告第一号:立法・行政・司法の三権は、いずれもマッカーサーの権力の管理下に置かれ、管理制限が解かれるまでの間は、日本国の公用語を英語とする。
  • 布告第二号:日本の司法権はGHQに属し、降伏文書条項およびGHQからの布告および指令に反した者は軍事裁判にかけられ、死刑またはその他の罪に処せられる。
  • 布告第三号:日本円を廃し、B円と呼ばれる軍票を日本国の法定通貨とする。
  • この様なものでした。
  • 当時の外務相、重光葵は総司令部に乗り込みこれを白紙撤回させました。その理由は『これでは國體の護持が出来ない!ポツダム宣言を履行せよ!』と言うものです。
  • ポツダム宣言履行とは、國體護持について連合国側は『日本国民の自由な意思により決定する』と言うもので、これを履行せよ!と言う話しです。
  • 正に『原理原則』を武器に白紙撤回させたのです。
  • あわや我が国の國體を失うところでしたが、原理原則を問う事で食い止めたのです。
  • 大日本帝国憲法から現在の憲法に改正するにも、原理原則が用いられた事実を、病に罹患した人々は理解していません。
  • 戦後、昭和天皇に拝謁したマッカーサーは天皇を処罰する事を考え直しました。連合国側は天皇処刑を強く打ち出していました。また、ソ連を筆頭とする極東委員会は占領統治に介入しようとするタイミングでもあったのです。
  • このままでは、天皇処刑は時間の問題です。
ここでマッカーサーは機先を制してドラスティックな方法に出ます。
大日本帝国憲法からの改正です。

見事に新憲法に改正する事で現在の1条〜8条を条文に明記しました。
改正後、鈴木貫太郎は『なんとか國體が護持された』と安堵したと言う事からも理解出来ます。

三布告撤回は原理原則に従った結果です。
それは『国民の自由な意思により決定される』とした一文です。

マッカーサーはこれを見事に利用したと言う事であろうと理解できます。
国民の自由な意思により1条から8条を明記し天皇と言う存在を護持すると決定した。

これを否定する事は誰も出来ません。
連合国だろうが、極東委員会だろうが日本国民の自由な意思を否定する事はできません。

これにより極東委員会の思惑を挫く事に成功したのです。

そして何よりも『ポツダム宣言』を利用したと言う事を考えなければなりません。
この原理原則は『国民の自由な意思で決定』された事にあるのです。

勿論、この憲法で我が国を骨抜きにもした。

しかしポツダム宣言受諾時の國體の護持はなされるのか?と、言う問いに『国民の自由な意思で決定すれば良い』と回答しているのです。

つまり日本の天皇存続は日本国民の自由な意思により決定されたと言う建前を付けたのです。

世に保守と言われる人々の中には『現憲法押し付け論』があります。
これにより現憲法無効論を宣うのですが。

押し付けだから無効だとするなら、日本国民の自由な意思による決定は否定されます。
そんなものは『押し付け憲法』どころか『押し付け國體』と言う事になります。

宮澤俊義の『八月革命説』も酷いもんですが、『押し付け國體』ではその上行く酷い話しになります。

國體を断絶したい連中の思う壺です。

『押し付けられた國體』だから、それを否定する事は正しい事だと正当性は与えかねない話しです。

また、大日本帝国憲法に戻せば良いと言う話しも論理性はありません。
枢密院もない、法的根拠もない。
無茶苦茶な話しではないでしょうか。

我が国の根っこは、遡って古事記にある。

伊邪那美命から生まれた天照大神と須佐之男命が誓約をし、生まれた男神の子である邇邇芸命が地上を知らす。
つまりは男系、父系が繋がれて今上陛下に至る。
それを万世一系と呼ぶ。

我が国はその万世一系の天皇のが知らす国。

先ずは我が国の根幹はこれが原理原則であると言う事です。

近視眼的に戦後の僅かな時間にのみ囚われ、戦前と戦後を隔て考えるなど愚かな話しです。

戦前を否定するアホも同じで、皇紀で考えただけでも戦前は2600年もあるのに、戦後の僅か80年で2600年を否定するのですから。
愚か以外の何ものでもありません。

我々は断絶する事なく地続きの歴史を紡いでいるのです。

日本人と言うのは過去、現在、未来の日本人と言う事です。

それを己れの独善、自己顕示欲、功名心、虚栄心などに凭れて病を悪化させ本来の目的すら理解出来ないでいるのです。

祖国日本の原理原則をしっかりと今一度理解し直す事が肝要です。
















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