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犬神スケキヨ~さざれ石

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大同小異は成り立たない(入れ替え選)

2019-03-14 15:00:47 | 草莽崛起
いよいよ統一地方選挙が近づいて参りました。

大阪では府知事と市長が入れ替え選という事にもなりました。

これは現在の知事、市長が『大阪維新の会』所属であり、かねてより公約てしていた大阪都構想実現に向けての動きです。

議会では維新は過半数の議席を確保出来ていませんので公明党と会派を組んでいます。

国政では自公連立ですが大阪では維新公明連立と言う事ですね。

その公明党が、のらりくらりと『都構想』の法定協議会で態度が一貫せず、維新公明間で交わした約束を事実上反故にしてしまいました。

その為、現在の知事市長の任期中に『住民投票』が実現しないと言う事態となりました。
本来の取り交わし通りならば、今年11月には住民投票と言う事でしたが事実上不可能。

出直し選挙で知事、市長が再選をしても任期は延長しないので、入れ替え選により任期満額で都構想実現に向かうと言う事です。

さて、公明党の裏切りには甚だ滑稽さすらあり見ていて呆れ返る次第です。

さりとて、入れ替え選までやるか?
それは少しやり過ぎでは...と言う気も致します。

しかしまたもや大阪では自民党に共産、民主、社民、公明が乗っかる、いや共闘すると言う形で、維新対維新以外と言う図式。

しかも知事候補には知名度だけで『タレント』を候補に立てようと言う始末。

さすがの大阪府民もこれには大噴火!

次に立てたのが元副知事。
この人物、元々は橋下徹、現松井一郎のブレーンだった。
知名度は皆無。

自民はタレントを選んだゴタゴタで大阪府民の怒りも買ってしまい、維新に塩を送る事になっています。

打倒維新!

ただ一点で共闘する自共公民の状態はさすがに呆れるしかない。

維新打倒はわかったが、じゃあ大阪をどうするんだ?と言うビジョンは大してありません。

そしてこの選挙は大阪にとどまらず、現在の安倍政権を直撃するかもしれないのです。

まず、まぁ、維新が負ける事はないでしょうが、しかし議会選挙もありますから、ここで維新の勢力が縮小すれば?

この統一地方選挙の後、夏には参議院選挙が控えています。

もちろん注目点は改憲に必要な3分の2の勢力を取れるか?と言う事。

現状を見れば242議席の内、改憲勢力としては162議席必要です。

現在は自公議席にプラス維新12、希望3が改憲勢力です。
つまりこの15議席が無ければ改憲勢力は保てないのです。

今回改選される参議院議員は今から6年前の当選組。
政権発足後の2013年。
ご祝儀相場も相まって『取りすぎ』と言われた連中です。
つまりは、通常なら議席数を減らしてしまうのです。

それやこれやを考えますれば、この大阪の首長選挙と議会選挙は参院選の前哨戦と言えるわけですが、ここで、市長候補松井一郎を倒すにはあまりに強い。
しかし、若くてまだ知名度の低い現吉村市長を狙って知事候補を当てたと言う事でしょう。

ここで維新が勢力を落とす、或いは府知事と市長のどちらかを落とせば、維新は瓦解する事になります。
そうなれば必ず参院選に影響します。

つまり
改憲勢力の維持は不可能
と言う事になります。

そうなると憲法改正発議すら出来ない事態となってしまいます。

その為に、官邸サイドは入れ替え選を踏み止まるよう説得し、菅官房長官も『公明党との仲を取り持つ』と口説いていましたが、松井一郎がこれを拒否。

『死んでも死に切れん』と遂に入れ替え選に突入してしまいました。

自民党は小西と言う候補を立ててしまい維新とガチンコ対決!

事と次第では、参院選に響く。

そうなれば改憲に響くのです。

改憲を声高に叫ぶ方々の中にも維新憎しで、自民党候補を選ぶ!と今から宣言されている人もいるのです。

もう大阪はグチャグチャ状態。

また、自民党幹事長二階敏弘は『安倍四選もある』と言い出す始末。
この腹はどう見ても逆の意味があると読める訳です。

この状況を冷静に見れば全てが改憲阻止と言う言葉が透けて見えるのです。

大同小異と良く言うが、そんなものはないのだと実感出来てしまいます。

対立軸を以ってしか我が国は決められないのだと良くわかります。

我々が二千年を超え培ってきたオリジナルの民主主義は

天皇にとって民は平等、民は皆公平

それは神話にも書かれた事。

対立軸を作るのではない、一致点を見いだす
それが我が国オリジナルの民主主義。

改憲の発議すら出来ない状態で、拉致や領土の問題をどう解決するのか?
国民を守る手段が一字も書かれていない憲法でどう国民の生命や財産、幸福を守るのか?

どこの誰とも解らぬ『平和を愛する諸国民』にいつまで期待をして国民を殺されなければならないのか?

愛する人を我々は何人殺されれば気づくのか?

その事を忘れた現代日本において大同小異など死語となったのでしょう。