人民が権力を所有し、権力を自ら行使する立場を言う。基本的人権・自由権・平等権或いは多数決原理・法治主義などが、その主たる属性であり、またその実現が要請される
広辞苑による民主主義の解説が上記です。
全く何を言うとるんでしょうか?
さっぱりチンプンカンプンですね。
民主主義とは何なのか?
当たり前の様に毎日『民主主義』という中で暮らしてはいますが...
我々は民主主義を理解出来ているのか?
今回は考えてみたいと思います。
民主主義についてのイメージと言っても様々ですね。
我々日本人は民主主義しか行ってきませんでした。
だから、民主主義しか知らない。
共産主義については経験がありません。
だから学問的に、或いは文献などで知識はあっても民主主義以外の経験はありません。
だから民主主義についてあまり考えないのかもしれない。
民主主義をイメージとして捉えている程度ではないだろうか?
民主主義を行うとは何なのか?
先の広辞苑による解説を見ても、よくわからない言葉が並べられています。
恐らくは、私見ではありますが『一人の或いは特定の権力者が勝手に決めてしまわない』事にあるのではないか?
と、考えます。
我々、一般の民が自国をどうするのか考えて決めていきましょう!
そんな事ではないだろうかと思います。
その昔、世界は一人の王が治める地域が沢山あり、民衆は王の為の存在でした。
つまり、権力はたった一人の支配者の思惑で民は生きたり死んだりする。
その生きたり死んだりする事を一人の支配者に委ねない。
一人の権力者が持つ権力を民で頭割りにした。
この様な解説をする方もおられます。
極端な表現かもしれないけど、解りやすいです。
一人一人が権力者で、一人一人が色々考えて決めていかねばなりません。
ですから国の営みや決まり事を考えて決めて行くためには一人一人の意思表示が必要です。
その意思表示が選挙という訳です。
我が国では選挙により、議員を選びます。
これは我々に代わって議論する者を選ぶのです。
更に、この人ならば今抱える問題を解決出来るだろうとか、100%の実現は無理でも少しは国の為に進める事が出来るで有ろう人間を、我々の代わりに議論させる。
それを選ぶのが選挙でしょう。
直接民主制
間接民主制
これが選挙による民主主義ですね。
みなさんには釈迦に説法ですが。
直接民主制では、国民全員が政治に参加して物事を決めることにあります。
選挙ならば、米国の大統領選挙や我が国の地方自治における首長選挙は直接民主制という事になりますね。
間接民主制では、国民の中から代表者或いは代理人を選出して、その代表者が国民の代わりに一票を投じるという事になりますね。
我が国の国政は間接民主制という事になります。
直接民主制のメリットとしては、直接国民全員が決めるのでスピードが早い。
極端に言えば、その場の議論で直ぐに多数決により決定することが出来ます。
しかし、直接民主制ではワンイシュー、つまり一つのテーマについて決めるには良いのですが複数のテーマについて議論しなければならない場合には有効ではありません。
これは、YESかNOかという二択しかできないからです。
逆に言えば複数の議論が出来ないという事です。
一つの議題の中に複数議論しなければにらない問題がある場合は賛否だけでは決めることが出ません。
例えば『大阪都構想』賛成か?反対か?
これならば、地域も一つ、案件も一つですから直接民主制で決めることが出来ます。
間接民主制では、我々はまず代議士を選びます。
代議士は我々の代わりに議論をする者です。
ここが重要です。
先ずは代わりに議論する者を選ぶのです。
つまり、間接民主制では議論することが前提であるという事になります。
決める前に先ずは様々な案件について議論する。
議論が重要であって決める事は後なんです。
言いかえれば議論の結果『決めない』という選択もあり得る訳です。
選択が二進法ではない、複数あるというのが間接民主制のメリットとも言えるでしょう。
しかし、デメリットとしては時間がかかる、費用がかかる。
選挙制度如何では少数意見の切り捨てにもなり兼ねません。
例えば、現在の小選挙区制度では特に起こりやすくなります。
小選挙区制度というのは選挙区の区割りが小さいという事ではありません。
その選挙区で一人しか選ばれない
これが小選挙区制度です。
現在の小選挙区制度で選挙をすれば例えば、決戦投票がなく、しかもその選挙区に候補者が5人いたとします。
すると、その選挙区では得票率21%だった候補者が当選する事になります。
後の79%の意見は死に票となり切り捨てられてしまいます。
それを補完する為に比例制度を設けてはいますが、これは私は選挙そのものを破壊しかねないと考えます。
先ずは我々の代わりに議論する者を選ぶのが間接民主制の選挙ですから、しかも人を選ぶと憲法にも明記されていることからも、おかしなものだと考えています。
議論する政党を選ぶ訳ではありません。
政党とは意見の一致した者や一致点のある者同士がグループを作るのであって、政党有りきの選挙などはおかしな話です。
先に述べた様にそれぞれにメリットとデメリットがあります。
直接民主制では議論が前提ではなく決める事が前提にあります。
決める事が前提で話合わねばなりません。
二者択一の為の話し合いをせねばなりません。
他の選択は基本的にありませんから、より対立を煽る事になりますし、その場の雰囲気で決めてしまいかねません。
また、自らに不利益な変更なら賛成しないなど、個人の利益に走りがちになり結果、国益を損ないかねません。
民主主義の基本は皆に頭割りされた権力を如何に話し合うかにあります。
だからこそ、国会や市議会など議会があるわけです。
つまり直接民主制により国の政をやれば
民主主義の破壊に繋がりかねない
という事です。
間接民主制にしても、先ほど述べた様に多くの人の声が意思決定から漏れるというデメリットがあります。
現在の小選挙区制度の中では死に票と呼ばれる票が多く出てしまいます。
そうなれば、死に票側の立場に立たされた人はどうなるか?
頑張っても、自分の声は届かないのか?そう考える様になります。
すると、自らの意思表示が無駄になるならば投票に行かなくなります。
事実、小選挙区制度にした途端、ガクッと投票率は下がってしまっているのです。
しかし民主主義とは勝っても負けても納得する事が重要なのです。
自分の意見もあるが、相手に意見がある事を認めることが民主主義でもあります。
選ばれた者は責任を持って働き、選ばれなかった者は自らの至らなさを反省し先ずは勝った者に任せてみよう
そう納得しなければならない。
死に票が増えたり、対立を煽ることが進めば負けた側には不満ばかりが残り実は政治は滞ります。
するとどうなるか?
議会制民主主義の否定
これが起こります。
議会制民主主義が否定されたら、次に出てくるのはナチスに代表されるファシズムです。
間接民主制を否定し始めれば、全てを直接民主制で良いではないか?
と、なってしまいます。
直接民主制になれば、話し合いではなくその場の良し悪しだけで物事を決める事になり、そこに隠れた問題に気づかなくなるのです。
そうなると議会はなくなり民主主義そのものの崩壊へと向かってしまいます。
民主主義が行き過ぎ、民主主義の崩壊を迎えると人々は全体主義へと陥るのです。
この混沌とした状態を誰か打開してくれ!
人々はそう思い始めます。
これが英雄待望論です。
それが1930年代に起こった。
ドイツのナチスの台頭、アドルフ・ヒトラーの登場です。
ヒトラーはその演説の力で人々を魅了した。
ヒトラーの登場は英雄待望論の世論にぴたりとハマってしまいました。
第一次世界大戦で敗戦し疲弊しきっていたドイツに強権政治で次々と圧倒的力を見せつけるヒトラーにドイツ国民は陶酔します。
すると『ヒトラーは素晴らしい、あの政治家に全てを任せよう』と権力を集めてしまいます。
すると、ヒトラーの意思決定に誰も物を言わなくなり従ってしまう。
これこそが全体主義です。
このヒトラーの登場は世界で最も進んだ素晴らしい民主主義憲法!と、された
ワイマール憲法が生み出したのです。
不安定な経済・政党政治への不信感や不安感・マスコミによる政党政治への批判などが起こり、これが続くと次に来るのが英雄待望論となるのです。
ドイツにしろ、日本にしろ戦前二大政党制を取った時期がありました。
その時、お互いの政党は自らが政権の座に就く為に大した事もない話しで相手を叩きあったのです。
つまり、くだらぬスキャンダルをネタにして相手を叩き政権を取ろうとしたのです。
日本では同じ頃、政友会と民政党の二大政党制でしたが、お互いをスキャンダルで叩きまくっていました。
そうした中で大陸に進出した日本人は虐殺に会い、疲弊していきました。
経済は立ち行かなくなり、国民の中にはいつしか英雄待望論が芽生え始める。
そんな時に2.26事件や5.15事件が起き、軍の政治的介入が強まるのです。
これにマスコミが乗っかる。
政治は汚いもの、政治家は汚いものと不安感を煽り国民の不信感は強くなっていきます。
民主主義とは、完璧ではありません。
選挙制度にしても完璧なものはありません。
その完璧ではない中でより良いものを作っていかなければなりません。
私の考えを申すならば、我が国は間接民主制で議会制民主主義がより良いのではないか?
その様に考えます。
我が国にはそもそもオリジナルの民主主義を持っている国です。
それは神話に遡っても神々は常に合議を重ね意思決定をしてきました。
我が国オリジナルの民主主義は、権威の下民は皆平等である。
権威とは勿論天皇陛下です。
神々と地続きの系譜を持つ権威は、民を自らの宝とし、民の幸せを願って祈ると仰る。
我々民は天皇陛下の下に平等で皆が天皇陛下の『大御宝』です。
権威は権力を持つ事を放棄し、更に我々民が持つ権力すら持ちません。
権力や権利、自由は民に預け自らは『あなたこそが大事』と祈るのです。
本来なら権力を権能する権威は権力を我々民に頭割りにして預けたのです。
我々民は、その頭割りに頂いた権力を集めて国の為に、人々の為に仕事をする者を選び権力を与えるのです。
民から権力を与えられた者は、権威の宝である民の為に命懸けで働かなければなりません。
権力を与えられた者は権威から宝をお預かりしているのです。
我々、民は誰の所有物でもなくお互いが『対等な存在』としてきました。
そして、決して多数決に拠らない、合議を重ねて一致点を見い出す事を旨としなければなりません。
皆で話し合い一致点を見い出す。
何が正しいかを合議によって一致点を見い出す事によって決めるのです。
民主主義とは完璧ではありません。
油断すれば、とんでもない事態を招きます。
民主主義の基本を忘れた我々やドイツは戦争へと向かってしまった。
我々日本人の民主主義は
一致点を見い出す事
これが根っこです。
今現在の日本
今現在の我々の民主主義
今こそ、立ち止まり考えてみませんか?
広辞苑による民主主義の解説が上記です。
全く何を言うとるんでしょうか?
さっぱりチンプンカンプンですね。
民主主義とは何なのか?
当たり前の様に毎日『民主主義』という中で暮らしてはいますが...
我々は民主主義を理解出来ているのか?
今回は考えてみたいと思います。
民主主義についてのイメージと言っても様々ですね。
我々日本人は民主主義しか行ってきませんでした。
だから、民主主義しか知らない。
共産主義については経験がありません。
だから学問的に、或いは文献などで知識はあっても民主主義以外の経験はありません。
だから民主主義についてあまり考えないのかもしれない。
民主主義をイメージとして捉えている程度ではないだろうか?
選挙
民主主義を行うとは何なのか?
先の広辞苑による解説を見ても、よくわからない言葉が並べられています。
恐らくは、私見ではありますが『一人の或いは特定の権力者が勝手に決めてしまわない』事にあるのではないか?
と、考えます。
我々、一般の民が自国をどうするのか考えて決めていきましょう!
そんな事ではないだろうかと思います。
その昔、世界は一人の王が治める地域が沢山あり、民衆は王の為の存在でした。
つまり、権力はたった一人の支配者の思惑で民は生きたり死んだりする。
その生きたり死んだりする事を一人の支配者に委ねない。
一人の権力者が持つ権力を民で頭割りにした。
この様な解説をする方もおられます。
極端な表現かもしれないけど、解りやすいです。
一人一人が権力者で、一人一人が色々考えて決めていかねばなりません。
ですから国の営みや決まり事を考えて決めて行くためには一人一人の意思表示が必要です。
その意思表示が選挙という訳です。
我が国では選挙により、議員を選びます。
これは我々に代わって議論する者を選ぶのです。
更に、この人ならば今抱える問題を解決出来るだろうとか、100%の実現は無理でも少しは国の為に進める事が出来るで有ろう人間を、我々の代わりに議論させる。
それを選ぶのが選挙でしょう。
直接民主制
間接民主制
これが選挙による民主主義ですね。
みなさんには釈迦に説法ですが。
直接民主制では、国民全員が政治に参加して物事を決めることにあります。
選挙ならば、米国の大統領選挙や我が国の地方自治における首長選挙は直接民主制という事になりますね。
間接民主制では、国民の中から代表者或いは代理人を選出して、その代表者が国民の代わりに一票を投じるという事になりますね。
我が国の国政は間接民主制という事になります。
直接民主制のメリットとしては、直接国民全員が決めるのでスピードが早い。
極端に言えば、その場の議論で直ぐに多数決により決定することが出来ます。
しかし、直接民主制ではワンイシュー、つまり一つのテーマについて決めるには良いのですが複数のテーマについて議論しなければならない場合には有効ではありません。
これは、YESかNOかという二択しかできないからです。
逆に言えば複数の議論が出来ないという事です。
一つの議題の中に複数議論しなければにらない問題がある場合は賛否だけでは決めることが出ません。
例えば『大阪都構想』賛成か?反対か?
これならば、地域も一つ、案件も一つですから直接民主制で決めることが出来ます。
間接民主制では、我々はまず代議士を選びます。
代議士は我々の代わりに議論をする者です。
ここが重要です。
先ずは代わりに議論する者を選ぶのです。
つまり、間接民主制では議論することが前提であるという事になります。
決める前に先ずは様々な案件について議論する。
議論が重要であって決める事は後なんです。
言いかえれば議論の結果『決めない』という選択もあり得る訳です。
選択が二進法ではない、複数あるというのが間接民主制のメリットとも言えるでしょう。
しかし、デメリットとしては時間がかかる、費用がかかる。
選挙制度如何では少数意見の切り捨てにもなり兼ねません。
例えば、現在の小選挙区制度では特に起こりやすくなります。
小選挙区制度というのは選挙区の区割りが小さいという事ではありません。
その選挙区で一人しか選ばれない
これが小選挙区制度です。
現在の小選挙区制度で選挙をすれば例えば、決戦投票がなく、しかもその選挙区に候補者が5人いたとします。
すると、その選挙区では得票率21%だった候補者が当選する事になります。
後の79%の意見は死に票となり切り捨てられてしまいます。
それを補完する為に比例制度を設けてはいますが、これは私は選挙そのものを破壊しかねないと考えます。
先ずは我々の代わりに議論する者を選ぶのが間接民主制の選挙ですから、しかも人を選ぶと憲法にも明記されていることからも、おかしなものだと考えています。
議論する政党を選ぶ訳ではありません。
政党とは意見の一致した者や一致点のある者同士がグループを作るのであって、政党有りきの選挙などはおかしな話です。
英雄待望
先に述べた様にそれぞれにメリットとデメリットがあります。
直接民主制では議論が前提ではなく決める事が前提にあります。
決める事が前提で話合わねばなりません。
二者択一の為の話し合いをせねばなりません。
他の選択は基本的にありませんから、より対立を煽る事になりますし、その場の雰囲気で決めてしまいかねません。
また、自らに不利益な変更なら賛成しないなど、個人の利益に走りがちになり結果、国益を損ないかねません。
民主主義の基本は皆に頭割りされた権力を如何に話し合うかにあります。
だからこそ、国会や市議会など議会があるわけです。
つまり直接民主制により国の政をやれば
民主主義の破壊に繋がりかねない
という事です。
間接民主制にしても、先ほど述べた様に多くの人の声が意思決定から漏れるというデメリットがあります。
現在の小選挙区制度の中では死に票と呼ばれる票が多く出てしまいます。
そうなれば、死に票側の立場に立たされた人はどうなるか?
頑張っても、自分の声は届かないのか?そう考える様になります。
すると、自らの意思表示が無駄になるならば投票に行かなくなります。
事実、小選挙区制度にした途端、ガクッと投票率は下がってしまっているのです。
しかし民主主義とは勝っても負けても納得する事が重要なのです。
自分の意見もあるが、相手に意見がある事を認めることが民主主義でもあります。
選ばれた者は責任を持って働き、選ばれなかった者は自らの至らなさを反省し先ずは勝った者に任せてみよう
そう納得しなければならない。
死に票が増えたり、対立を煽ることが進めば負けた側には不満ばかりが残り実は政治は滞ります。
するとどうなるか?
議会制民主主義の否定
これが起こります。
議会制民主主義が否定されたら、次に出てくるのはナチスに代表されるファシズムです。
間接民主制を否定し始めれば、全てを直接民主制で良いではないか?
と、なってしまいます。
直接民主制になれば、話し合いではなくその場の良し悪しだけで物事を決める事になり、そこに隠れた問題に気づかなくなるのです。
そうなると議会はなくなり民主主義そのものの崩壊へと向かってしまいます。
民主主義が行き過ぎ、民主主義の崩壊を迎えると人々は全体主義へと陥るのです。
この混沌とした状態を誰か打開してくれ!
人々はそう思い始めます。
これが英雄待望論です。
それが1930年代に起こった。
ドイツのナチスの台頭、アドルフ・ヒトラーの登場です。
ヒトラーはその演説の力で人々を魅了した。
ヒトラーの登場は英雄待望論の世論にぴたりとハマってしまいました。
第一次世界大戦で敗戦し疲弊しきっていたドイツに強権政治で次々と圧倒的力を見せつけるヒトラーにドイツ国民は陶酔します。
すると『ヒトラーは素晴らしい、あの政治家に全てを任せよう』と権力を集めてしまいます。
すると、ヒトラーの意思決定に誰も物を言わなくなり従ってしまう。
これこそが全体主義です。
このヒトラーの登場は世界で最も進んだ素晴らしい民主主義憲法!と、された
ワイマール憲法が生み出したのです。
不安定な経済・政党政治への不信感や不安感・マスコミによる政党政治への批判などが起こり、これが続くと次に来るのが英雄待望論となるのです。
ドイツにしろ、日本にしろ戦前二大政党制を取った時期がありました。
その時、お互いの政党は自らが政権の座に就く為に大した事もない話しで相手を叩きあったのです。
つまり、くだらぬスキャンダルをネタにして相手を叩き政権を取ろうとしたのです。
日本では同じ頃、政友会と民政党の二大政党制でしたが、お互いをスキャンダルで叩きまくっていました。
そうした中で大陸に進出した日本人は虐殺に会い、疲弊していきました。
経済は立ち行かなくなり、国民の中にはいつしか英雄待望論が芽生え始める。
そんな時に2.26事件や5.15事件が起き、軍の政治的介入が強まるのです。
これにマスコミが乗っかる。
政治は汚いもの、政治家は汚いものと不安感を煽り国民の不信感は強くなっていきます。
民主主義とは、完璧ではありません。
選挙制度にしても完璧なものはありません。
その完璧ではない中でより良いものを作っていかなければなりません。
私の考えを申すならば、我が国は間接民主制で議会制民主主義がより良いのではないか?
その様に考えます。
我が国にはそもそもオリジナルの民主主義を持っている国です。
それは神話に遡っても神々は常に合議を重ね意思決定をしてきました。
我が国オリジナルの民主主義は、権威の下民は皆平等である。
権威とは勿論天皇陛下です。
神々と地続きの系譜を持つ権威は、民を自らの宝とし、民の幸せを願って祈ると仰る。
我々民は天皇陛下の下に平等で皆が天皇陛下の『大御宝』です。
権威は権力を持つ事を放棄し、更に我々民が持つ権力すら持ちません。
権力や権利、自由は民に預け自らは『あなたこそが大事』と祈るのです。
本来なら権力を権能する権威は権力を我々民に頭割りにして預けたのです。
我々民は、その頭割りに頂いた権力を集めて国の為に、人々の為に仕事をする者を選び権力を与えるのです。
民から権力を与えられた者は、権威の宝である民の為に命懸けで働かなければなりません。
権力を与えられた者は権威から宝をお預かりしているのです。
我々、民は誰の所有物でもなくお互いが『対等な存在』としてきました。
そして、決して多数決に拠らない、合議を重ねて一致点を見い出す事を旨としなければなりません。
皆で話し合い一致点を見い出す。
何が正しいかを合議によって一致点を見い出す事によって決めるのです。
民主主義とは完璧ではありません。
油断すれば、とんでもない事態を招きます。
民主主義の基本を忘れた我々やドイツは戦争へと向かってしまった。
我々日本人の民主主義は
一致点を見い出す事
これが根っこです。
今現在の日本
今現在の我々の民主主義
今こそ、立ち止まり考えてみませんか?