ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

リュクサンブール公園そばの大探検家庭園と世界四地域噴水

2022-10-10 18:02:56 | パリの思い出

 

この画像は、地図の通り、パリのリュクサンブール公園から長く伸びた庭園で、「大探検家マルコ・ポーロとカヴリエ・ドゥ・ラ・サル庭園」(Jardin des Grands Explorateurs Marco Polo et Cavelier de la Salle)と言われています。
さすがにそれでは長過ぎる、ということか、「大探検家庭園」や、「マルコ・ポーロ庭園」という表記も見つけました。
マロニエの並木が、深緑の壁のようにそびえているのが見事です。
そして手前のモニュメントは、「世界四地域噴水」(Fontaine des Quatre-Parties-du-Monde)と呼ばれています。「天文台噴水」(Fontaine de l'Observatoire)または「カルポー噴水」(Fontaine Carpeaux)とも言われています。
天文台というのは、ここから真南に天文台があるからのようで、またカルポーというのは、中心的な設計者であり制作者のカルポーにちなむもののようです。
噴水と言っても、この時は水を吹き出していませんでした。ちょっと寂しいですが、その分、秋のわびさびを感じます。
この噴水は1867年にオスマン男爵がナポレオン 3 世の公式彫刻家ジャン=バティスト・カルポーに依頼し、1874年にダヴィウドによって完成されました。
構造は、一番上にルグラン作の黄道12宮が刻まれた地球儀があり、それをカルポー作の四体の女性像が支えています。彼女達は、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、アジアを象徴しています。噴水名もそこから来ています。
その下の台座を囲む花輪はルイ・ヴィルミノによるものです。
そして周囲をエマニュエル・フレミエ作の馬、イルカ、カメの彫像で囲んでいます。
一番奥にはリュクサンブール宮殿、フランスの上院が小さく映っています。
一度だけ中に入ったことがありますが、内部は宮殿というだけにわかりにくい構造だったなあという印象が残っています。

(パリ市およびUn Jour de Plus à ParisのHPを参考にしました)

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フランスが生んだロンドン イギリスが作ったパリ

2022-09-21 22:02:11 | パリの思い出

 

フランスが生んだロンドン イギリスが作ったパリ

ジョナサン・コンリン 著

松尾恭子 訳

柏書房

2014年12月10日 第1刷発行

 

本書はパリとロンドンの交流によって生まれた物事、あるいは強い影響を受けた物事について取り上げています。

二つの都市の歴史を比較し、交流の歴史をひも解いています。

パリとロンドンは「歴史の交差」によって、単なる都市ではない、今日のような世界の中心都市へと姿を変えました。

(歴史ある大国の首都が、海峡を挟んでいるとはいえ、このような近距離にあるのは稀有な例といえます)

なお原題はTALES OF TWO CITIES PARIS, LONDON and the Birth of Modern City です。

 

第1章 穏やかならぬ家

1789年頃、パリのアパートメントとロンドンのテラス・ハウス(連棟住宅)

パリは一つの建物に15世帯から18世帯が入るが、ロンドンは一世帯か二世帯しか入っていない。

家庭を大切にするため持ち家志向のロンドン市民、城壁の中で暮らさなければならないため、住宅は必然的に高層化したパリ。

 

第2章 通り

パリの「遊歩者」

あてどもなく通りを歩きながら、印象を集める。群衆に紛れる匿名性はスリルがあり、かつ高尚だ。

18世紀後半、ロンドンの通りは歩行者に優しく、パリでは馬車が通りの王だった。

パリの通りの泥の多さはロンドンの比ではなかった。

 

18世紀、通りに動物や物をかたどった大きな看板が掲げられていた。

広告媒体であり、街を歩く時の目印でもあった。

 

第3章 レストラン

パレ・ロワイヤルの改造は、1781年から1784年にかけて行われた。

ヴィクトル・ルイが回廊を設けた一階は商店街になった。

クラブや専門街、そしてレストランなどが、1784年4月から営業を始めた。p131

 

第4章 ダンス

フランスの「国のダンス」であるカンカンは、1830年頃に生まれ、やがて「陽気なパリ」を象徴するものの一つになった。

しかし実は、今日、フランスで「フレンチカンカン」と呼ばれているダンスは、フランスのカンカンとイギリスのスカート・ダンスが融合したダンスである。

ふたつの都市のダンサーが、互いに行き来する過程で、相手の国のダンスを取り入れていったのである。p182

 

スカート・ダンスは、スカートを両手で持って動かしながら、ワルツなどの伝統的なダンスを音楽に合わせて踊るダンス。p213

 

第5章 夜の街と密偵

18世紀から19世紀にかけて、パリとロンドンで生まれた探偵小説の歴史。

またホームズやふたつの都市の、夜の姿の変化について。

 

探偵という言葉は、1870年にイギリスからフランスに伝わった。

しかし、フランスでは18世紀に、レチフ・ド・ラ・ブルトンヌが、探偵小説の起源といってよい作品を発表している。

レチフは多くの作品を残しているが、ガボリオと同じく、現在は忘れられた作家となっている。p235

(オーセールの街には、レチフのカラフルな像がありました)

レチフは自らを「観察する梟」と称し、夜の街を探索した。

 

ウジューヌ・フランソワ・ヴィドックの波乱の人生。その中でフランスの警察の密偵としても活動する。

 

パリにおいて、密偵である「観察する梟」が登場し、その1世紀後、ロンドンにおいてドイルがホームズを生み出した。

 

第6章 死者と埋葬

パリの共同墓地の中で、特にロンドンの共同墓地に影響を与えたのは、ペール・ラシューズ墓地である。

なお、パリの共同墓地は反教権主義的だった。ペール・ラシューズ墓地は1804年に開設された。p282

 

ロンドン郊外の共同墓地を作ったのは、政府ではなく民間企業である。ケンサル・グリーン墓地は、総合墓地会社(GCC)が作った墓地だ。この株式会社は、現在も墓地を運営している。p302

 

現在、ロンドンのナンヘッド墓地や、パリのペール・ラシューズ墓地から眺めるふたつの都市は、どちらもずいぶんおとなしい。

 

墓地から見る街は、アクアチント版画のようだ。墓地の木々の葉の額縁で囲まれており、とても美しい。p327

 

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パリのノートルダム大聖堂再建とその採石

2022-04-16 08:09:00 | パリの思い出

 

 

まずはパリのノートルダム大聖堂再建のニュースです。

仏大聖堂、24年の再開確認 火災3年、大統領修復視察

 【パリ共同】2019年4月のパリ・ノートルダム大聖堂の火災から15日で3年を迎えた。フランスのマクロン大統領は修復に向けた作業が続く現場を視察し、24年に一般開放を再開する目標を改めて確認した。同国メディアが報じた。

 マクロン氏は修復に関わる関係者に対し、作業の進展をたたえ「新型コロナウイルス流行から脱しつつある一方、欧州で戦争が続く中、希望の証しとなる」と述べた。

 大聖堂では天井や壁、床のクリーニング作業が近く完了。今月中旬には一部が崩壊した石造りのアーチ天井を再建するのに使う石材をパリ周辺の採石場で切り出す作業が始まった。

 

続いてフランスアンフォから大聖堂に使用する石の採掘に関する記事です。

 

Notre-Dame de Paris : dans l'Oise, Benoît et Jean-François Horcholle extraient les pierres de la reconstruction


ノートルダム大聖堂:オワーズでは、ブノワとジャン・フランソワ・オルコールが再建のために石を採掘します

Une équipe de France Télévisions s'est rendue dans une carrière de pierres de l'Oise, à la rencontre d'artisans œuvrant pour la reconstruction de Notre-Dame de Paris. Les opérations d'extraction ont débuté, un travail à la fois titanesque et méticuleux.


フランステレビジョンの取材班は、ノートルダム大聖堂の再建のために働いている職人に会うために、オワーズの石切り場に行きました。採石作業が開始されました。これは、超人的で細心の注意を払った作業です。

 

Depuis des semaines, seul dans sa carrière de Bonneuil-en-Valois (Oise), Benoît Horcholle extrait des blocs. Sa concentration est extrême. "C'est une pierre dure, donc elle résiste au gel, aux intempéries. Elle a été sélectionnée pour Notre-Dame pour aller sur toutes les parties extérieures ou exposées", confie-t-il. Les pierres sont en de nombreux points similaires à celles utilisées au Moyen-Age pour édifier la cathédrale. Elles se sont formées il y a 45 millions d'années, quand la mer recouvrait encore le bassin parisien.


ボンヌイユ・アン・ヴァロワ(オワーズ)の採石場で数週間、ブノワ・オルコールは塊を採掘してきました。彼は極度の集中力の中にいます。「それは固い石なので、霜や悪天候に耐えます。ノートルダムですべての外装または露出部分に使用するために選ばれました」と彼は打ち明けます。石は多くの点で中世に大聖堂を建てるために使用されたものと似ています。それらは4500万年前、海がまだパリ盆地を覆っていたときに形成されました。

 

L'émotion des artisans
Le père de Benoit, Jean-François Horcholle, n'en revient pas d'avoir été sélectionné pour les travaux. "On a eu un frisson dans le dos et la gorge un peu serrée, parce qu'on était ému. On est une petite entreprise, quand même. On n'a pas trop l'habitude de travailler pour des monuments si importants", confie-t-il. Les pierres de l'Oise doivent servir à reconstruire la voute, qui s'est totalement effondrée quand la flèche de Notre-Dame est tombée. Une fois extraites, les pierres arrivent à l'usine de taille. Elles sont lavées, scrutées, et en cas de défaut, recalées. Les blocs sans imperfection sont eux découpés. Les tailleurs de pierres entreront bientôt en action pour que Notre-Dame retrouve l'ensemble de ses gargouilles.


職人の感動
ブノワの父、ジャン・フランソワ・オルコールは、彼がその仕事に選ばれて驚きました。「感動したので、背中と喉が少しきつくなり身震いしました。それでも私たちは小さな会社です。このような重要なモニュメントのために働くことに慣れていません」と彼は打ち明けます。ノートルダムの尖塔が倒れたときに完全に崩壊した丸天井を再建するには、オワーズの石を使用する必要があります。採掘されると、石は切断工場に到着します。それらは洗浄され、検査され、問題があれば使用されません。欠陥のない塊が切断されます。ノートルダム大聖堂がすべてのガーゴイルを取り戻すことができるように、石切機は間もなく稼働します。

 

選ばれし恍惚と不安。職人の緊張と心意気を強く感じます。

中世に大聖堂を建設した職人たちも同じような気持ちだったのでしょうね

石を採石し、丁寧に取り扱い、一つ一つ大切に積み上げていけば、破壊された大聖堂も輝かしく復活してくれることでしょう。

 

 

 

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京都、パリ この美しくもイケズな街(第4・5章)

2021-10-10 06:49:05 | パリの思い出
第4章 京都とパリの魅力、都市史
パリの不動産は外国人には理解できないくらい複雑。土地と上物である建物と、その建物のフォン・ド・コメルス(商業利用権)が別p152

東京では飯田橋と神楽坂が「東京のパリ」と言われている。
その理由の一説として、真ん中に、川ではないが旧お堀があり、右岸・左岸というイメージがあるから。p175-176
(そういえば、東京で通っていたフランス語学校は飯田橋にありました)

日本の建築は、幕府の統制から離れ「表現の自由」を獲得した。ヨーロッパの都市部では、いまだにあり得ない「自由」を。
ヨーロッパの建築家を大阪の道頓堀に連れて行くと、みんな感動する。
東京の隅田川沿いの金色の変な形のオブジェはフランス人のフィリップ・スタルク。p179
(表現の自由や多様性というものは大切なものだけれども、絶対的なものではない、とつくづく思う。不自由で多様性に欠けるヨーロッパの街並みの方が美しいと思います)

学生運動全盛の時、京都の京大そばの百万遍をパリのカルチェ・ラタンになぞらえていた。
あんなパチンコ屋や何やらあるところの、どこがカルチェ・ラタンなんやと、恥ずかしいなあ、と思う井上さん。p181

東京のメディアで働いている元京大生に、立て看板の支持者は多そう。一種のノスタルジーだろうか。
この頃の立て看板は、60年代から70年代のそれより、質が落ちている。ずいぶん、デザインが下手になっている。p182

ハイデルベルグ大学の学園紛争の内ゲバで、ずいぶん校舎が傷んで、近所の住民からクレームが来た。これにどう対処するかという全学集会が開かれて、どこのセクトがどこを修繕するか話し合われた。日本の大学では考えられない。
やはり彼らには、それこそ文化的なDNAとして「街を守ろう。街を大事にしよう」という考えがあったらしい。前衛的であるはずの、学生運動の闘士たちにも。p185

ミラボー橋(Sous le pont Mirabeau)
アポリネールが自分を振って逃げてしまったマリー・ローランサンのことを追想して書いたもの。
しかしアポリネールの書簡集を読んでみると、アポリネールがいかにひどい男だったかよくわかる。SMが大好きで、ローランサンはそれが嫌で、逃げてしまったのかもしれない。p192

京都観光のガイドブックが充実してくるのは、江戸時代の中頃なら。そのころから、京都の経済力は落ちていて、京都の商人は本店機能を大阪に移しはじめる。
パリや日本も、街の力、国の力が衰えたころから、観光に目覚める。 

今パリにある有名ホテル、ほとんど全部イギリス系の名前
「ジョルジュ・サンク」はジョージ5世という意味p196

ヴェルサイユを造ったルイ14世と、パリを大改造したナポレオン3世は、インバウンドの恩人。彼らが造ったもののおかげで、今も世界中から観光客を呼べる。p201

第5章 京都とパリの食事情
パリがコンプレックスを抱いたことのある都市はローマだけ
ナポレオン時代までは、パリをローマのように作り替えるのが夢だった。p231

パリに今も繁栄をもたらしているナポレオン3世に、フランス人はもっと感謝すべき。
それなのに、パリにお墓を持ってくることさえ拒否している。
現在のフランス共和政は、第二帝政を倒して作られたという経緯があるにしても、あまりに薄情。p232

ローマ帝国崩壊から千年は、リヨンがパリよりも文化レベルははるかに高かった。
フランク王国が三つに分裂して、東フランク、西フランク、中部フランクになった。
そのうち中部フランクというのは、地中海からアルプスを越えて、リヨンに行ってディジョンを通ってフランドルへと抜ける。地中海と英仏海峡を結ぶ、中世ヨーロッパの大動脈。
この中部フランクの中心がリヨンで、そこで開かれる大市が中世の文化を支えていたから、食い物もリヨンが中心。p238
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京都、パリ この美しくもイケズな街(第1~3章)

2021-10-09 09:14:08 | パリの思い出


京都、パリ この美しくもイケズな街
鹿島茂 井上章一 著
プレジデント社 発行
2018年9月28日 第1刷発行

鹿島さんと井上さんによる、京都とパリについての対談集です。

第1章 京都人パリジャンの気質
フランス人の名前の「ドゥ(de)」
「帯剣貴族のフィエフ(封地)」を示すための前置詞
貴族の印だが、19世紀になると、貴族でもないのに文学者たちのなかには、オノレ・ド・バルザックのように勝手にドゥを付ける人も現れる。法服貴族の方は、ドゥがなくても貴族。p23

パリは昔から金融ブルジョワの街だった。徴税請負人などの大金持ちが、外国債とか債券に投資しながら代々生きてきた。p27
(渋沢栄一も、パリで債券を学び儲けていましたね)

パリジャンの自尊心の根拠は代々どこに住んでいるかよりも、田舎に巨大な城があるかどうかということ。
日本には封建遺制が残ったけれども、イギリス、フランスは封建遺制を打破したみたいに我々は習ったが、お城になんとか伯爵がのうのうと暮らしていたりするのを見ると、これこそ封建遺制ではないかと思う。

京都市役所の職員が東京へ出張することを今でも「東下り」と言うように、フィレンツェ人もローマを田舎だと見下している。p31

80年代、古舘伊知郎アナがプロレス中継で前田日明を「黒髪のロベスピエール」と呼ぶ。
それから、当時の日本人の教養のすごさに感心する井上さんp50-51

第2章 京都の花街、パリのキャバレーや娼館 
フランスの「規制主義」の起源
別名は「サン・トギュスタニスム」訳せば「聖アウグスティヌス主義」
彼は「人間は基本的に弱い存在である。誘惑、特に女性の魅力には打ち勝ちがたい。特に美人や肉感的な女性に、男が欲望を感じてしまうのは当然だ」と言っていた。p62

なぜドイツ軍はパリを目指すか?
パリには、ええ女がおるから
ナポレオン戦争の時、普仏戦争の時、ナチスの時‥p74

第3章 京女、パリジェンヌの美人力
SMは、フランスでは「イギリス趣味」と言い、イギリスでは「フランス趣味」と言う。
英仏敵対の歴史の影響で、コンドームや性病などは敵から来たとお互いに言う。
フランスではコンドームをイギリス(人)のマント(capote anglaise)と言い、イギリスでは「フランス(人)の手紙(French letter)」と言う。p119-120
(ちなみに梅毒は「イタリア病」と言っていたような‥)
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