古代ローマの建築家たち
場としての建築へ
板屋リョク 著
丸善 発行
平成13年8月25日 発行
はじめに
本書では古代ローマ時代以後の二千年間にとって重要な建築が集中的に現れた特別な時期に注目しています。
その時期は、マルグリット・ユルスナールが『ハドリアヌス帝の回想』の構想段階で見出したフロベールの書簡集の中の次の一節と符合している。
《キケロからマルクス・アウレリウスまでの間、神々はもはやなく、キリストはいまだない、ひとり人間のみが在る比類なき時期があった》
便宜上、キケロと同時代のスッラの世代の建築家たちから、皇帝の名簿ではマルクス・アウレリウス帝の祖父にあたる建築皇帝ハドリアヌスまでの間、紀元前88年から紀元後の138年までの時期とする。
わずか二百年あまり、この
《ひとり人間のみ》
の時期においては、神々は信仰の対象ではなく、神々を個々の人が自らの生の様式を形成するための道具とし、あるいは、自分自身をもっと豊かにしていくための一つの技術としていた。それをフロベールは
《神々はもはやなく》
と表現している。またこの時期のローマ人は来世を信じず、彼らの生の舞台はあくまでも現世、つまり現実の都市ローマだった。そのような
《ひとり人間のみが在る比類なき時期》
のローマ人にとって、キリスト教徒はオカルト的知識に取り憑かれている秘密結社としか映らなかっただろう。それをフロベールは
《キリストはいまだない》
と書いている。
一 スッラの世代の建築家たち
二 ネロ帝の建築家セウェルスとケレル
建築の見方 古代ローマのコンクリート
コンクリートとは、結合材と水によって、砂利や砕石や煉瓦屑などの小さな骨材を一体石的な状態に硬化させた塊である。
古代ローマのコンクリートと現代のそれの大きな違いは、その結合材にある。
紀元前三世紀末から二世紀の初頭にかけて、古代ローマのカンパーニャ地方で、突然に、建築の構造材料としての質と強度を持つことになる。
今日、セメントといえば、白亜(チョーク)と粘土を混合したものを竪窯で焼成したポルトラント・セメントを指している。
都市の見方 グリッドと作用力
北イタリアの都市を巡ると、必ずと言っていいほど碁盤目状に街路が張り巡らされた場所に出合う。
このような街区は、共和政後期に都市ローマが建設したラテン植民市が骨格になっていると考えて間違いないだろう。
トリノ、パヴィア、ヴェローナ、パルマ、ボローニャ・・・
三 建築家ラビリウス
古代ローマの詩人マルティアリス(後40年-104年)の『エピグランマタ』
エピグランマは諷刺詩を意味するまでになっている。
その中で建築家ラビリウスだけは痛烈や皮肉やきわどい表現がなく、称賛している。
官邸ドムス・アウグスターナの南東側のブロック
その細長い馬蹄形の平面のかたちから、ヒッポドロムス(競馬場)とかスタディウム(競技場)と呼ばれているが、それには小さい。
極度に人工的な形態の庭で、皇帝が一人で歩いているのを想像してしまう。
小単位から群体へ、群体から複合体へ、複合体から都市へ、と成長させていく。
作用力の均衡による建築の統合法は、この時期のローマ特有のものである。
建築家ラビリウスがそれを完成させた。
機械を作り出すまた上位の機械をマザーマシンと呼ぶように、都市や建築を新たに生み出す母なる建築をマザー・アーキテクチュアと呼びたい。
古代ローマの建築が核となって、今なおヨーロッパの都市を作り続けているのは、古代ローマの建築がマザーアーキテクチュアだからである。
四 建築皇帝ハドリアヌス
ハドリアヌス帝の視察旅行
視察旅行の目的が、防衛線の再構築や、属州統治の監視だけにあったのではなく、帝国全域にわたるインフラストラクチャー(都市基盤)の整備、修復と、属州にも都市ローマと同質の文化的背景を持たせるための、都市と建築の設計にあったからである。
同行していた建築家たちは優秀なプロ集団であった。ハドリアヌス帝の移動する建築設計事務所。