第四章 人間たち
第一節 教皇
1 クレメンス五世
クレメンス五世の行動は一貫性を欠き、フランス王権の理不尽な主張に十分に対抗しえていない。
クレメンス五世の気質は、きわめて慎重にして温和であり、極端な判断・決定を嫌い、妥協的であった。
しかしながら、アヴィニョン定住とテンプル団訴追という同時に進行した事態には、教皇側の利害も絡んでいる。
2 ヨハンネス二二世
イタリア派はガスコーニュ派の最年長である人物が候補者に選ばれたから。七十二歳で教皇に選ばれたが、ヨハンネス二二世は九十歳まで教皇庁に君臨した。
この十八年は、アヴィニョン教皇庁の基礎を築く重要な段階で、教義と教会組織と諸政治組織とのあいだの外交関係のすべてにわたり、困難な課題に直面した。
3 ベネディクト十二世
アヴィニョン教皇庁の基礎の上で厳格な修道士が指導性を発揮しうる限界まで、個別的な役割を果たした。
4 クレメンス六世
豪華さを愛好し、寛容と多様性を原則とした。教皇庁には多数の文人、芸術家が招かれた。
5 インノケンティウス六世
高齢にして、病人風、優柔不断で感受性が強く、落ち込みがちで移り気な地味な人柄であった。
6 ウルバヌス五世
イタリア情勢にもとづき、教皇のイタリア帰還が具体化し始めた。
7 グレゴリウス十一世
ローマ帰還を達成
第二節 枢機卿
1 老練の政治家 ベランジュ・フレドル
2 イタリア政策の先駆 ベルトラン・デュ・プージュ
3 政治力としての枢機卿 ベルトラン・ド・ラ・トゥール
4 派遣外交使節 エムリク・ド・シャテリュス
5 裏側の支配権力 タレーラン・ド・ペリゴール
6 栄光ある権威 ギイ・ド・ブローニュ
7 教皇領、第二の建設者 ジル・アルボルノス
アルボルノスへの反発は、約一世紀半ののち、同じく教皇領の政治・軍事的強化を推進するチェーザレ・ボルジアの場合に類比させることができる。
ボルジア家もまたスペイン出身であり、外国人として教皇庁に乗り込んだのである。
8 アルボルノスの影 アンドロワン・ド・ラ・ロッシュ
9 ローマ市貴族⑴オルシニ家
10 ボニファティウスの衣鉢 カエターニ家
11 ローマ市貴族⑵コロンナ家
12 ネポティズムの原理 ギョーム・デグルフイユ
ローマの都市貴族の場合の他に、アヴィニョン庁時代の特色として、西南フランス出身の一族によるネポティズムの例が、いくつか注意される。
13 カノン法合理主義 ピエール・ベルトラン
14 王政府からの転身 ピエール・ダラブレー
フランス王政の顕職から教皇庁に転じた。これはアヴィニョン庁にとっては、奇異なことではない。しかしその逆は見いだせない。政治力学のベクトルは一方的に、国王から教皇に向かっているのは明らかである。
15 教皇庁神学者 ギョーム・ド・ゴーダン
16 教皇書記官長 ピエール・ド・プレほか
17 教皇庁行政官僚から
18 アヴィニョン司祭 フィリップ・ド・カバソル
第五章 補遺と総括
・教義上はドミニコ修道会系の神学理論が優位に立ち、なかでもトマス・アクィナス理論が急速に台頭
・カノン法学の圧倒的優勢
・行政における官僚組織の制度化については、アヴィニョン庁は多分に世俗国家から学んだとみられる。
・教皇庁による権力行使の現実にあっては、知的諸原則は、きわめて多様な局面が絡んでいる。
おわりに 結論と展望
フィリップ四世王政府とアヴィニョン教皇庁の共通点
・十四世紀初頭を転換期として、政治構造の変化が進行し、行政官僚による政治上の知見と技術が向上
・十四世紀にあって、知の形態がいちじるしく組織や制度のあり方に関心をよせはじめた。
・このような主要官僚が提起した新たな構図は、彼ら自身をも、特定の制度の下に結集させ、知と政治を論ずる限定されたブレーン集団を生み出した。
注p332
テンプル団事件について、従来までの議論が、王権の道徳的背徳性の協調におわっていることに不満が残る。
王権イデオロギーと権力スキャンダルの結合として論ぜられ、あたかも「権力犯罪」の祖型として扱われてきたが、いうまでもなく、テンプル団事件も、中世社会の政治的構造の中で生起したのであって、王権の意図の反道徳性は、その中でのみ論ぜられるべきである。