Ⅲ 思い出と再考
運動神経について
雪のカノッサ行
1966年11月25日、ミュンヘンを出発
雨期のイタリアのアペニン半島を縦横に走り回る。
カノッサは、アペニン山脈がロンバルディアにいたって、西方に大きく湾曲を見せるあたりの、アペニン山地北東部にある。
カノッサ城で番人の妻君は、堀米さんの職業を知って三つの質問をした。
・ハインリヒ四世はどこで生まれたが
・どこで亡くなったか
・どこに葬られたか
堀米さんは
・ゴスラールに生まれ
・墓はシュバイエルのカイザードームにある
ことは知っていたが、どこで死んだかは思い出せなかった。
しかし皇帝の生地を知っているだけでも「ブラヴォー」だという。
オックスフォードとかケンブリッジからの歴史家でも、皇帝の生地を正確に一度でこたえられた人はなかった。
ハインリヒ四世が赦免を乞うて雪の中に立った場所に、ほぼ九世紀の歳月を経て、極東の一歴史家が踏みあとない雪の中に皇帝と同じく立っているだと考えると、悪天候をおかしてきた旅の苦労もむくわれるようであった。
スペインの印象
スペインに関する二つの事柄
・ルイ14世に帰せられる「ヨーロッパはピレネーで終わる」ということば
・「スペインでは十六世紀以来、時計の針が止まったままである」という欧米でよくいわれてきた合言葉
スペインのゴシック教会の場合、内陣は身廊の中ほどからはじまり、トランセプトと交わる部分をのぞいてすべて高く厚い壁で囲まれている。
アルハンブラ王宮について知っておく必要のあるのは
・王宮のあの華麗さにかかわらず、建築自体は土と煉瓦という粗末な材料でできている。中庭には大理石もあるが、建物自体は土と煉瓦であり、その上をモルタルとタイルと木で装飾している。
・王宮の規模がこじんまりしている
・ハレムのかげを見ることは困難
シエスタの国
私のうちなるスペイン
スペインはハドリアヌス、トラヤヌス、テオドシウスの三皇帝、セネカやクィンティリアヌスといった哲学者や文化人を、ローマ帝国の中心部に送り込むほどの自発性さえ持った。
ロワールの旅
初期アンジュー家の最初の偉大な支配者は「黒(ネルラ)」と綽名されたフルク
二度目のエルサレム巡礼の際、キリストの墓を守るサラセン人は、それに放尿しなければ拝ませないと、とんだ難題をふっかけた。
機知にとんだフルクは、ヤギの膀胱に入れた白葡萄酒をズボンに隠してキリストの聖墓に注ぎ、まんまとサラセン人を欺いた。
そのうえ、彼は、この聖墓に口づけして石のもろいところを探し当て、歯でかきとって、ひそかに故国に持ち帰った。
貴重この上ないこの聖遺物を、彼は自ら建立したボーリュー修道院(ロッシュの近傍)におさめて、その魂の救いを祈っている。
1186年、ヘンリ二世と、カペー朝フランスの偉大な再建者、フィリップ二世(オーギュスト)との間に、ランジェ対岸のヴィランドリーで協定が結ばれた。
現在のヴィランドリーは16世紀半ばにつくられた後期ルネッサンス式の代表的シャトーだが、この建物の一部には12世紀につくられた張り出し付きの角塔(旧天守)があり、その協定はここで調印された。
お国自慢のフランス人は、この協定はここで調印されたという。
しかしその後ヘンリは戦いに敗れ病もあつく、シノンに運ばれ二日後に息を引き取った。(1189年)
また父を死に追いやったリチャード獅子心王も十年後、南フランスの攻城戦中に狙撃され、シノンに帰って息を引き取った。
百三十年ののち、ここで王太子シャルルは、ここでジャンヌ・ダルクを迎える。
シノンはロワールの数多くの城の中でも、格別に歴史の大きい転機をみとどけた証人である。
この城内からみるヴィエンヌ河谷の眺めも良いが、ヴィエンヌ対岸から見上げるシノン廃墟はその中世風の城下町とともに、比類の無きものである。
「冬のライオン」
オックスフォードのハイテーブル
Ⅳ ひとりあるき
人間、スポーツ、文化
私のスポーツ
鎌倉の裏山
私と心臓
東大紛争では、健康を損なった教師の数は決して少ないものではない。
紛争のおかげで胃潰瘍になった堀米先生