フン族 謎の古代帝国の興亡史
E.A.トンプソン 著
木村伸義 訳
法政大学出版局
1999年8月5日 初版第1刷発行
序文
本書は
・モンゴリアのフン族ではなく、クバン川流域に居住していたフン族の歴史を創始する
・フン族が四世紀末頃東ゴート王国を攻撃するまでは何ひとつはっきりしていないこと
そして
アッティラのフン帝国崩壊とその直後のくだりをもって終える。
第一章 史料
Ⅰ 現在利用不可能な考古学的証拠
Ⅱ アンミアヌス・マルケリヌス
彼は395年頃『ローマ史』31巻を著す。
フン族の歴史はギリシャ人やローマ人旅行家と歴史家の話にのみ依拠している。
フン族は馬で旅をするとき、生肉を鞍と馬の背にはさみ、少し温めて食したとアンミアヌスは言っているが、今日では誤報とされている。p11
Ⅲ テーベ出身のオリュンピオドロス
彼はフン帝国を個人的に訪ねたことを記した最初の旅人。412年頃使節の資格でコンスタンティノープルからフン王ドナトゥスのもとに派遣された。
Ⅳ パニュウム出身のプリスクス
フン族はスキタイ人であるが、全スキタイ人がフン族であったわけではない。p15
フン族と締結した多数の条約について彼が正確な知識を持ち合わせていたのは、フン族に関する公的記録が利用できたからだと思われる。
また作品の中の行事の参加者、例えば通訳のビギラスなど、へのインタビューから苦労して集めたものと考えて差し支えない。
Ⅴ その後の史家
年代記作者はともかく、フン族に関する興味深い情報を提供してくれる後期の歴史家は、こぞってその知識をプリスクスの作品から得ている。
第二章 アッティラ以前のフン族史
Ⅰ ローマ人史家のフン族起源説
アンミアヌス曰く
「フン族は古代の記録にはほとんど知られていないが、結氷した大洋に近いマエオティスの湿地帯の彼方に暮らし残忍極まりなかった」
唯一の結論は、フン族が東ゴート帝国を攻撃したいきさつを正確に知るものが五世紀のごく初めにさえいなかった。p23
Ⅱ 四世紀以前の古典文献に欠けるフン族
Ⅲ 東ゴート王国の滅亡
フン族が服属民アラン族の分遣隊を従えて東ゴート王国の富める村落の攻略を開始したのは、370年直後であるといわれている。
Ⅳ フン族、ローマ帝国を攻撃(374-434)
395年になってはじめてローマ帝国の大侵略を開始している。その年の襲撃はアッティラ時代では最大規模であったらしい。
宦官エウトロピウスがゴート軍数部隊と獲得可能なローマ兵を急いで集め、フン族と交戦することに成功した。
それで平和は398年末に東ローマ帝国に戻った。
第三章 アッティラ以前のフン族社会
Ⅰ 四世紀におけるフン族の物質文明
物質文明の点では、フン族は前期遊牧文化に属していた。
Ⅱ フン族の社会組織
Ⅲ フン族の人口
Ⅳ フン族の軍事力
フン族はとりわけ馬上の射手であり、弓は非常に特徴的な武器であった。
Ⅴ 王権の発達
Ⅵ フン族社会の変遷
極度に困窮した生活を送っていた遊牧民フン族がドナウ国境地域を挟んだ両地域に一段高度な物質文明を持つ農耕民族と接触するようになると、ゴート人やローマ人からできる限りの食糧や略奪品さらに原初の奢侈品を集めて過酷な生活を少しでも楽にしようとしたのは当然である。
第四章 アッティラの勝利
プリスクスの『ビザンティン帝国史』は434年、アッティラがフン族の指導者になった年、から始まっている。
Ⅰ ガリアでのアエスティウスとフン族
Ⅱ フン王ルーアの死
434年の戦闘に入る前にルーアが急死する。
ルーアの後継者は二人の甥、兄のブレダ、弟のアッティラ
Ⅲ マルグス平和条約とフン帝国の膨張
435年、ローマ政府はいわゆるマルグス平和条約に調印
Ⅳ フン族、東ローマ帝国へ侵入(441-443)およびアナトリウス平和条約
アナトリウスの第一回の平和条約が443年秋に批准
Ⅴ 東ローマ帝国の苦悩とフン王ブレダの死
445年にアッティラが兄ブレダを殺害
Ⅵ フン族、東ローマ帝国へ侵入(447年)
東ローマで暮らしたマルケリヌス伯の言葉
「アッティラはおよそ全ヨーロッパを踏みつけて塵芥と化した」
第五章 ドナウ国境地での和平
447年の大侵略に続く三年間はフン帝国とローマ帝国間の外交的対立に尽きた。
Ⅰ アカツィール族の征服
Ⅱ 第二回のアナトリウス平和条約
448年、北部国境地帯に平和が戻った。この時のローマ側の交渉者は例のアナトリウスだった。
449年、アッティラの最も有力な副官のひとりエデコがコンスタンティノープルに着く。
エデコにアッティラ暗殺をもちかけるローマ
Ⅲ マクシミヌスの使節とアッティラ暗殺計画
マクシミヌスの使節に随行する史家プリスクス
Ⅳ 第三回と最終回のアナトリウス平和条約
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