ウラジオストク
日本人居留民の歴史 1860~1937年
ゾーヤ・モルゲン 著
藤本和貴夫 訳
東京堂出版 発行
2016年8月2日 初版発行
自分がウラジオストクに興味を持ったのは、石光真清の「曠野の花」を読んでからでした。石光は明治32年から、ウラジオストクを起点として大陸で活動します。ウラジオストクでは僧に扮していた花田仲之助少佐と出会っています。
ウラジオストクには近場ということもあり、一度行って見たかったのですが、昨今のコロナやウクライナ侵攻もあり、当分の間は行くことは難しそうです。
第1部
ウラジオストクへの最初の日本人の出現から日露戦争の終結まで
ウラジオストクの建都は1860年6月20日と考えられている。
コマロフ少尉補に指揮された40人の下士官と兵士の部隊が軍事輸送船マンジュール(満洲)号でここに到着した。p15
1871年は、ウラジオストクの歴史上特筆すべき年となった。ロシア政府は港と軍務知事の官舎をニコラエフスクからウラジオストクに移転することを決定した。p18
日本外務省は、職員である瀬脇寿人に、太平洋岸ロシアの拠点としての展望がすでに見えているウラジオストク港の状況視察を命じた。p18
瀬脇はウラジオストク訪問後に覚え書きを残した最初の日本人であった。彼の残した『ウラジオストク見聞雑誌』p19
1875年4月16日、彼らはロシアの軍用輸送船に乗船した。p20
ウラジオストクの日本人に関する情報が現れるのは、1862年のこと。
日本人ジャーナリスト大庭柯公は、1925年に刊行された『露国及び露人研究』の中で1862年の渡航者について書いている。
1862年に稲佐の若い日本人たちがロシア船マンジュール号に乗ってウラジオストクに到着した。
幕末の徳川将軍最後の時期(1853~1867)に、長崎、稲佐とロシアの結びつきが確立した。ロシアの船舶は糧食の調達のために、一方沿海州を目指す軍艦の水兵たちは1860年彼らのために稲佐に建設された娼家で休息するために寄港した。p26-27
1855年、下田で調印された日露通好条約において、二国間の外交関係が樹立された。
日露通好条約により、長崎は太平洋艦隊の越冬拠点となり、船は冬に備えてウラジオストクから温暖な長崎港に入った。長崎港は太平洋艦隊の第ニの母港だった。
長崎港対岸の稲佐村に、特別にロシア人船員たちのための滞在拠点が建設された。ここは「ロシア・セツルメント」(おろしあ租界)と呼ばれるようになった。p44
おエイ(道永エイ)という日本人女性は長崎とウラジオストクの歴史に鮮明な足跡を残した。彼女の運命は、19世紀末から20世紀初頭の稲佐の女性たちに関する一連の作品の中で、日本人著者らによって敬意をもって描かれている。p48
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