第二部 都市建設
第四章 城壁・道路・フォンテ
ある十九世紀の歴史家は「イタリア語ほど道という言葉の縮小辞(つまり細道、小路、路地といった類の言葉)をたくさん発明した言語はない。もしいろいろな方言を集めたならば、相当の数にのぼることだろう」と述べている。
この事実は、イタリアにおける都市生活の伝統の長さと中世以来の道の狭さという、二つの事柄を暗示している。
第五章 大聖堂
新ドゥオーモの建設案
すでにある建物を身廊部を新ドゥオーモの翼廊部として用いる、つまり十字架のタテ軸を新しい十字架のヨコ軸として用いる、大胆極まりないものだった。
しかしこの新ドゥオーモの建設の夢は破れた。いわばその見果てぬ夢の証人として、今日も未完のファサードと側廊の一部がドゥオーモの右脇に残っている。
第六章 市庁舎とカンポ広場
1297年、カンポ広場に関して注目すべき条例が出された。
広場の周囲の建物は、建造中だった市庁舎の装飾様式に合わせなければならないと定めた。
この類まれな条例によって、すでにこの時点でシエナ市当局がカンポ広場に有機的な統一を持たせ、広場を市の中核としてふさわしく整備しよう、という明確な考えを抱いていたことがわかる。
第三部 美術作品
第七章 マエスタ(荘厳の聖母)
13世紀末から14世紀初めにかけての時期は、イタリア美術の第一の黄金時代であり、イタリア美術の「こころ」が形成され、真にイタリア美術と呼びうる美術が確立した時代だ。
このイタリア美術の揺籃期に最も重要な役割を果たした都市、それはフィレンツェとシエナであった。
この二つのトスカナ都市は、あたかも二つの電極のように、相異なる精神と様式でもってイタリア美術を、そしてヨーロッパ美術を導いたのである。
「聖母の都市」シエナの市民たちの聖母に対する傾倒は並々ならぬものがあった。
マントで信者を守る聖母像は「慈悲の聖母」と呼ばれ、中世末以降好んで描かれた聖母像の一つである。
ドゥッチョの《マエスタ(荘厳の聖母)》
聖母子と諸聖人・天使を描いた中央パネルのほか、当初は58の聖書の諸場面と30の聖人像からなっていた。
名実ともに中世最大の祭壇画であり、シエナ派絵画の真の独立をつげる金字塔であると同時にシエナ派の画家たちのバイブルとなる。
《マエスタ》の運搬
都市中の鐘が鳴り響く中を、全市民が行列をなして完成した大祭壇画を大聖堂まで運んでいく
第八章 正義を愛せ
シモーネ・マルティーニは1315年に市庁舎に描かれた名高い壁画《マエスタ》でもって、忽然と美術史に登場する。
ドゥッチョとシモーネ・マルティーニの違い
・ドウッチョがシエナ中心に活躍したのに対し、シモーネはアッシジやナポリ、ピサ、オルヴィエート、アヴィニョンで活躍した。
・ドウッチョは職人画家でシモーネは宮廷画家
・シモーネにはフランスとのつながりが指摘できる。
第九章 ブオン・ゴヴェルノ(善き政府)
さらし画
謀反人や好ましからざる人物の絵を公の場に描いたもの。13世紀から北・中部イタリアで制作されるようになり、その後16世紀に消滅したジャンル
シエナの市庁舎の「平和の間」に残されている「善き政府」の理想を実現したアンブロジオ・ロレンツェッティの壁画
14世紀シエナ芸術の最高傑作で、共和主義の理想をあますところなく表現した。
アンブロジオの作品は、いってみればシエナの木に実ったフィレンツェ風の果実である。
作風として
・堅固だがおおらかな造形
・合理的な空間表現
・巧みなストーリーテリング
アンブロジオ作の二作の風景画
近代の西洋美術史に独立した風景画が登場するはるか以前の作例として、この二つの作品が孤島のように存在している。
エピローグ
1554・55年に神聖ローマ皇帝カール五世軍に包囲され、1559年に共和国は最終的に滅亡する。
そしてシエナはフィレンツェの支配者メディチ家の配下に入り、トスカナ大公国の一部になり、シエナは長い眠りについた。
二十世紀になり、シエナは生ける中世都市、としてよみがえった。
シエナは我々に人間や生活、歴史や文化について瞑想させずにはおかない、いわば思索の原点となるような体験を与えてくれる。
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