【ロンドン時事】英領北アイルランドが南側のアイルランドと分離し、英国に統合されてから3日で100年となる。
当局は「連合王国の連帯を示す機会」と位置付けるが、英統治維持を望むプロテスタント系と、アイルランド統一を求めるカトリック系の対立が続く北アイルランドの帰属問題は未解決のまま。祝賀ムードとは言い難い雰囲気の中で歴史的節目を迎える。
英当局は100周年の記念行事を各地で計画している。約1年を通じ、植樹や音楽祭のほか、若者に歴史を伝える文化活動などが行われる予定だ。ジョンソン首相は「北アイルランド創設は連合王国の形成に道を開いた。過去とこれまでの発展を振り返ろう」と呼び掛けた。
しかし、帰属をめぐる問題は1世紀を経た今もくすぶる。融和と安定は容易ではない。数千人が犠牲になった紛争は1998年の和平合意で一応終結したが、住民の対立は解消から程遠い。
4月も最大都市ベルファストなどで激しい暴動が起きた。若者が火炎瓶を投げ合いバスに放火して暴れ、警官ら70人以上が負傷した。暴徒の中心は英統治維持派のプロテスタント系「ユニオニスト」とみられ、北アイルランドの暴動としては「近年で最悪の事態」(英紙)となった。
背景には、英国の欧州連合(EU)離脱で生じた「国境問題」もある。離脱に当たり、流血を繰り返した地域事情を考慮し英アイルランド間に厳格な国境管理を設けないことで合意した。代わりにアイリッシュ海で隔てられた北アイルランドと英本土間に通商上の境界が引かれた。ユニオニストは「北アイルランドが英国から切り離される」と不安を募らせている。暴動はいったん沈静化したが、いつ再発するか警戒は続く。
英紙フィナンシャル・タイムズは「海上の境界線、アイルランド統一の議論の高まり、カトリック人口の増加といったことがユニオニストを動揺させている」と指摘。アイルランド政治専門家ブライアン・ローワン氏は同紙に「100周年というユニオニストにとって祝福の年に(英本土との)距離感と差異が生み出されている」と語った。
(統合された時の状況がよくわからなかったので、文献及び記事から拾い出してみました)
1920年12月23日、アイルランド統治法が成立し、翌年5月施行された。
これはアルスター6州とその他の地域に、それぞれ自治議会を開設し、純粋な国内問題についての権限を与える、
ウェストミンスターへの代表権は数は減少するが維持する、
アイルランドの統一を協議するため南北二つのアイルランド議会の代表によるアイルランド評議会を開く、
というものであった。
この統治法は、アイルランド評議会ーー実際には両者の意見が一致することは非常にむつかしく、むしろ相当の期間、または恒久的に南北分離を認めることとなるのだが、これによってアイルランドの統一をめざしている形をとるーーだけが新しい点で、実質は過去三回の自治法と変わらなかった。
アイルランドの反乱 白いニグロは叫ぶ
堀越智 著 三省堂新書78 より
(法の成立日ではなく、施行日を基準にしているのですね。この法案がアイルランドの統一を目指している形をとるだけで、根本的な解決を先送りするものであったということがよくわかります)
また皮肉にもイギリスとの連合継続を望み、自治に反対していたアルスター6県には1920年にアイルランド施政法によって自治が与えられたのであった。
これは南北アイルランドの合意がどうしても得られないのをみて、ロイド・ジョージ英首相(1863-1945)が南北にそれぞれ別々の政府と議会を設けることを認めたアイルランド施政法を成立させたからである。
しかしシン・フェーン党はこれを全面的に拒否し、結局、同法は南に支配されるよりはましとして、これを受け入れた北アイルランドでのみ施行されたわけである。
物語 アイルランドの歴史
波多野裕造 著 中公新書1215 より
アイルランドを北アイルランド6州とその他の地域に分割し、両地域にそれぞれ議会を設け、軍事・外交・関税などの一定事項を除く立法権を与えるとともに、それぞれの議会に責任を負う政府を置くことを規定した、1920年アイルランド統治法は、プロテスタントを選挙地盤とするアルスター・ユニオニスト党の優勢な北アイルランドにおいては支持されたが、その他の地域ではシンフェーン党に率いられたナショナリストが、これを拒否してゲリラ戦にうったえて抵抗し、1922年、イギリス帝国内の自治領として成立した。
ここに、グレイトブリテン・北アイルランド連合王国に参画する北アイルランドと、アイルランド自由国という二つの国家権力がアイルランドに存在することとなった。
アイルランド問題の史的構造
松尾太郎 著 論創社 より
英領北アイルランド アイルランド島の北部6県。英国の植民地だったアイルランドの自治を定めた「アイルランド統治法」に基づき1921年5月、英国の一部として残された。南部26県は、対英独立戦争を経てアイルランド自由国(現在のアイルランド共和国の前身)となった。北部6県では今も、英統治維持を望むプロテスタント系「ユニオニスト」と、アイルランドとの統一を目指すカトリック系「ナショナリスト」の対立が続いている。(時事)
(今後は追い込まれているプロテスタント系「ユニオニスト」の動きがカギとなりそうです)
当局は「連合王国の連帯を示す機会」と位置付けるが、英統治維持を望むプロテスタント系と、アイルランド統一を求めるカトリック系の対立が続く北アイルランドの帰属問題は未解決のまま。祝賀ムードとは言い難い雰囲気の中で歴史的節目を迎える。
英当局は100周年の記念行事を各地で計画している。約1年を通じ、植樹や音楽祭のほか、若者に歴史を伝える文化活動などが行われる予定だ。ジョンソン首相は「北アイルランド創設は連合王国の形成に道を開いた。過去とこれまでの発展を振り返ろう」と呼び掛けた。
しかし、帰属をめぐる問題は1世紀を経た今もくすぶる。融和と安定は容易ではない。数千人が犠牲になった紛争は1998年の和平合意で一応終結したが、住民の対立は解消から程遠い。
4月も最大都市ベルファストなどで激しい暴動が起きた。若者が火炎瓶を投げ合いバスに放火して暴れ、警官ら70人以上が負傷した。暴徒の中心は英統治維持派のプロテスタント系「ユニオニスト」とみられ、北アイルランドの暴動としては「近年で最悪の事態」(英紙)となった。
背景には、英国の欧州連合(EU)離脱で生じた「国境問題」もある。離脱に当たり、流血を繰り返した地域事情を考慮し英アイルランド間に厳格な国境管理を設けないことで合意した。代わりにアイリッシュ海で隔てられた北アイルランドと英本土間に通商上の境界が引かれた。ユニオニストは「北アイルランドが英国から切り離される」と不安を募らせている。暴動はいったん沈静化したが、いつ再発するか警戒は続く。
英紙フィナンシャル・タイムズは「海上の境界線、アイルランド統一の議論の高まり、カトリック人口の増加といったことがユニオニストを動揺させている」と指摘。アイルランド政治専門家ブライアン・ローワン氏は同紙に「100周年というユニオニストにとって祝福の年に(英本土との)距離感と差異が生み出されている」と語った。
(統合された時の状況がよくわからなかったので、文献及び記事から拾い出してみました)
1920年12月23日、アイルランド統治法が成立し、翌年5月施行された。
これはアルスター6州とその他の地域に、それぞれ自治議会を開設し、純粋な国内問題についての権限を与える、
ウェストミンスターへの代表権は数は減少するが維持する、
アイルランドの統一を協議するため南北二つのアイルランド議会の代表によるアイルランド評議会を開く、
というものであった。
この統治法は、アイルランド評議会ーー実際には両者の意見が一致することは非常にむつかしく、むしろ相当の期間、または恒久的に南北分離を認めることとなるのだが、これによってアイルランドの統一をめざしている形をとるーーだけが新しい点で、実質は過去三回の自治法と変わらなかった。
アイルランドの反乱 白いニグロは叫ぶ
堀越智 著 三省堂新書78 より
(法の成立日ではなく、施行日を基準にしているのですね。この法案がアイルランドの統一を目指している形をとるだけで、根本的な解決を先送りするものであったということがよくわかります)
また皮肉にもイギリスとの連合継続を望み、自治に反対していたアルスター6県には1920年にアイルランド施政法によって自治が与えられたのであった。
これは南北アイルランドの合意がどうしても得られないのをみて、ロイド・ジョージ英首相(1863-1945)が南北にそれぞれ別々の政府と議会を設けることを認めたアイルランド施政法を成立させたからである。
しかしシン・フェーン党はこれを全面的に拒否し、結局、同法は南に支配されるよりはましとして、これを受け入れた北アイルランドでのみ施行されたわけである。
物語 アイルランドの歴史
波多野裕造 著 中公新書1215 より
アイルランドを北アイルランド6州とその他の地域に分割し、両地域にそれぞれ議会を設け、軍事・外交・関税などの一定事項を除く立法権を与えるとともに、それぞれの議会に責任を負う政府を置くことを規定した、1920年アイルランド統治法は、プロテスタントを選挙地盤とするアルスター・ユニオニスト党の優勢な北アイルランドにおいては支持されたが、その他の地域ではシンフェーン党に率いられたナショナリストが、これを拒否してゲリラ戦にうったえて抵抗し、1922年、イギリス帝国内の自治領として成立した。
ここに、グレイトブリテン・北アイルランド連合王国に参画する北アイルランドと、アイルランド自由国という二つの国家権力がアイルランドに存在することとなった。
アイルランド問題の史的構造
松尾太郎 著 論創社 より
英領北アイルランド アイルランド島の北部6県。英国の植民地だったアイルランドの自治を定めた「アイルランド統治法」に基づき1921年5月、英国の一部として残された。南部26県は、対英独立戦争を経てアイルランド自由国(現在のアイルランド共和国の前身)となった。北部6県では今も、英統治維持を望むプロテスタント系「ユニオニスト」と、アイルランドとの統一を目指すカトリック系「ナショナリスト」の対立が続いている。(時事)
(今後は追い込まれているプロテスタント系「ユニオニスト」の動きがカギとなりそうです)
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