ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

フランスの微笑み ランス

2007-01-13 23:05:24 | フランス物語
ある年の11月の雨の日、バスでパリからランスに向かう。
バスは自動車道路を、ひたすら東に向かう。
自動車道路といっても、日本の高速道路のように、やたら高架やトンネルが無く、スムーズである。
フランスの地形の平坦さがうらやましい。
パリを出てしばらく、車窓から円型のユニークな形の集合住宅が見えた。
あとはのんびり広がる平原である。所々に小さな森が見える。これで天気がよかったらなと思う。
途中いわゆるサービスエリアに立ち寄る。
日本のように大規模ではないが、それでもちょっとした売店などがあった。
同行の方は自動販売機で買った、量が少しで濃いエスプレッソコーヒーをすすり飲んでいる。
「これを飲まないと目が覚めない」とのこと。
バスは再び出発し、自動車道を離れ、ランス市街地に入っていく。

まずはゴシック大聖堂の見学である。
しばらく歩いていくと、後陣のしっかりした姿が見えた。脇を通る。そしてファサードに回る。
この大聖堂の正面といえば、「微笑む天使」が有名である。
ちなみに現地の観光パンフレットでは、EUの旗の中に、その天使を取り入れ、「ヨーロッパの微笑」と、ランスの街を表現していた。
大聖堂の中に入る。
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アルチュール・ランボーのまっとうな伝記

2007-01-13 03:40:45 | ヨーロッパあれこれ
アルチュール・ランボー
ピエール・プチフィス著
中安ちか子・湯浅博雄 訳
筑摩書房
1986年12月25日 初版第1刷発行

前述のパリ大改造を成し遂げたオスマンが亡くなった同じ年の11月、ランボーもマルセイユにて、妹イザベルの介護空しく、死去した。
彼の死後イザベルは新聞にて兄の詩人としての名声そして悪名を知り、あくまで神聖な男としてのランボーを伝えようとするが、ソルボンヌの教授による「3000ページの本というドロップハンマー」により、空しく打ち砕かれる・・・。

この本は、スキャンダラスな面を強調せず、あくまで淡々と資料に基づき、ランボーの一生を調べ上げている。
勿論、筆者には強い思い入れがあるのだろうが、あえてそういう面を抑えているのがかえって心地よい。
自分のような、コアなファンではなく、初期の、シャルルロワを舞台にした、「「居酒屋みどり」で」や旅の姿の「わが放浪」などの解放的な詩に感心したものにとっては、そちらのほうがありがたい。
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「パリ 都市の詩学」について

2007-01-12 01:17:35 | ヨーロッパあれこれ
パリ 都市の詩学
海野弘 文
村井修 写真
NTT都市開発株式会社 企画
河出書房新社 発行
1996年2月29日 初版発行

昨日の毎日新聞の「余録」にボードレールの「パリは変わる!だが然し、僕の心の憂愁さは、一向に変わりはしない!」との詩句とともに、パリ大改造を成したオスマンについて書かれていた。
「パリ 都市の詩学」において、文では、著者の思いとともに、パリの広場・路地・墓地・駅・庭園などについて、さまざまな人たちの「声」を取り上げている。
そして写真では20世紀末のパリのさまざまな表情を取り上げている。
変わっているけど変わっていないパリの美しさ。
この本では、版も大きい事もあり、文章と写真を通してそれが存分に楽しめる。
大改造自体は、富者と貧者の闘争の末、富者の勝利によるものだったことに過ぎなかったかもしれないが、その結果として、あのような街の姿が残っている。
1891年の昨日、オスマンはパリで死去した、とのこと。
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印象派の人々

2007-01-09 22:24:51 | フランス物語
印象派の人々
ジュリー・マネの日記
ロザリンド・ドゥ・ボランド=ロバーツ
ジェーン・ロバーツ編
橋本克己 訳
中央公論社
1990年9月20日 初版発行

印象派の画家、ベルト・モリゾの娘、ジュリー・マネによる、1893年から、1899年までの日記。
表紙の若い女性がジェリーで、その前の年老いた女性がベルト・モリゾである。
モリゾはこのとき既に夫を亡くしている。そのショックもあり、彼女自身も翌年に亡くなってしまう。
今回のオルセー美術館展のポスターを飾った、モリゾの美しい姿と比較すると、寂寥の思いに捉われる。
日記の中では、ルノワールが一番よく出てくる。彼はジェリーにも優しく接してくれた。
また日記の時代は、ちょうどドレフェス事件が勃発している。
今となっては反ユダヤ主義による冤罪事件という見方が一般的だが、当時は意見が真っ二つに別れており、ジュリー自体は、周りの影響もあり、反ドレフェス派である。
もちろん彼女自身まだ若いこともあり、責める事は出来ないが、このような意見があったんだなということだけでも興味深い。
この本も図書館で見つけた。貴重な資料を改めて読めるのはありがたい限りである。
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「痴愚神礼讃」と「ユートピア」

2007-01-02 23:05:02 | ヨーロッパあれこれ
世界の名著 17
エラスムス トマス・モア
責任編集 渡辺一夫
昭和44年1月20日発行
中央公論社

夜中、たまにNHK教育の「高校講座 世界史」を見ることがある。
高校生のとき、世界史は未履修だった。
もちろん、これは今流行の未履修問題ではなく、単に日本史および地理を加えた3科目から2科目選択するという制度だったからに過ぎない。
しかしたまたまヨーロッパ暮らしを体験できて、世界史の知識があまりに無いことにつくづく後悔する事となった。
そんなこともあり、ヨーロッパに関連する時には、なるべくこの高校講座を見るようにしている。
ある先生が、エラスムスとトマス・モアについて取り上げていた。
いわゆる人文主義(ルネサンスの精神のもと、当時のキリスト教を自己批判し、より血の気のかよった制度・学芸を招来しようとした姿)の代表者である。
エラスムスの痴愚神礼讃は、人間の存在自身や当時のキリスト教を皮肉る。
人間というものが、そんなに崇高なものでないよ、という考えには、同意できる。
痴愚神の仮面をかぶり、人間や宗教の批判をしているのは、さまざまな制約の中、現在とは比べ物にならないほど大変だったんだろうなと思う。
トマス・モアの作品は、少なくとも名前はよく知られた「ユートピア」である。
いわゆる共産主義の思想のもとという認識しかなかった。
しかし、以前パリで「ユートピア展」なるものを見に行った時、アメリカの独立宣言まで展示されていて、違和感を持った思い出がある。
でも、よく考えると、共産主義的なものだけでなく、アメリカの独立においても、やはり起草した人々にとっては、「ユートピア」を目指していたのには変わりは無いんだろうなと思う。

トマス・モアはその後、ヘンリー8世により、大逆罪でロンドンにて死刑となり、友人であったエラスムスも後を追うように、バーゼルで病死する。
彼らの不幸な晩年を思うと、人間の横暴さ、貪欲さ、更にそれこそ「神をも恐れぬ所業」などなどを思い悲しくなってしまう。
当時と比べて、今、そういった面が少しは改善されているかは、改めて疑わしい。

バーゼルの大聖堂には、エラスムスの記念碑があるらしい。
ライン河の渡し舟を渡った後、その大聖堂を見学した思い出があるが、エラスムスのことは当時まだ知る由も無かった。
世界史を勉強しておけば、彼の地にて彼らを偲ぶ事ができたのになあ、とあらためて反省する。

(写真はバーゼル市内を流れるライン河の渡し舟から見た大聖堂です。)
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