ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

印象派絵画の見かた

2007-07-22 22:37:16 | ヨーロッパあれこれ
すぐわかる 画家別 印象派絵画の見かた
2007年1月31日 初版第1刷発行
監修 島田 紀夫
発行所 株式会社東京美術

多くの画家、そして多くの作品を持つ印象派。
この本は、その膨大な内容を、豪華な執筆陣がコンパクトに解説している。
画家一人一人の代表作、経歴、プロフィールなどを上手くまとめている。
それぞれの画家一人でも、分厚い本が書けるのにもかかわらず、重要な所だけまとめた手腕には感心する。
また合間合間には、印象派に関する逸話や、印象派展について解説してくれている。
絵画だけでなく、写真も豊富で読みやすい。
基本的には入門書だが、印象派に対し、また新たな視点を与えてくれたのも事実。
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ルーアンいにしえの大時計

2007-07-21 22:40:52 | フランス物語
オンフルールから一路、車を飛ばしてルーアンに着く。
さすがに他の街に比べると大都市という気がする。人口は39万ほどらしい。オンフルールはたった8400人ほどらしい。
セーヌ河の河口の橋を渡り、車から降りる。
写真のようないにしえの大時計のある通りを歩いていく。
名前はそのまま「大時計通り」(Rue de Gros Horloge)という。
ここは歩行者天国になっており、賑わっていた。

大時計の向こうに尖塔が見える。
ノートルダム大聖堂のものだ。
そちらに向かって、人ごみの中を歩いていく。
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ローマ皇帝との夫婦漫才(ローマ人の物語ⅩⅠより)

2007-07-20 22:28:17 | ヨーロッパあれこれ
ローマ人の物語ⅩⅠの中で、皇帝マルクス・アウレリウスが哲学の師、フロントに書き送った手紙に対し、我らが塩野先生が茶々を入れた部分が、切なく、なおかつ面白いので転載します。
往年の、名・夫婦漫才師、人生幸朗・生恵幸子師匠によるボヤキ漫才を思い出してしまいました。
「 」が若き日のマルクス・アウレリウスの手紙より、( )が塩野先生のお言葉です。

「わたしは怒り狂っているのです。同時に悲しみの極にもあるのです。求めているものが、一向に見出せないのです」
(当たり前でしょう。そうそう簡単に真理が見出せるのなら、哲学史が三千年にもなるはずはない。)
「考え込んだあげく、自分と他の哲学者たちとの能力をついつい比べてしまうのです。」
(そんなことはしなくてもいいのに。)
「食事も進まなくなってしまい、頭の中は、考えがまとまらないゆえの焦燥で爆発しそうです。」
(そんなこと、するだけでもムダ。)
「アテネの議会が議論の沸騰で収拾がつかなくなったとき、議員の一人が提案しましたよね。このような場合には全議員がまずは寝に帰ることを定めた、国法制定が必要だと。わたしもこの先例に習い、今は何もかも放り出して、寝に行くことにします。」
(けっこう、これが最良の方法です。)

若さ、そしてマルクス・アウレリウスゆえの苦悩に対し、さらっと現実的に流すお言葉との対称が絶妙です。
そして最後の解決法がオチになっています。
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内乱と皇帝セヴェルス(ローマ人の物語ⅩⅠより)

2007-07-16 22:35:21 | ヨーロッパあれこれ
コモドゥスが暗殺された後、ペルティナクスが皇帝を引き受ける。
それには彼自身の野望があった訳でなく、近衛軍団の長官レトーが説得した結果であった。
ペルティナクス、このとき66歳、次の皇帝へのショートリリーフ的な役割だった。
もともとは元奴隷の子が、軍隊での実績を重ね、皇帝まで登りつめる。
しかし彼を擁立したレトーに報いる事は、「小事」であり、他の多くの難問を解決する事を優先した結果、レトーに裏切られ、たった87日間の皇帝在位を死をもって終える。

その後、レトーは、ディディウス・ユリアヌスを皇帝に担ぎ上げる。
しかし、それに異議を唱えた、各地の属州総督たちが皇帝に名乗りを上げる。
そして激しい内戦の結果セプティミウス・セヴェルスが皇帝となる。
内戦という、国家にとって、消耗しかならない結果による皇位収奪だった。

元老院会議により、そこが一度は決議したコモドゥス帝の記録抹殺刑の撤回を要求したり、26人の議員をほぼ冤罪で粛清したりした。
そのような行動により、非ローマ的な専制君主として、軍事政権下への道を歩んでいく。
その後パルティア東征に成功するものの、長男カラカラと近衛軍団長官との対立が激しくなっていき、結果カラカラは長官を殺す。

更にセヴェルスはブリタニアへの遠征を決行するが、健康を害し死亡する。
真冬の北イングランドでの、憂鬱な死だった。

その直後、皇帝となったカラカラは、さっさとローマに引き揚げる。
そしてその一年後には、弟のゲタを殺す。
あちこちにあったセヴェルスの家族の肖像から、弟の顔だけが消されてしまった。
そしてローマは「三世紀の危機」に突入していくのであった。
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オンフルールが生んだ画家 ブーダン

2007-07-16 00:18:04 | フランス物語
印象派の画家に対し、先駆的な役割を果たしたウジューヌ・ブーダンは、ここオンフルールで、1824年に生を受けた。
パリでの3年間の修行の後、彼は空の研究に専心し、それを新しい絵画として表現した。
彼の絵は果てしない空と、ノルマンディの海岸、そしてそこに憩う人々を描いたものが多い。
モネは1858年にブーダンと出会い、その絵に興味を持った。
そしてモネに「私が画家になれたのは、ウジューヌ・ブーダンのおかげである」とまで言わせた。

そんな彼の名がついた美術館を訪問したが、入り口で止められてしまった。
どうやら昼休みだったらしい。
フランスではよくある事なのだが、やはり残念な事である。
今回は団体旅行なので、再開の時間まで待つことはできない。
その腹いせというわけでもないが、海のほうを歩いてみる。
「また来たらいいじゃないですが」と慰められたが、結局フランス滞在中に、再びオンフルールを訪れることはできなかった。

駐車場に戻り、最後の予定地ルーアンに向かう。

(内容は先ごろ日本で開かれたオルセー美術館展の作品集を参考にしました。写真はオンフルールの観光パンフレットにあった美術館内部の写真です。絵画のほかに、ノルマンディ地方特有の衣装なども展示されているそうです。)
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