ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

歴史家のひとり旅 堀米庸三 著 (後半)

2023-10-19 20:10:16 | ヨーロッパ旅行記

Ⅲ 思い出と再考

運動神経について

 

雪のカノッサ行

1966年11月25日、ミュンヘンを出発

雨期のイタリアのアペニン半島を縦横に走り回る。

カノッサは、アペニン山脈がロンバルディアにいたって、西方に大きく湾曲を見せるあたりの、アペニン山地北東部にある。

カノッサ城で番人の妻君は、堀米さんの職業を知って三つの質問をした。

・ハインリヒ四世はどこで生まれたが

・どこで亡くなったか

・どこに葬られたか

堀米さんは

・ゴスラールに生まれ

・墓はシュバイエルのカイザードームにある

ことは知っていたが、どこで死んだかは思い出せなかった。

しかし皇帝の生地を知っているだけでも「ブラヴォー」だという。

オックスフォードとかケンブリッジからの歴史家でも、皇帝の生地を正確に一度でこたえられた人はなかった。

ハインリヒ四世が赦免を乞うて雪の中に立った場所に、ほぼ九世紀の歳月を経て、極東の一歴史家が踏みあとない雪の中に皇帝と同じく立っているだと考えると、悪天候をおかしてきた旅の苦労もむくわれるようであった。

 

スペインの印象

スペインに関する二つの事柄

・ルイ14世に帰せられる「ヨーロッパはピレネーで終わる」ということば

・「スペインでは十六世紀以来、時計の針が止まったままである」という欧米でよくいわれてきた合言葉

 

スペインのゴシック教会の場合、内陣は身廊の中ほどからはじまり、トランセプトと交わる部分をのぞいてすべて高く厚い壁で囲まれている。

 

アルハンブラ王宮について知っておく必要のあるのは

・王宮のあの華麗さにかかわらず、建築自体は土と煉瓦という粗末な材料でできている。中庭には大理石もあるが、建物自体は土と煉瓦であり、その上をモルタルとタイルと木で装飾している。

・王宮の規模がこじんまりしている

・ハレムのかげを見ることは困難

 

シエスタの国

 

私のうちなるスペイン

スペインはハドリアヌス、トラヤヌス、テオドシウスの三皇帝、セネカやクィンティリアヌスといった哲学者や文化人を、ローマ帝国の中心部に送り込むほどの自発性さえ持った。

 

ロワールの旅

初期アンジュー家の最初の偉大な支配者は「黒(ネルラ)」と綽名されたフルク

二度目のエルサレム巡礼の際、キリストの墓を守るサラセン人は、それに放尿しなければ拝ませないと、とんだ難題をふっかけた。

機知にとんだフルクは、ヤギの膀胱に入れた白葡萄酒をズボンに隠してキリストの聖墓に注ぎ、まんまとサラセン人を欺いた。

そのうえ、彼は、この聖墓に口づけして石のもろいところを探し当て、歯でかきとって、ひそかに故国に持ち帰った。

貴重この上ないこの聖遺物を、彼は自ら建立したボーリュー修道院(ロッシュの近傍)におさめて、その魂の救いを祈っている。

 

1186年、ヘンリ二世と、カペー朝フランスの偉大な再建者、フィリップ二世(オーギュスト)との間に、ランジェ対岸のヴィランドリーで協定が結ばれた。

現在のヴィランドリーは16世紀半ばにつくられた後期ルネッサンス式の代表的シャトーだが、この建物の一部には12世紀につくられた張り出し付きの角塔(旧天守)があり、その協定はここで調印された。

お国自慢のフランス人は、この協定はここで調印されたという。

 

しかしその後ヘンリは戦いに敗れ病もあつく、シノンに運ばれ二日後に息を引き取った。(1189年)

また父を死に追いやったリチャード獅子心王も十年後、南フランスの攻城戦中に狙撃され、シノンに帰って息を引き取った。

百三十年ののち、ここで王太子シャルルは、ここでジャンヌ・ダルクを迎える。

シノンはロワールの数多くの城の中でも、格別に歴史の大きい転機をみとどけた証人である。

この城内からみるヴィエンヌ河谷の眺めも良いが、ヴィエンヌ対岸から見上げるシノン廃墟はその中世風の城下町とともに、比類の無きものである。

 

「冬のライオン」

 

オックスフォードのハイテーブル

 

Ⅳ ひとりあるき

人間、スポーツ、文化

 

私のスポーツ

 

鎌倉の裏山

 

私と心臓

東大紛争では、健康を損なった教師の数は決して少ないものではない。

紛争のおかげで胃潰瘍になった堀米先生

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歴史家のひとり旅 堀米庸三 著 (前半)

2023-10-17 20:26:04 | ヨーロッパあれこれ

 

歴史家のひとり旅

堀米庸三 著

新潮社 発行

昭和46年12月10日 発行

 

Ⅰ ヨーロッパ中世の旅

アイルランド紀行

1959年5月、ボストン空港から生まれて初めてのヨーロッパ旅行の途につく堀米さん。

アイルランドのリメリック近くのシャナン空港に着く。

シャナンからダブリンまでも飛行機で38分。

ダブリン城でクロンウェル(クロムウェル)の名前を指さし、我々の最大の友と言う案内人。アイルランド人のウィット。

トリニティ・カレッジやグレンダロッホを訪問する堀米さん。

 

ビザンツ覚書

東ローマは1453年、トルコのスルタン・メヘメット二世のコンスタンチノーブル攻略によって、千有余年の歴史を終えたが、いまそれは跡形もなく消滅して、いかなる形においても再興されなかった。

 

イスタンブール今昔

1959年8月、イスタンブールを訪問。

旧市街の汚いホテルに泊まる羽目になる。

ボスボロスでの舟遊び

そばを後方から大きいソ連の船が快速をもって迫り、横波を食わせながら、遠く黒海上に去っていった。

案内人は「ボスボラスの夏はいつも涼しい。モスクワからの風が吹いてくるから」と冗談をとばす。

1959年はこうだったが、(今は)案内人はどんな洒落をもっていることだろうか。

 

ビザンツとカール大帝

東ローマ帝国をビザンツ帝国と言ったり、その文明をビザンツ文明という場合は、ヨーロッパ風ではないという価値意識が働いている。

 

西ヨーロッパ史の理屈でいえば、ユスティニアヌス帝ぐらいで、衰退する一方であるべき東ローマが、なかなか簡単に衰えない。

衰えないどころか、九世紀後半以降のマケドニア王朝では、中世東ローマ帝国の最盛期を迎えるというのであるから、まことに始末におえないというほかはない。

そしてビザンツ研究の進歩とともに、カール大帝のローマ帝国復興くらいで、あとは簡単に触れる程度で済ませたはずの東ローマが、依然として西方の発展にとって無視できない存在であったことが、次々に事実をもって証明されてくる。

 

ヴァイキングについて

Vikingの語源であるVikには、入り江と市(場)の二義があるといわれるが、前者を取る説が有力である。

この解釈に従えば、ヴァイキングとは入り江を意味する。

つまり入り江に住む人がヴァイキングなのである。

海賊であり、商人であったことから、自然に市の人に結び付く。

 

ヴァイキングの活動に関し、中世の史料として二つのおどろくほどに正確な史料。アイスランドおよびVinland(アメリカ大陸?)への植民の記録

・「学僧アリ」とよばれる聖職者の記した「アイスランド人の書」十二世紀前半に書かれる

・「植民の書」と呼ばれる、作者不詳(アリの作品ともいわれる)十二、三世紀の交につくられた

 

北欧三国を訪問すると、ヴァイキングの舟を見学できる。これは舟葬の風習のおかげで残った。

 

アイスランドは北大西洋海流(メキシコ湾流)の影響で、湿度は高いがむしろ温和な気候

穀物の生育には向かないが、牧草は育ち、従って家畜の放牧・飼育が出来、また海岸には絶好な漁場が開けている。

 

中世期のユダヤ人

チェコのプラハのユダヤ人墓地を見た時の衝撃

 

中世人のいたずら

プラハのカレル橋の一方をかためる旧市街側の塔にある、修道士が修道女のスカートに手を差し入れている彫刻

 

プラハの大学に教鞭をとる教授

「日本にも奴隷はいたか」を問う。

古代には奴隷と名付けられる階層がいた、と答えると悲しそうな顔をする教授

推測するに、マルクス主義の公式に入らぬ例を日本に求めていたのでは?

 

アンジュー家の人々

ヘンリ二世は名君だったが、その臣下がカンタベリー大司教のトマス・ベケットを虐殺したため、教会側からしたら大悪人ということになる。

記録を書くのは坊さんたちだから、あることないこと様々な尾ひれがつく。

 

浪漫的街道の旅とリーメンシュナイダー

ヴュルツブルグはドイツ後期ゴシックの彫刻家リーメンシュナイダーの市

彼の作品と悲劇

 

Ⅱ 周辺のこと

鎌倉の谷戸

墓をつくる

二つの手紙

槇子への手紙

バンベルクの秋

 

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ケルト海沿岸三か国、花と散る(ラグビーワールドカップ)

2023-10-16 20:06:17 | ヨーロッパあれこれ

 

ラグビーワールドカップ
応援していた三か国、ウェールズ、アイルランド、そしてフランスが準々決勝で揃いも揃って負けてしまうとは。
ショックです。
この三か国、6カ国対抗以外の共通点を無理やり探しだすと、ケルト海が共通の海ということに気付きました。
イングランドも沿岸なのですが、ケルトの要素はコーンウォールくらいで、イングランドはケルトには明らかに入りません。
ケルトの完全な敗北ですが、涙をふいて、前を向くより仕方ありません。
ウェールズ、アイルランド、フランスの涙は我が涙

 

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古代ローマの建築家たち 場としての建築へ

2023-10-11 20:44:32 | ヨーロッパあれこれ

 

古代ローマの建築家たち

場としての建築へ

板屋リョク 著

丸善 発行

平成13年8月25日 発行

 

はじめに

本書では古代ローマ時代以後の二千年間にとって重要な建築が集中的に現れた特別な時期に注目しています。

その時期は、マルグリット・ユルスナールが『ハドリアヌス帝の回想』の構想段階で見出したフロベールの書簡集の中の次の一節と符合している。

《キケロからマルクス・アウレリウスまでの間、神々はもはやなく、キリストはいまだない、ひとり人間のみが在る比類なき時期があった》

便宜上、キケロと同時代のスッラの世代の建築家たちから、皇帝の名簿ではマルクス・アウレリウス帝の祖父にあたる建築皇帝ハドリアヌスまでの間、紀元前88年から紀元後の138年までの時期とする。

わずか二百年あまり、この

《ひとり人間のみ》

の時期においては、神々は信仰の対象ではなく、神々を個々の人が自らの生の様式を形成するための道具とし、あるいは、自分自身をもっと豊かにしていくための一つの技術としていた。それをフロベールは

《神々はもはやなく》

と表現している。またこの時期のローマ人は来世を信じず、彼らの生の舞台はあくまでも現世、つまり現実の都市ローマだった。そのような

《ひとり人間のみが在る比類なき時期》

のローマ人にとって、キリスト教徒はオカルト的知識に取り憑かれている秘密結社としか映らなかっただろう。それをフロベールは

《キリストはいまだない》

と書いている。

 

一 スッラの世代の建築家たち

 

二 ネロ帝の建築家セウェルスとケレル

 

建築の見方 古代ローマのコンクリート

コンクリートとは、結合材と水によって、砂利や砕石や煉瓦屑などの小さな骨材を一体石的な状態に硬化させた塊である。

古代ローマのコンクリートと現代のそれの大きな違いは、その結合材にある。

紀元前三世紀末から二世紀の初頭にかけて、古代ローマのカンパーニャ地方で、突然に、建築の構造材料としての質と強度を持つことになる。

今日、セメントといえば、白亜(チョーク)と粘土を混合したものを竪窯で焼成したポルトラント・セメントを指している。

 

都市の見方 グリッドと作用力

北イタリアの都市を巡ると、必ずと言っていいほど碁盤目状に街路が張り巡らされた場所に出合う。

このような街区は、共和政後期に都市ローマが建設したラテン植民市が骨格になっていると考えて間違いないだろう。

トリノ、パヴィア、ヴェローナ、パルマ、ボローニャ・・・

 

三 建築家ラビリウス

古代ローマの詩人マルティアリス(後40年-104年)の『エピグランマタ』

エピグランマは諷刺詩を意味するまでになっている。

その中で建築家ラビリウスだけは痛烈や皮肉やきわどい表現がなく、称賛している。

 

官邸ドムス・アウグスターナの南東側のブロック

その細長い馬蹄形の平面のかたちから、ヒッポドロムス(競馬場)とかスタディウム(競技場)と呼ばれているが、それには小さい。

極度に人工的な形態の庭で、皇帝が一人で歩いているのを想像してしまう。

 

小単位から群体へ、群体から複合体へ、複合体から都市へ、と成長させていく。

作用力の均衡による建築の統合法は、この時期のローマ特有のものである。

建築家ラビリウスがそれを完成させた。

 

機械を作り出すまた上位の機械をマザーマシンと呼ぶように、都市や建築を新たに生み出す母なる建築をマザー・アーキテクチュアと呼びたい。

古代ローマの建築が核となって、今なおヨーロッパの都市を作り続けているのは、古代ローマの建築がマザーアーキテクチュアだからである。

 

四 建築皇帝ハドリアヌス

ハドリアヌス帝の視察旅行

視察旅行の目的が、防衛線の再構築や、属州統治の監視だけにあったのではなく、帝国全域にわたるインフラストラクチャー(都市基盤)の整備、修復と、属州にも都市ローマと同質の文化的背景を持たせるための、都市と建築の設計にあったからである。

同行していた建築家たちは優秀なプロ集団であった。ハドリアヌス帝の移動する建築設計事務所。

 

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聖母の都市シエナ 第二部 都市建設 第三部 美術作品

2023-10-09 21:07:59 | ヨーロッパあれこれ

第二部 都市建設

第四章 城壁・道路・フォンテ

ある十九世紀の歴史家は「イタリア語ほど道という言葉の縮小辞(つまり細道、小路、路地といった類の言葉)をたくさん発明した言語はない。もしいろいろな方言を集めたならば、相当の数にのぼることだろう」と述べている。

この事実は、イタリアにおける都市生活の伝統の長さと中世以来の道の狭さという、二つの事柄を暗示している。

第五章 大聖堂

新ドゥオーモの建設案

すでにある建物を身廊部を新ドゥオーモの翼廊部として用いる、つまり十字架のタテ軸を新しい十字架のヨコ軸として用いる、大胆極まりないものだった。

しかしこの新ドゥオーモの建設の夢は破れた。いわばその見果てぬ夢の証人として、今日も未完のファサードと側廊の一部がドゥオーモの右脇に残っている。

第六章 市庁舎とカンポ広場

1297年、カンポ広場に関して注目すべき条例が出された。

広場の周囲の建物は、建造中だった市庁舎の装飾様式に合わせなければならないと定めた。

この類まれな条例によって、すでにこの時点でシエナ市当局がカンポ広場に有機的な統一を持たせ、広場を市の中核としてふさわしく整備しよう、という明確な考えを抱いていたことがわかる。

 

第三部 美術作品

第七章 マエスタ(荘厳の聖母)

13世紀末から14世紀初めにかけての時期は、イタリア美術の第一の黄金時代であり、イタリア美術の「こころ」が形成され、真にイタリア美術と呼びうる美術が確立した時代だ。

このイタリア美術の揺籃期に最も重要な役割を果たした都市、それはフィレンツェとシエナであった。

この二つのトスカナ都市は、あたかも二つの電極のように、相異なる精神と様式でもってイタリア美術を、そしてヨーロッパ美術を導いたのである。

 

「聖母の都市」シエナの市民たちの聖母に対する傾倒は並々ならぬものがあった。

マントで信者を守る聖母像は「慈悲の聖母」と呼ばれ、中世末以降好んで描かれた聖母像の一つである。

 

ドゥッチョの《マエスタ(荘厳の聖母)》

聖母子と諸聖人・天使を描いた中央パネルのほか、当初は58の聖書の諸場面と30の聖人像からなっていた。

名実ともに中世最大の祭壇画であり、シエナ派絵画の真の独立をつげる金字塔であると同時にシエナ派の画家たちのバイブルとなる。

 

《マエスタ》の運搬

都市中の鐘が鳴り響く中を、全市民が行列をなして完成した大祭壇画を大聖堂まで運んでいく

 

第八章 正義を愛せ

シモーネ・マルティーニは1315年に市庁舎に描かれた名高い壁画《マエスタ》でもって、忽然と美術史に登場する。

ドゥッチョとシモーネ・マルティーニの違い

・ドウッチョがシエナ中心に活躍したのに対し、シモーネはアッシジやナポリ、ピサ、オルヴィエート、アヴィニョンで活躍した。

・ドウッチョは職人画家でシモーネは宮廷画家

・シモーネにはフランスとのつながりが指摘できる。

 

第九章 ブオン・ゴヴェルノ(善き政府)

さらし画

謀反人や好ましからざる人物の絵を公の場に描いたもの。13世紀から北・中部イタリアで制作されるようになり、その後16世紀に消滅したジャンル

 

シエナの市庁舎の「平和の間」に残されている「善き政府」の理想を実現したアンブロジオ・ロレンツェッティの壁画

14世紀シエナ芸術の最高傑作で、共和主義の理想をあますところなく表現した。

 

アンブロジオの作品は、いってみればシエナの木に実ったフィレンツェ風の果実である。

作風として

・堅固だがおおらかな造形

・合理的な空間表現

・巧みなストーリーテリング

 

アンブロジオ作の二作の風景画

近代の西洋美術史に独立した風景画が登場するはるか以前の作例として、この二つの作品が孤島のように存在している。

 

エピローグ

1554・55年に神聖ローマ皇帝カール五世軍に包囲され、1559年に共和国は最終的に滅亡する。

そしてシエナはフィレンツェの支配者メディチ家の配下に入り、トスカナ大公国の一部になり、シエナは長い眠りについた。

二十世紀になり、シエナは生ける中世都市、としてよみがえった。

シエナは我々に人間や生活、歴史や文化について瞑想させずにはおかない、いわば思索の原点となるような体験を与えてくれる。

 

 

 

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