ワンと言いたくなってきた

　ある程度年齢を重ねると人間ドックに行けと言われる。ドックは犬のドッグではない。船の建造や修理を行う工場のことを指す。船底の形に合わせて作られた大きな窪みに船をすっぽり収めて固定し、船のあらゆるところを診る事が出来るように作られている。人間も船のようにたまにドックに入って全身くまなく診てもらいなさい、ということで人間ドックと名付けられたのだろう。
　
　ところが行ってみると、ドックに横たわる船のようにゴロンと寝ていれば済むような人間ドックは存在しない。レースに参加した犬のようにあっちの部屋こっちの部屋へと連れまわされ「行け」「待て」「座れ」「回れ」「こっち向け」「あっち向け」と指示される声に即座に反応しないと置いて行かれる調教的試練の場所となっている。年齢が増して謙虚な心を失い、多少横柄になってしまった私のような人々を矯正することを目的に掲げているのであろう。たまに反抗心を胸のうちでかすかにうずかせるだけで、しっかり見抜かれて強烈な再検査を指示されたりする。全力で謙虚でなければならないのである。
　
　検査機器は格段に進化しているはずなのだが、検査の方法にはここ十数年の間それほど大きな変化を感じない。ただ検査結果が出るまでの時間や、「よし。少しはましな大人になったな」と最終的な評価をしてもらう時の医師の手元にあるパソコンの画面に表示されるレントゲンやエコーの映像などは以前には無かったもので、進歩を感じる。とはいえ、全身スキャンが終了すればたちどころに悪いところが見つかるとか、コーヒーカップに付着した唾液成分の分析だけで内科的病根の大半はチェックできるとか、そんな未来はまだ遠い。医療技術の進化は安全を最優先する分、世に出るまで時間がかかる。ここ数年盛り上がって来た新技術がわれわれの手元に届くまでに10年、もしかすると数十年は要する。それまでの間、例によってあちこちの部屋を連れ回される検査方式が人間ドックと称して実施され続けるだろう。
　
　しかし、技術の進歩は思わぬ速さで思わぬ変化をもたらす可能性を秘めている。パラリンピックで活躍する選手やiPS細胞を利用した再生医療の進化またはゲノム編集の普及を見ると、何も手を加えていない「ただの人間の」人間ドックコース、「アンチエイジング・ゲノム編集を施した人間の」人間ドックコース、「再生医療で培養された肉体を持つ人間の」人間ドックコース、「体の大半が機械の人間の」人間ドックコース、「ハイブリッドな人間の」人間ドックコースと様々なコースに分類してそれぞれのコースに専門的な診断キットを配置しないと対応しきれないことになる可能性が十分考えられる。見かけは20代なのに実年齢は100歳を軽く超えている、などと言う人がやって来るかもしれないのだ。いやスキャンシステムの機能が向上し単価が下がれば健康チェックは医療機関が行うものではなくコンビニや公共交通機関が行うもの、または自動運転車のオプションになったりするのだろうか。（三）


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