毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
ゲーム理論
05年のノーベル経済学賞が、「ゲーム理論」を冷戦下の安全問題に応用し、経済学の領域を超える「紛争と強調」の研究が評価された、イスラエル・ヘブライ大のR・オーエン教授とアメリカ・メリーランド大のT・シェリング教授に贈られることになった。「ゲーム理論」とは何かと色々検索してみたのだが、要は、相手の出方に応じてどう行動するのが一番己に利益になるかを考える学問のようである。経済学など打算で物を言う学問であると毛嫌いしていた私だが、この理論は子育てや近所付き合いにも応用できるそうだ。小難しいことを言うより実践から学べ、と思う私には、そんなに各方面に応用できるバラ色の理論などハナから疑えと言いたくなるのだが、間違ってはいけないから少し調べてみた。
シェリング教授は、冷戦中の50年代にこの理論を安保・軍拡問題に応用し、交渉当事者が手段を限定的にしたり、自らの立場を意図的に悪くしたりすることが、長期的な利益につながる可能性があることを解き明かし、戦略研究の古典として影響を与えている(asahi.com)そうだ。特に核攻撃に対して、必ず核による報復攻撃を行うことにし、他の選択は捨てて自らの手足を縛ることが核戦争の抑止に有効であることを証明したらしい。しかし、これでは何のことやらよく分からない。
ゲーム理論の解説本を読めば、必ずと言っていいほど「チキンゲーム」が載っている。「チキンゲーム」とは、別々の車に乗った2人の運転手が互いの車に向かって一直線に走行するゲームである。衝突を避けるために、先にハンドルを切ったほうがチキン(臆病者)となり、屈辱を味わう。このことから、ある交渉において2人の当事者がともに強硬な態度をとり続ければ、悲劇的な結末を迎えてしまうにもかかわらず、プライドが邪魔をして双方が譲歩できない状況を比喩するのに使われることもある。小泉首相の靖国神社参拝をチキンゲームのようだと批判する声も新聞紙上で見かけたりするが、言い得て妙な気がする。
このチキンゲームには、必勝法があるらしい。車を走らせながら、ハンドルを外し、相手に見えるように窓外に投げ捨ててしまう。すると、激突を避けるために相手は必ず譲歩する。これは自分の手足を縛るシェリング理論の応用と言える。
う~ん、と私は唸ってしまう。ゲーム理論というのは、プレイヤーが合理的であることを前提としている。チキンゲームで言えば、衝突を回避するという屈辱は、衝突に比べれば些細な結末である。そのため、起こりうる衝突を事前に回避する行動が合理的といえるだろう。しかし、現実には衝突覚悟で、いわば、自爆覚悟で迫ってくる相手だっている。そんな相手に、非合理さを訴えたところで何も聞こえない。聞く耳持たない相手に何を叫んでも無駄なことは、誰にだって経験があるだろう。相手を説得しようとすることは、相手を自分と同じ土俵に立つ者と認め、自分の言葉で自分の心を相手に伝えることに他ならない。そうした場合には、分かってもらうための方便をあれこれ考えるのは有効であろうが、最初っから分かろうとしていない相手ならどうすればいいのだろうか。同じ土俵に上って来ずに、どんなことをしてでも自分の意見を押し通そうとする相手にはどうすればいいのか。非合理な相手に合理で立ち向かうことは不可能なのか。こちらも同じように非合理になってしまったら、その瞬間に交渉は終わってしまう。理には理で向かえばよいが、非理には何で立ち向かうべきなのか。私の認識不足なのかもしれないが、「ゲーム理論」は答えてくれていないように思う。
彼れを知りて己れを知れば、百戦して殆(あや)うからず。彼れを知らずして己れを知れば、一勝一負す。彼れを知らず己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆(あや)うし。(「孫子」謀攻編)
やっぱり、「君子危うきに近寄らず」なのかなあ。
シェリング教授は、冷戦中の50年代にこの理論を安保・軍拡問題に応用し、交渉当事者が手段を限定的にしたり、自らの立場を意図的に悪くしたりすることが、長期的な利益につながる可能性があることを解き明かし、戦略研究の古典として影響を与えている(asahi.com)そうだ。特に核攻撃に対して、必ず核による報復攻撃を行うことにし、他の選択は捨てて自らの手足を縛ることが核戦争の抑止に有効であることを証明したらしい。しかし、これでは何のことやらよく分からない。
ゲーム理論の解説本を読めば、必ずと言っていいほど「チキンゲーム」が載っている。「チキンゲーム」とは、別々の車に乗った2人の運転手が互いの車に向かって一直線に走行するゲームである。衝突を避けるために、先にハンドルを切ったほうがチキン(臆病者)となり、屈辱を味わう。このことから、ある交渉において2人の当事者がともに強硬な態度をとり続ければ、悲劇的な結末を迎えてしまうにもかかわらず、プライドが邪魔をして双方が譲歩できない状況を比喩するのに使われることもある。小泉首相の靖国神社参拝をチキンゲームのようだと批判する声も新聞紙上で見かけたりするが、言い得て妙な気がする。
このチキンゲームには、必勝法があるらしい。車を走らせながら、ハンドルを外し、相手に見えるように窓外に投げ捨ててしまう。すると、激突を避けるために相手は必ず譲歩する。これは自分の手足を縛るシェリング理論の応用と言える。
う~ん、と私は唸ってしまう。ゲーム理論というのは、プレイヤーが合理的であることを前提としている。チキンゲームで言えば、衝突を回避するという屈辱は、衝突に比べれば些細な結末である。そのため、起こりうる衝突を事前に回避する行動が合理的といえるだろう。しかし、現実には衝突覚悟で、いわば、自爆覚悟で迫ってくる相手だっている。そんな相手に、非合理さを訴えたところで何も聞こえない。聞く耳持たない相手に何を叫んでも無駄なことは、誰にだって経験があるだろう。相手を説得しようとすることは、相手を自分と同じ土俵に立つ者と認め、自分の言葉で自分の心を相手に伝えることに他ならない。そうした場合には、分かってもらうための方便をあれこれ考えるのは有効であろうが、最初っから分かろうとしていない相手ならどうすればいいのだろうか。同じ土俵に上って来ずに、どんなことをしてでも自分の意見を押し通そうとする相手にはどうすればいいのか。非合理な相手に合理で立ち向かうことは不可能なのか。こちらも同じように非合理になってしまったら、その瞬間に交渉は終わってしまう。理には理で向かえばよいが、非理には何で立ち向かうべきなのか。私の認識不足なのかもしれないが、「ゲーム理論」は答えてくれていないように思う。
彼れを知りて己れを知れば、百戦して殆(あや)うからず。彼れを知らずして己れを知れば、一勝一負す。彼れを知らず己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆(あや)うし。(「孫子」謀攻編)
やっぱり、「君子危うきに近寄らず」なのかなあ。
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