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「夢追い人」

 ブログを休んでいた間に、ブログについてちょっと考えてみた。というよりも、何であれほどまで1年間どんなことがあっても続けようと思い込んだのか振り返ってみた。でも、全く分からない。何か願をかけたわけではなく、心の修行と思っていたわけでもない。軽い気持ちで始めたことが、次第次第に己の心を縛り付け、強迫観念めいたものになっていったのかもしれない、などと大した分析もできなかったから、下らぬ考えは放棄した。

 それに関して、妻と話した会話。
「ブログを一年間毎日休まず続けたら、何か起こるのかと思ってやってみたけど、大して変わりはないもんだな」
「なに言ってるの、あなた。そんなのただのドリーマーじゃん。何かが起こる訳ないでしょ」

 当たり前だけど、余りに簡単に片付けられてしまった私の努力、そんなものに意地を張っていた己がすごく惨めに思われたのだが、「まあ、そんなもんだろう」と、力なく「そーだよなぁ・・・」と同意しておいた。
 別に夢を追っていたわけでもないけれど、傍目から見ればどうでもいいことに血道を上げる姿こそまさしくドリーマーなのかもしれない。少々へこんだけれど、たかがそんなものかと逆にすっきりさせてくれた、妻にしては久しぶりの素晴らしい発言であった。
 
 確かに、昨今「夢追い人」などというと、現実を直視しない能天気な人を指すように思われるが、少し昔はそれでも、なかなかありがたがられた言葉ではないだろうか。というのは、小椋佳の昔のアルバムに「夢追い人」というタイトルのものがあったことを思い出したからだ。押入れの中を探してみたら、4枚も小椋佳のLPが出てきた。そういえば、私は高校生だった頃、小椋佳のファンだったんだ。今はもう、「愛燦々」くらいしか歌えないが、あの頃は好きだった。「夢追い人」というアルバムを手にとっても、あいにくレコードを聞くためのプレーヤーが我が家にはない。残念だ。仕方ないから、その中の「夢追い人とだまされ屋」という歌の歌詞を載せておく。

   この世で一番 馬鹿な者達
   夢追い人とだまされ屋
   人の行列があればいつでも
   先頭に立って死ぬ夢追い人
   おきざりにされる だまされ屋
   実は一番大事な人だと
   気づくものもいない  
   たとえ 気づいたとして
   君になれるか 君にできるか
   君にだって 眠られぬ真夜中
   彼らが訪ね来る時があるだろう

まったく覚えていない。もう30年近く聞いていないのだから無理もない。曲が分からないから、詞だけ読んでみると変な詞だ。面白くない。やっぱり歌っていうのは、曲か詞かといわれれば、曲なんだろうか。
 小椋佳の違うアルバムに、佐藤春夫の詩「海辺の恋」に小椋佳が曲をつけた歌が入っているが、試しにその詩を載せておく。素晴らしい詩だから、曲などなくとも自然にメロディーが浮かんでくる、と言っては言い過ぎだろうか。
   
   こぼれ松葉をかきあつめ
   をとめのごとき君なりき
   こぼれ松葉に火をはなち
   わらべのごときわれなりき
   
   わらべとをとめおりそひぬ
   ただたまゆらの火をかこみ
   うれしくふたり手をとりぬ
   かひなきことをただ夢み
   
   入り日の中に立つけぶり
   ありやなしやとただほのか
   海辺のこひのはかなさは
   こぼれ松葉のひなりけむ
   

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