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「復讐するは我にあり」

 緒形拳主演の「復讐するは我にあり」を見た。昨年WOWOWで放送された時に妻が録画していたのをやっと見ることができた。
 
 『稀代の殺人鬼、榎津巌の犯行の軌跡と人間像を描いた佐木隆三の直木賞受賞作を鬼才、今村昌平が挑んだ意欲作。九州、浜松、東京で五人を殺した上、史上最大と言われる重要指名手配の公開捜査をかいくぐって、時には大学教授、時には弁護士と称して詐欺と女性関係に明け暮れる犯罪王の生き様を、エネルギッシュに見事に描いた、日本映画史を語る上で欠くことのできない傑作』

 昨年亡くなった緒形拳の代表作にも挙げられる作品でもあり、かなり期待して見たのだが、さすが緒形拳、ピカレスク映画の主役としては素晴らしかった。お金を得るためならどんな卑劣な手段も選ばぬ詐欺師としての顔と、情け容赦なく命を奪う殺人者としての顔と、そして女性を誑かす男としての顔・・、見る者を釘付けにする迫真の演技で様々な顔を持つ男を演じきっている。まさに役者として脂の乗り切った頃の緒形拳を見ることができて感激した。さらに倍賞美津子や小川真由美の若く美しい姿態には魅了されたし、ミヤコ蝶々・清川虹子・フランキー堺といった懐かしい人たちの姿を拝めたのは嬉しかった。
 だが、映画の途中からどうしても理解できないことが出てきた。それは「復讐するは我にあり」という題名に関して、途中妻から何度も「誰に復讐してるのかなあ?」と訊かれたことだ。その度に「親に復讐してるんじゃないの」とか何とかいい加減な返事をしていたものの、実はまったく分からなかった。詐欺師がなぜ連続殺人犯となってしまったのかも、よく分からなかったから、映画を見終わってからも釈然としないものがいくつか残った。
 そこでネット検索してみたところ、意外なことが分かった。

『タイトルの「復讐するは我にあり」という言葉は、新約聖書(ローマ人への手紙・第12章第19節)に出てくる言葉で、その全文は「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』(申命記32:35)」これは「悪に対して悪で報いてはならない。悪を行なった者に対する復讐は神がおこなう(参考;詩篇94:1)。」という意味である』(Wikipedia)

 だが、どう解釈すればいいのだろう・・。緒形拳の演じた主役・榎津巌はキリシタンの末裔であり、敬虔なクリスチャンを父に持っていたから、その辺りを斟酌するべきなのだろうが、悪を行った者に対しての復讐は神がするというのなら、榎津巌に下された復讐とはいったい何だったのだろう?彼は死刑に処せられて、その遺骨を父親と妻が山頂から撒き散らすシーンでこの映画は終わっているのだが、それが何かの復讐を意味するのだろうか?徹底した確信犯として描かれた榎津にとって、死刑などなんらの復讐の意味も持たなかっただろうから、いかなる処置も彼にとっては「復讐」たりえないのではないだろうか、そんな気がする。それとも殺人者として地獄に落ちた榎津は、業火に焼かれ永遠の責苦に苛まれるというのだろうか・・。

 私は映画を見ただけで、佐木隆三の原作を読んでいないから、この題名の持つ意味が理解できないのかもしれない。もちろんそんなことなど分からないまま見ていても、何も困らないだろうが、それはただ緒形拳や他の出演者の好演によるものであって、映画としては「何故?」と首を傾げたくなる場面が散見されるように思った。
 それもみな題名のことが気になって仕方がなかったせいかもしれない。結局は、私のキリスト教世界に対する知識のなさがいけないのだろうが・・。

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