毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「日本の悪霊」
「タカハシカズミ」と言われて「高橋一三」を想起するのは古くからの巨人ファンであろう。だが、「高橋和巳」という小説家に変換できる人は、今この日本にいったい何人いるのだろう。私は大学生の頃むさぼり読んだ高橋和巳の著作を、もうずっと読み返すことなく過ごしてきたが、心の底では今一度読み返したいと常々思ってきた。こんな軽佻浮薄な時代だからこそ、それに逆行するだけの気概を持ちたいという思いと、今の私に果たして高橋和巳を読み通すことができるだろうか、そんな思いが時々は交錯していたが、なかなか彼の著作を手に取ることはできなかった。
ところが、先日「1Q84」を読み終わって、何だか心に空虚が広がった。確かに面白く読んだが、面白いだけの小説ならエンターテインメント雑誌を開けばいくらでもあるだろう。だが、私が小説というものに対して抱いている思いは、それとはどこか違う。たとえ片言隻句につかえつかえしながらも、著者の思いが総身に伝わってくるような小説を読みたい、という思いが「1Q84」に対する反動のように広がってきた。何も小説に思想が反映されていなければならないとは思わないが、これだけは読者に伝えたい、表現したい、という作者の願いが滲み出ているような小説を読みたい、そういう思いが私を凌駕して、気付いたら高橋和巳の「日本の悪霊」を読み始めていた。
学徒出陣で特攻隊の訓練を受け、死を覚悟していたものの出撃することなく敗戦を迎えた落合は、大学に戻ることなく一介の刑事としてやり場のない憤怒に囚われながら疲弊した毎日を送ってきた。一方、革命組織に属し、その思想に殉じる意図から富豪を惨殺した後8年間の逃亡生活で身も心もすり減らしてしまった村瀬は、如何ともしがたい時の流れに一石を投ずべくちゃちな強盗事件を引き起こして逮捕され、取調べの過程で過去の己の行状が世の中に知れ、社会を震撼させることを夢想する・・。この年齢こそ違え、同じ大学で学んだ同窓の二人が、ともに己の満たされぬ思い-底知れぬ「憤怒」と呼んでもいいかもしれない-に突き動かされながら、決して交わることのない心の闘争を繰り広げる。
この両者に共通する憤怒はどこから来るのだろう。どうしてもそれを読み解こうと思ってしまう。だが、それはこの小説を読む者にとってはごく自然の流れのように思う。小説が、作者高橋和巳がそれを読者一人一人に求めているのだ。「1Q84」のように、屁理屈をひねり出して辻褄を合わせようとする必要はない。読者は様々なヒントを作者から与えられていて、それらを丁寧に繋ぎ合わせていけば、なるほどと得心が行く。だが、その作業が恐ろしくしんどい。日本の裏面史を紐解くようで、その過程ではげんなりと消沈するばかりだ。どうしてこんな小説が書けるのか、私は驚きよりも高橋和巳の心の奥深くに潜む「悪霊」の何たるかを知りたくなった・・。
高橋和巳の享年は39歳、いつの間にか私は10年以上も長く生きながらえてしまった。だが、未だ何もなさず、何かをなそうとさえ思っていない。そんな厚顔無恥な生き方をかつて高橋和巳に耽溺した頃の私なら唾棄すべきものと一顧だにしなかったであろう。それはこの小説を最初に読んだときに一箇所だけ傍線が引いてあった文言を読めば明らかだ。
「人は抱負の実現せず、暗礁に乗りあげたまま腐敗する人生を余生と呼ぶ。だが、それは正確ではない。余生とは、豊饒と安定の中で、熾烈な選びもなく試行錯誤のくやしさもなく定められた道を歩み、定められたエスカレーターに乗ることを言う」(高橋和巳全作品9「日本の悪霊」P.247)
思えば、落合と村瀬は人生の中でたとえ一瞬なりとも己を完全に燃やし尽くした時があった。かたや特攻隊の兵士として辞世の歌まで詠み、かたや革命の実現に己の身命を賭して。だが、その代償として得たものが余りに己の輝ける一瞬を侮蔑するものであった時、その憤怒は計り知れないものとなるのかもしれない。
残念なことにそうした輝ける瞬間を体験したことがない私では、平板な余生を送るしかないのだが・・。
ところが、先日「1Q84」を読み終わって、何だか心に空虚が広がった。確かに面白く読んだが、面白いだけの小説ならエンターテインメント雑誌を開けばいくらでもあるだろう。だが、私が小説というものに対して抱いている思いは、それとはどこか違う。たとえ片言隻句につかえつかえしながらも、著者の思いが総身に伝わってくるような小説を読みたい、という思いが「1Q84」に対する反動のように広がってきた。何も小説に思想が反映されていなければならないとは思わないが、これだけは読者に伝えたい、表現したい、という作者の願いが滲み出ているような小説を読みたい、そういう思いが私を凌駕して、気付いたら高橋和巳の「日本の悪霊」を読み始めていた。
学徒出陣で特攻隊の訓練を受け、死を覚悟していたものの出撃することなく敗戦を迎えた落合は、大学に戻ることなく一介の刑事としてやり場のない憤怒に囚われながら疲弊した毎日を送ってきた。一方、革命組織に属し、その思想に殉じる意図から富豪を惨殺した後8年間の逃亡生活で身も心もすり減らしてしまった村瀬は、如何ともしがたい時の流れに一石を投ずべくちゃちな強盗事件を引き起こして逮捕され、取調べの過程で過去の己の行状が世の中に知れ、社会を震撼させることを夢想する・・。この年齢こそ違え、同じ大学で学んだ同窓の二人が、ともに己の満たされぬ思い-底知れぬ「憤怒」と呼んでもいいかもしれない-に突き動かされながら、決して交わることのない心の闘争を繰り広げる。
この両者に共通する憤怒はどこから来るのだろう。どうしてもそれを読み解こうと思ってしまう。だが、それはこの小説を読む者にとってはごく自然の流れのように思う。小説が、作者高橋和巳がそれを読者一人一人に求めているのだ。「1Q84」のように、屁理屈をひねり出して辻褄を合わせようとする必要はない。読者は様々なヒントを作者から与えられていて、それらを丁寧に繋ぎ合わせていけば、なるほどと得心が行く。だが、その作業が恐ろしくしんどい。日本の裏面史を紐解くようで、その過程ではげんなりと消沈するばかりだ。どうしてこんな小説が書けるのか、私は驚きよりも高橋和巳の心の奥深くに潜む「悪霊」の何たるかを知りたくなった・・。
高橋和巳の享年は39歳、いつの間にか私は10年以上も長く生きながらえてしまった。だが、未だ何もなさず、何かをなそうとさえ思っていない。そんな厚顔無恥な生き方をかつて高橋和巳に耽溺した頃の私なら唾棄すべきものと一顧だにしなかったであろう。それはこの小説を最初に読んだときに一箇所だけ傍線が引いてあった文言を読めば明らかだ。
「人は抱負の実現せず、暗礁に乗りあげたまま腐敗する人生を余生と呼ぶ。だが、それは正確ではない。余生とは、豊饒と安定の中で、熾烈な選びもなく試行錯誤のくやしさもなく定められた道を歩み、定められたエスカレーターに乗ることを言う」(高橋和巳全作品9「日本の悪霊」P.247)
思えば、落合と村瀬は人生の中でたとえ一瞬なりとも己を完全に燃やし尽くした時があった。かたや特攻隊の兵士として辞世の歌まで詠み、かたや革命の実現に己の身命を賭して。だが、その代償として得たものが余りに己の輝ける一瞬を侮蔑するものであった時、その憤怒は計り知れないものとなるのかもしれない。
残念なことにそうした輝ける瞬間を体験したことがない私では、平板な余生を送るしかないのだが・・。
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