毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「1Q84(2)」
「1Q84(2)」を読み終えた。なんて恐ろしい勢いで読んでしまったのだろう。別に暇だったわけでもない、それなのにわずか2日足らずで500ページを読んでしまうなんて、ここ数年なかったことだ。やはり日本語に長けた日本人作家が書く日本語の小説は読みやすい・・。
もちろん物語が面白くて、途中で止まることができなかったのが一番の理由だ。心配していた結末も、「海辺のカフカ」を読み終わって「ナメてるのか!」と毒づいてしまったのと比べれば、ある程度は収まりがついていて、居心地の悪さはあまり感じなかった。(1)を読んだときに、チェーホフの言葉をアリバイとするのか、と心配した私だが、いつの間にかその言葉がボディーブロウのようじわじわ効いてきて、「作者が提示する物語の結末をどう理解するかは読者に任せられているのかな」などと生半可な読後感を持ったのも、見事村上春樹の術中にはまりこんでしまったせいなのかもしれない。
小説世界の現実の中に、もう一つの小説世界を織り込み、その二つの世界が次第に境界を失くしていく、「1Q84」の全体像はそんな風にまとめられるかもしれない。フィクション(小説内小説の世界)が現実(小説の世界)に影響を与え、いつの間にか自分が作り出したはずのフィクションの中に入り込んでいく・・、などと言えば複雑な気がしなくもないが、フィクションを「夢」と置き換えれば、さほど難しいことでもないはずだ。小説中でも言及されているように、「不思議の国」に迷い込んだアリスを思い浮かべればいいだろう。アリスというお話の主人公が、夢の中で様々な出会いをする・・。だが、そこでは夢は夢として、アリスが生きている小説世界とはまったく別の「不思議な国」として峻別されている。アリスが目覚めた後、チェシャ猫がアリスの家にやって来ることはないはずだ。
しかし、小説「1Q84」では、ふかえりという17歳の少女が描いた「空気さなぎ」という小説の世界が、天吾と青豆の二人の住む現実世界を侵食してくる。そこはもう1984年ではなく1Q84年と名づけられた世界なのだが、そのあたりの絡み合いを頭を整理しながら読んでいかないと、物語がしっちゃかめっちゃかになってくる。しかも、宗教という次元を超えた超常現象としか思えないような出来事が次々に起こり出すのだから、気を抜くと訳が分からなくなってしまう。長いプロローグだった(1)を読み終え(2)へと読み進めていくと、どこまでがどの世界の出来事なのか、しばし立ち止まったり振り返ったりしなければ頭が混乱してしまう。だが、そこで止まったりしてはいけないのかもしれない。
「説明されないとわからないのであれば、説明されてもわからないのだ」
と小説中何度も繰り返されるように、細かなことは分からないまま、ひたすら物語を追っていくべきなのかもしれない。
そう考えると、天吾と青豆の周りに登場する多くの人物たちは、何も説明してくれない。一見説明しているように見えても、核心部分は謎のままだ。二人の周りで起きることも説明することを拒否しているようなことばかりだ。必ずしも原因と結果が明らかではないのが現実の姿なのかもしれないが、それでも天吾と青豆は説明されないこと一つ一つを自らの頭で考え、その意味を探ろうとする。そうした作業を繰り返したからこそ、天吾と青豆はたとえ短時間であれ、一方的なものであっても、同じ空間にいることができたのかもしれない。何と暗示的なのだろう・・。
だが、読む者には疲れる小説だ。いくら分からないままでいい、と思っても、分かりたいのが読者の心理だ。もちろん少数の優秀な読み手は、(1)と(2)で書かれた事象だけで、その背後の意味を瞬時に読み取り「1Q84」を堪能できるのかもしれない。だが、私には読解力が不足しているのか、物足りない箇所がいくつもあるように感じてしまう。この小説を読み終えた人の中には、続編を期待する声も上がっているようだが、それは彼らの心に、解決されずに淀んでいる物が多く残っていることを間接的に表明しているように思われる。私にしても、「青豆は死んじゃったの?」「天吾にはどんな災厄がふりかかるの?」「ふかえりはどうなる?」などと、いくらでもクエスチョンマークを思い浮かべることができる。
それでも、やっぱり続編など要らない。いくらBOOK1・2とあるからといってBOOK3をサプライズとして出版するなんてことはやめて欲しい。この小説はこのまま完結したものとして、少しずつ味わいなおすのがいいように思う。なんと言っても、「小説家とは問題を提起する人間」であって、その問題を咀嚼し、納得できる解決を見つけ出すことこそが、読者に課せられた責務だと作者自身が考えているようだから・・。
もちろん物語が面白くて、途中で止まることができなかったのが一番の理由だ。心配していた結末も、「海辺のカフカ」を読み終わって「ナメてるのか!」と毒づいてしまったのと比べれば、ある程度は収まりがついていて、居心地の悪さはあまり感じなかった。(1)を読んだときに、チェーホフの言葉をアリバイとするのか、と心配した私だが、いつの間にかその言葉がボディーブロウのようじわじわ効いてきて、「作者が提示する物語の結末をどう理解するかは読者に任せられているのかな」などと生半可な読後感を持ったのも、見事村上春樹の術中にはまりこんでしまったせいなのかもしれない。
小説世界の現実の中に、もう一つの小説世界を織り込み、その二つの世界が次第に境界を失くしていく、「1Q84」の全体像はそんな風にまとめられるかもしれない。フィクション(小説内小説の世界)が現実(小説の世界)に影響を与え、いつの間にか自分が作り出したはずのフィクションの中に入り込んでいく・・、などと言えば複雑な気がしなくもないが、フィクションを「夢」と置き換えれば、さほど難しいことでもないはずだ。小説中でも言及されているように、「不思議の国」に迷い込んだアリスを思い浮かべればいいだろう。アリスというお話の主人公が、夢の中で様々な出会いをする・・。だが、そこでは夢は夢として、アリスが生きている小説世界とはまったく別の「不思議な国」として峻別されている。アリスが目覚めた後、チェシャ猫がアリスの家にやって来ることはないはずだ。
しかし、小説「1Q84」では、ふかえりという17歳の少女が描いた「空気さなぎ」という小説の世界が、天吾と青豆の二人の住む現実世界を侵食してくる。そこはもう1984年ではなく1Q84年と名づけられた世界なのだが、そのあたりの絡み合いを頭を整理しながら読んでいかないと、物語がしっちゃかめっちゃかになってくる。しかも、宗教という次元を超えた超常現象としか思えないような出来事が次々に起こり出すのだから、気を抜くと訳が分からなくなってしまう。長いプロローグだった(1)を読み終え(2)へと読み進めていくと、どこまでがどの世界の出来事なのか、しばし立ち止まったり振り返ったりしなければ頭が混乱してしまう。だが、そこで止まったりしてはいけないのかもしれない。
「説明されないとわからないのであれば、説明されてもわからないのだ」
と小説中何度も繰り返されるように、細かなことは分からないまま、ひたすら物語を追っていくべきなのかもしれない。
そう考えると、天吾と青豆の周りに登場する多くの人物たちは、何も説明してくれない。一見説明しているように見えても、核心部分は謎のままだ。二人の周りで起きることも説明することを拒否しているようなことばかりだ。必ずしも原因と結果が明らかではないのが現実の姿なのかもしれないが、それでも天吾と青豆は説明されないこと一つ一つを自らの頭で考え、その意味を探ろうとする。そうした作業を繰り返したからこそ、天吾と青豆はたとえ短時間であれ、一方的なものであっても、同じ空間にいることができたのかもしれない。何と暗示的なのだろう・・。
だが、読む者には疲れる小説だ。いくら分からないままでいい、と思っても、分かりたいのが読者の心理だ。もちろん少数の優秀な読み手は、(1)と(2)で書かれた事象だけで、その背後の意味を瞬時に読み取り「1Q84」を堪能できるのかもしれない。だが、私には読解力が不足しているのか、物足りない箇所がいくつもあるように感じてしまう。この小説を読み終えた人の中には、続編を期待する声も上がっているようだが、それは彼らの心に、解決されずに淀んでいる物が多く残っていることを間接的に表明しているように思われる。私にしても、「青豆は死んじゃったの?」「天吾にはどんな災厄がふりかかるの?」「ふかえりはどうなる?」などと、いくらでもクエスチョンマークを思い浮かべることができる。
それでも、やっぱり続編など要らない。いくらBOOK1・2とあるからといってBOOK3をサプライズとして出版するなんてことはやめて欲しい。この小説はこのまま完結したものとして、少しずつ味わいなおすのがいいように思う。なんと言っても、「小説家とは問題を提起する人間」であって、その問題を咀嚼し、納得できる解決を見つけ出すことこそが、読者に課せられた責務だと作者自身が考えているようだから・・。
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