毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
穴弘法から高山城跡へ
「どこか紅葉の綺麗なところはない?」
そんな私の問いかけに答えるため、妻がネットで探し出したのが、土岐市の穴弘法。あまり広く知られていない穴場なのだそうだ。確かに初めて聞いた。ライトアップもされているようで、その写真もPCで見たが、夜に出掛けることは出来ない身の上なので、明るい紅葉を愛でることにした。
穴弘法から高山城跡へ
「穴弘法」とは変わった名だが、実際に行って見たら、なるほど!と納得できた。岩に穴を開け、そこに石仏が何体も置かれていたのだ。土岐市のHPには、次のような説明書きがあった。
『高山城跡のすぐ下には「穴弘法」があります。ここは戦国時代織田信長の支援を受けた城主平井頼母が武田勝頼の軍勢と激しい合戦を繰り広げた古戦場です。元禄元年(1688年)犠牲となった武将や農民町民を供養するために慈善院梵燈寺(通称穴弘法)が開創されましたが住職が2代続いたのち廃寺となりました。明治末期になって地元の人々の手で再興され古城山遍照閣として人々に親しまれるようになりました。穴弘法には104体の石仏が安置され移り行く歴史を見守っています。昭和に入り寺の後継者が無く、現在は再び廃寺となっています』
ちょっと場末のさびれた雰囲気が漂う場所ではあったが、池の周りの紅葉は秋の深まりを感じさせるには十分色づいていた。
しかし、高山城跡というのが気になる。奥まったところに細い道が小高い山の上へと続いている。これを上って行けば城跡に辿りつくんだろうな、とゆっくり上って行った。
『高山城は、土岐川の氾濫原を見下ろす標高183mの細長い丘陵に立地しています。麓からの比高差はおよそ57mで、通称サバといわれる砂岩層の断崖上に築かれています。
現在は水道貯水池が築かれており、当時の構造は知ることは出来ませんが、三つの曲輪によって構成されていたといわれ、北
端や南端に曲輪の名残りを留めています。
高山城の築城については、諸説あり、判然としませんが、高山伊賀守光俊、平井宮内少輔光行らが城主であったと伝えられています。天正2年(1574)光行の子平井頼母光村が城主の時、甲斐の武田勝頼の東濃攻めによって攻略され、その後、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際、東軍妻木勢によって攻められ落城したといわれています』
そしてこれが復元図。
「曲輪(くるわ)」というのは、「城郭内にある一定区画を分かつ区域であり、郭とも書く。曲輪は、防御陣地・建造物を建てる敷地・兵の駐屯施設として、城郭の最重要施設」なのだそうだ。帰り道は急峻な坂を下りていったが、なかなか険しい道で、さすがは山城と思わせるものだった。
紅葉狩りが思わぬ城跡探検になったが、探せば面白い場所はいくらでもあるんだなあ、と実感した。
そんな私の問いかけに答えるため、妻がネットで探し出したのが、土岐市の穴弘法。あまり広く知られていない穴場なのだそうだ。確かに初めて聞いた。ライトアップもされているようで、その写真もPCで見たが、夜に出掛けることは出来ない身の上なので、明るい紅葉を愛でることにした。
穴弘法から高山城跡へ
「穴弘法」とは変わった名だが、実際に行って見たら、なるほど!と納得できた。岩に穴を開け、そこに石仏が何体も置かれていたのだ。土岐市のHPには、次のような説明書きがあった。
『高山城跡のすぐ下には「穴弘法」があります。ここは戦国時代織田信長の支援を受けた城主平井頼母が武田勝頼の軍勢と激しい合戦を繰り広げた古戦場です。元禄元年(1688年)犠牲となった武将や農民町民を供養するために慈善院梵燈寺(通称穴弘法)が開創されましたが住職が2代続いたのち廃寺となりました。明治末期になって地元の人々の手で再興され古城山遍照閣として人々に親しまれるようになりました。穴弘法には104体の石仏が安置され移り行く歴史を見守っています。昭和に入り寺の後継者が無く、現在は再び廃寺となっています』
ちょっと場末のさびれた雰囲気が漂う場所ではあったが、池の周りの紅葉は秋の深まりを感じさせるには十分色づいていた。
しかし、高山城跡というのが気になる。奥まったところに細い道が小高い山の上へと続いている。これを上って行けば城跡に辿りつくんだろうな、とゆっくり上って行った。
『高山城は、土岐川の氾濫原を見下ろす標高183mの細長い丘陵に立地しています。麓からの比高差はおよそ57mで、通称サバといわれる砂岩層の断崖上に築かれています。
現在は水道貯水池が築かれており、当時の構造は知ることは出来ませんが、三つの曲輪によって構成されていたといわれ、北
端や南端に曲輪の名残りを留めています。
高山城の築城については、諸説あり、判然としませんが、高山伊賀守光俊、平井宮内少輔光行らが城主であったと伝えられています。天正2年(1574)光行の子平井頼母光村が城主の時、甲斐の武田勝頼の東濃攻めによって攻略され、その後、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際、東軍妻木勢によって攻められ落城したといわれています』
そしてこれが復元図。
「曲輪(くるわ)」というのは、「城郭内にある一定区画を分かつ区域であり、郭とも書く。曲輪は、防御陣地・建造物を建てる敷地・兵の駐屯施設として、城郭の最重要施設」なのだそうだ。帰り道は急峻な坂を下りていったが、なかなか険しい道で、さすがは山城と思わせるものだった。
紅葉狩りが思わぬ城跡探検になったが、探せば面白い場所はいくらでもあるんだなあ、と実感した。
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