goo

「光あるうちに光の中を歩め」

 いつのことだったか忘れてしまったが、このブログにある私のプロフィール欄に「光るあるうちに光の中を歩め」と書き込んだ。もちろん、トルストイの短編小説の題名であるが、若い頃から好きな言葉でもあるため、何かの拍子で心に浮かんできたのをそのまま書き留めたのを覚えている。だが、これが聖書のヨハネによる福音書の一節から取り出したものであることは、長い間失念していた。

【ヨハネによる福音書 / 12章 35節】
イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。
【ヨハネによる福音書 / 12章 36節】
光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。

 キリスト教に関しては全くの門外漢であり、宗教とはまるで縁遠い生活を送っている私であるから、聖書の言わんとすることを理解しているとはとても思わないが、それでも「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」という意味はなんとなく分かるような気がする。
「暗黒面に囚われぬようフォースとともにあれ!」
などと「スターウォーズ」的に解釈すれば結構分かり易いかもしれない。だが、光あるうちに歩いてどこに行けばいいのだろう。神の国か?天国か?それとも・・。
 やはり小説を読んでみなければいけないだろう、と書棚から昭和48年発行の岩波文庫(米川正夫訳)を取り出して、読んでみた。
 
 『ローマ帝政時代、豪商として名を成した男・ユリウスと、その幼馴染みでありキリスト教徒として共同生活を送る者・パンフィリウスとが、人間のあるべき生き方をめぐって何度か議論を戦わせる。キリスト教徒として生きることに真っ直ぐなパンフィリウスに比べ、己の人生に迷いばかりを感じているユリウスは、パンフィリウスに感化され、キリスト教徒として生きようと決意するが、そのたびにある男に出会い、説得され、思いを断念してしまう。だが、いくら思い直して家業や公的任務を果たしても、満たされぬ思いは解消できず、ついに3度目の決意を完遂し、パンフィリウスとともにキリスト教徒として生きていくこととなり、心の平穏を得る・・』

と簡単に内容をまとめてみたが、こんないい加減なまとめではトルストイに申し訳なさ過ぎる。 しかし、生きることについて真剣に考えたことのない私では、これくらいにしかまとめられない。だが、少しばかり補足を・・。
 常に心の空虚を感じているようなユリウスであるから、己について真摯に向き合うこともできるのだろう。己を幸せだと感じられなければ幸せになりたいという思いは募ってくるだろうし、そのためには何をしたらよいかと己に問うことも多くなるだろう。そんな彼にしてみれば、貧しくとも充足した生活を送っているように見えるパンフィリウスは無視できぬ存在であり、彼が生活に行き詰まったときに救いを求めたくなる存在でもあったはずだ。言わば、ユリウスにとってパンフィリウスこそが、光の源であり、彼の導きに従えば心の安穏に辿りつくこともできる、幸福への道標でもあったのだろう。その意味で、ユリウスはじゅうぶん幸福な人間であったように思う、紆余曲折はあったにせよ、結局は道は開かれたのだから・・。
 だが私には到達すべき場所などまるで見えていない。見ようとしていないのかもしれないが、茫漠たる荒野でぼんやり佇んでいるだけだ。ずっとこんな感じで生きてきたのだから、これからもこれでいいと思っているが、光が差している場所があるなら、ちょっとくらいなら覗いてみたい気がしないでもない。まあ、何も特別なことをしていない私には、光が導いてくれることなどないような気もするが・・。
 ただ、光を求めて右顧左眄するようなことだけは避けようと思っている。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )