回復期訓練終了後に、介護サービス付きの高齢者住宅に入るにあたって、要介護認定を申請することになりました。
父は62歳だったため、まだ介護保険の使える年齢ではありませんでした。
ヘルペス脳炎は特定疾病にあたらず、「初老期の認知症」として、「要介護2」と認定してもらうことが出来ました。
今ほど高齢者住宅が建てられる前だったので、私の家から40分、実家からは、1時間20分もかかるその住宅は、大阪で一番初めに出来た高齢者サービス付きの賃貸住宅だったそうです。
居室は、40.00 m²と広く、トイレやお風呂・キッチン・ベランダまでついていて、普通の賃貸住宅といった感じでした。ここでの暮らしを出来るだけ快適にと思い、私は、電化製品や家具、座り心地の良い一人用の椅子などを父と一緒に買い揃え、ケアマネージャーさんと介護のプランを作りあげていきました。
食事は、3食調理師さんが作ってくれ、ヘルパーさんが家事をしてくれ、週に2回デイサービスに通うという具合でした。
お風呂も、共同の大きなお風呂は嫌がるので、居室のお風呂に入るのを見守っていただき、ストーマを変えているか声掛けでチェックしてくださいます。
また、看護士さんの巡回があり、2週間に1回は医師の診察も行われていました。
でも、そんな暮らしは、父にとっては、満足のいくものではありませんでした。
デイサービスは、とにかく疲れるようで、具合が悪くなり、施設で寝込んでしまうことも多いようでした。
居室では、いつも一人用のリクライニング椅子でうつらうつらとしていて、テレビも、聴覚過敏のせいか疲れるようで、あまり見ようとしませんでした。
部屋では何もせず、思いついたように外に散歩に行きたがるのですが、右手右足に麻痺がある上、記憶障害があるので、一人で行かせるわけにはいきません。
そこで、デイサービスを週1回にし、買い物の同行をお願いして、ヘルパーさんと一緒に買い物に行くようになりました。また、訪問介護で作業療法士さんに散歩や体を動かすリハビリをお願いしました。
念のため、ココセコムの契約をし、携帯とセットで持ち歩くようにしてもらいました。
人との会話が1番の脳のリハビリだと聞いて、私は、1日おき+日曜日に父を訪ねるようにしました。
簡単な脳トレのドリルをコピーして、クリアファイルに1枚ずつはさみ、父に1日1枚を課題にして、私が答え合わせをするようにしていました。
父は自分でトイレに行けるのですが、失禁することも多いのでリハビリ用のおむつをしていました。失禁しても着替えなかったり、汚れたおむつを押し入れやタンスに入れてしまうことがありました。
全く障害を感じさせないほどしっかりしている時と、そうでない時の差が激しく、私は、戸惑うとともに、不思議な感じがしました。
ただ、高次脳機能障害によくみられる怒りっぽさはなく、病気前よりもかえって穏やかになった気がしました。
父は、買い物に行く度に同じ品物を買ってしまい、部屋に3つも4つも増えていくのですが、私が、「お父さん、またこれ買ってきたん? 同じの、たまってるで~!」と言うと、ぺろっと舌を出し、バツが悪そうに微笑みます。
「しゃあないなぁ・・・」と、こっちまで笑顔になりそうな感じで・・・。
病気前の父は、無口で、いつも仕事や自分の趣味に没頭しているイメージがありました。
60歳で定年退職した後も、1年かけて、車で一人、日本一周の旅に出かけていました。
人に頼ることが嫌いで、「自分のことは自分の責任で好きにしろ」という感じだったので、私もそんな父に、進学も就職も結婚も、何一つ相談したことがありませんでした。
だから、今まで見たこともない父の人懐っこい笑顔を見ると、とても切ない気持ちになりました。
これが、父の第2の人生なんだと思いました。