愛と公正(義)と知恵と力と命の源の神エホバは、ご自分の預言者イザヤを用い、ご自身がご自分の民をエジプトから導き出し、ご自身のエホバというみ名に栄光と賛美が着せられたことを思い起こさせました(イザヤ63:14後半)。
西暦前607年のエルサレムと神殿の滅びは、神エホバからの懲らしめであり、神エホバの極度の不興の表明でした。不従順になったイスラエル国民は、厳しい処罰を受けて当然でした。しかし神エホバは、イスラエル人の絶滅を意図はされていませんでした。使徒パウロは次のように述べて、神エホバの懲らしめの目的を示唆しています。「確かに、どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに思えず、かえって辛いことに思えます。しかし後には、それによって訓練された人に、平和な実、すなわち義(正しいこと)を生み出すのです」(ヘブライ12:11)。
当時のイスラエル人は、そのつらい経験にどのように反応するでしょうか。神エホバからの懲らしめを憎むでしょうか(詩編50:16,17)。それとも、訓練として受け入れるでしょうか。悔い改めて、いあやされるでしょうか(イザヤ57:18.エゼキエル18:23)。イザヤの預言によると、イスラエルのかっての住民の少なくとも一部は懲らしめに正しくこたえ応じるようです。イザヤ63章の最後の数節から64章全体にかけて、イスラエル国民は、悔恨の情を抱いて心から祈願しながら、神エホバに近づく人々として記されています。預言者イザヤは、流刑になる将来のイスラエル国民に代わって悔い改めの祈りをしています。それと共に、前途の事柄についても、あたかも目の前で生じているかのように記しています。
イザヤは神エホバに向かって、「天から見て下さい。神聖さと栄光に満ちた、あなた(エホバ)の高大な住まいから」みてください、と祈っています(イザヤ63:15前半)。この聖句の「天」とは、霊的な天のことであり、そこには、神エホバが目に見えない霊の被造物と共に住んでおられます。イザヤは流刑の身のイスラエル人の考えを言葉にして、次のように続けています。「あなた(エホバ)の熱意と力強さ、深い思いやりと憐れみはどこにあるのですか。それらは私に示されていません」(イザヤ63:15後半)。神エホバは、ご自分の民に対して力を引きと止め、ご自分の民に対する深い感情である、「深い思いやりと憐れみ」を制御しておられました。何と言っても、神エホバはイスラエル国民の「父」なのです。アブラハムとイスラエル(ヤコブ)は、この国民の実の父祖ですが、その二人でさえ、もし生き返って来たなら、背教的な子孫を退けたいと思うでしょう。神エホバは並外れた同情心をお持ちなのです(詩編27:10)。預言者イザヤは感情の気持ちを込めて、さらに次のように記しています。「あなた(エホバ)は私たちの父です。・・・昔から私たちを救ってきた方です」(イザヤ63:16)。
引き続き次回にイザヤの心情の溢れる言葉を紹介致します。
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