城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

おなじみの日本論・日本人論(続々) 21.2.2

2021-02-02 19:50:29 | 面白い本はないか
日本人は言葉の力というものを信じていないのであろうか?というのは、不勉強のためかもしれないけれども、政治家なりアーティストとか、要するに著名人が発する言葉で感動するような経験はほとんどない。一方でアメリカ大統領の就任式での演説には感動させるような内容が多くある。ちなみにバイデン大統領の就任式で話題となったのは、なんと22歳の黒人女性アマンダ・ゴーマンさん、この女性を抜擢できることアメリカという国に対して、今一度敬意を表したい。ゴーマンさんが朗読した詩は、儀式や事件など特定の機会にために詠む「機会詩」の部類に入り、多様性やマイノリティ、そして民主主義の尊重といった、今の米国にとって重要なテーマがしっかり織り込まれている(以上中日新聞1月29日付22面から引用)。折角だから最後の部分のみ引用する。
 新しい夜明けが開花する、私たちがそれを解き放つときに
 もし私たちがそれを見る勇気を持つなら
 もし私たちがそれになる勇気を持つなら

日本辺境論では、2009年のオバマ大統領の就任式の演説が引用されている。そこで「どうして日本の首相はこうした演説ができないのであろうか」という問いを立てている。アメリカ人の国民性格は建国の時に「初期設定」されているので、もしおかしくなったら、誤作動したコンピューターのように初期設定に戻せば良い。一方で日本は立ち帰るべき初期設定がない。私たちの国は理念に基づいて作られたものでなくて、いつのまにか国ができていたとも言えるので、歴史を貫いて先行世代から受け継ぎ、後続世代に手渡すものが何かについて語るところがない。かわりに語るのは、よその国との比較を語るだけである。(ここで原稿をただ読むだけのリーダーに内容はともかくとして感動することはない)

 日本辺境論からの引用を続けよう。「日本は辺境であり、日本人固有の思考や行動はその辺境性によって説明できる」「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。(中略)おそらく、これは始めから自分自身を中心として、ひとつの文明を展開することができた民族とその一大文明の辺境諸民族の一つとしてスタートした民族の違い(梅棹忠夫「文明の生態史観」から)」丸山真男によると「日本の体系的な思想や教義は内容的に言うと古来から外来思想である。けれども、それが日本に入ってくると一定の変容を受ける。それも大きな修正を受ける。きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める態度こそまさしく日本人のふるまいの基本パターン」そして「主旋律は圧倒的に大陸から来た。また、明治以後はヨーロッパから来た。その外来思想はそのまま響かないで、低奏部に執拗に繰り返される一定の音型によって修正され、それと混じり合って響く。」「日本文化そのものはめまぐるしく変化するけれども、変化する方法は変化しない」(最後のところがわかりにくいですね!)「狭隘で資源の乏しいこの極東の島国が大国強国に伍して生き延びるためには、「学ぶ」力を最大化する以外になかった。「学ぶ」力こそ日本最大の国力でそれだけが私たちの国を支えてきた。「学ぶ」力を失った日本人には未来がない。現代日本の国民的危機は「学ぶ力の喪失、つまり辺境の伝統の喪失なのだ。」

 ここまでの引用でほぼ辺境論の言うところは言えただろう。ここでは日本語について述べているところを引用する。日本語は漢字(表意文字、真名まな)とひらがな(表音文字、仮名)からなっているハイブリッド。(このハイブリッドこそがマンガが日本の得意技となった由縁。表意文字=マンガという絵と「ふきだし」呼ばれるせりふ部分を同時にすばやく見ることができるのは日本人の得意技?)もともと無文字であった日本は大陸から漢字を取り入れた。そして外来のものである漢字が正当な位置を占め、男性語となった。一方でひらがなは女性語として女性作家の作品になった。韓国、ベトナムは漢字を棄てた。このため、2世代前に書かれたものを彼らは読むことができない。「明治初年に日本は英語、フランス語、ドイツ語で書かれた大量の文献を翻訳し、わずか20年ほどの間に現在私たちが使っている自然科学、社会科学関連の術語のほとんどは訳語として作られた。西周(あまね)が哲学、主観、客観、観念、命題、肯定、否定、理性、悟性、現象、芸術、技術などの語彙を作った。そしてその訳語は中国でも使われた。」(生活ばかりでなく、学術的、技術的なことを語るあるいは書くのに日本語で足りてしまう。フィリピンだと後者のことは英語でしか語れないし、書けない。それに相当する語彙がないからである。これがために日本人は英語がなかなかうまくなれないのかもしれない。)

 以上で引用は終了である。しかし、外来思想ばかり取り入れていると江戸時代の国学者「本居宣長」のように「仏儒」(からごころ)を廃し、」「やまとごころ」というのを見つけて、自尊心を少し取り戻そうとするであろう。そしてイザヤ・ペンダサンの記事で紹介した皇国思想(本家の中国は今や「中華」の国たり得ない。本家は今や(明治)日本だ)も出現するのも理解出来る。さらに、今や日本はありがたくない課題最先進国との称号までいただいており、きょろきょろしても解決策は簡単に見つかりそうもない。ところが、参考となる国はすぐ近くにあったと思わせる本を次回に紹介したい。






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