城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

他者の靴を履く 22.2.18 

2022-02-18 16:47:30 | 面白い本はないか
 最近ケア労働という言葉をよく見かける。特にコロナ禍でケア労働に携わる人たちは大変な重圧のもとで働いている。コロナ病床で働く医師や看護師、特養やデイサービスで働く介護士等は典型的なケア労働者ということになる。こうしたケア労働者にとって必要な素質は、医学的な知識や介護技術ばかりでなく、相手の身になって考えることであると思う。患者の顔をほとんど見ることもなく、ただただパソコンの画面を見ている、患者の話をほとんど聞かない医師や病棟を回ってきても忙しそうにしているだけの看護師はこうした素質をあまり持っていないように思われる。日本語だと「共感力」、英語なら「empathy(エンパシー)」、「put yourself in someones shoes(他者の靴を履く)」ということになる。

 このエンパシーについて様々な事例や文献を探りながら書いた本が今日紹介するブレイディみかこ著「他者の靴を履くーアナーキック・エンパシー」である。

県図書館にもあるのだが、貸し出し中ばかりで容易に読むことができなかった。水曜日に揖斐川図書館に行ったら、偶然にもこの本に出会うことができ、早速読むことができた(ここの選書を誰がやっているかしらないけれど、少ない予算の中でなかなか良い選書している)。この著者は英国在住で元保母さん、典型的なケア労働者ということになる。彼女の書く本は、日本と英国の良い点、悪い点を肌で感じながら書いているので、大変参考になる。

 さて、この本によりながら「エンパシー」とは何かを書いてみよう。まず、「エモーショナル・エンパシー」と「コグニティブ・エンパシー」とに大別される。前者は幸福そうな人を見ると自分も幸福に感じることだが、本当にその人が幸福なのかは考えていない。後者はたとえ賛成できない、好感を持てない相手でも、心の中で相手が何を考えているのかを想像することである。瞬時に他者の感情が伝染するような類い(前者)のものではなく、相手が感情を抱くようになった理由を深く論理的に探求するための学習と訓練の果実である。後者こそ「他者の靴を履く」ということになる。ただし、エンパシーが全面的に望ましいかとばかり言えないとも言う。すなわち相手に全面的に感情移入してしまえば、自分、あるいは自己がなくなってしまう。聞いた話だが、患者のことを親身になって世話することに疲れ、辞めることになった看護師の例である。

 ここからは著者があげる事例について紹介する。まずは、刑務所の例で、坂上香監督のドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」の舞台となった「島根あさひ社会復帰促進センター」でのTC(回復共同体)というプログラムの実践の模様から。このTCはアメリカなどで既に実践されているのだが、監督自身日本では実施が難しいだろうと思っていたプログラムだ。既にアルコール依存症とか薬物依存症の患者の会ではおなじみのものではある。受刑者は円(サークル)になって、順番に自分の個人的体験を語っていく。他の受刑者もその語りに反応、参加していく。そうすると家族や友人などにも語らなかった事柄を次第に受刑者が語るようになる。そして被害者がどんな思いにあるのかも推し量る訓練を受ける(この自分の考えや感情を言葉にして語り合いという訓練を日本の家庭や学校ではあまり行っていない。これでは相手の感情など読み取ることは難しくなるばかりである。)なぜ監督は日本にはなじまないかと考えたかだが、日本は自分の感情を赤裸々に語ることをしない文化、沈黙の文化であると考えたからだった。しかし、受刑者はたちは次第にではあるが、語ったのである。そもそも相手のことを推し量れるような人間であれば、犯罪を犯すことは少なくなる。オレオレ詐欺を例にとっても、騙す相手を単なる「金持ちの高齢者」と考えているからである。その高齢者が爪に火をともすような苦労をして貯めた虎の子の貯金であったかもしれないとか貯金を盗まれた高齢者は苦労するだろうかとか想像することはない。

 さすが英国と思うような事例もある。著者の中学生の息子が通う学校での授業から。有名なロミオとジュリエットを取り上げて、一回目は全員がロミオになってジュリエットに恋文を慣用表現あるいはオリジナルな表現で書く。二回目は全員がジュリエットになりきって、ロミオに恋文を書く。日本では読書感想文という形で読んだ本の感想を書く授業が多い。また、英国では演劇が授業に取り入れられている。これなどは他者を演じる、すなわち他者の靴を履くということになる。マーガレット・サッチャーの事例も面白い。身近にいた人の彼女に対する評価で、「彼女はシンパシーのある人ではあったが、エンパシーのある人ではなかった。」「「鉄の女」と呼ばれたが、実は官邸のお抱え運転手や自分に身の回りで働く人々にはとても優しく、思いやりのある人であった」。ところが教育大臣だった頃、それまで学校で無償とされていた牛乳を7歳以上の児童には提供停止とした。「英国で最も嫌われた女性」とタブロイド紙で批判されたが、彼女は、「幸運なことに、多くの人々、きわめてふつうの多くの親たちが、給食費を払うことができますし、牛乳代も払うことができます。」と述べた。彼女は街の雑貨・食料店の娘として、公立校にも通った。庶民の暮らしが豊かでないこと、子どもの貧困を知っていたはずなのに。

 エンパシーが出現しやすい例として、災害時がある。これはレベッカ・ソルニットが「災害ユートピア」で書いている(読んでいないので孫引きということになる。今回県図書館から借りてきたので、読むつもりだが、分厚いので時間がかかりそう)。政府や官僚たちは大規模災害の時、これまでの秩序が機能しなくなって、パニックを起すと考えていた。しかし、実際には人々が互いに救助して気に掛け合い、食料は無料で与えられ、生活のほとんどは戸外のしかも公共の場で営まれ、人々の間にあった格差や分列は消え去りといった「ユートピア」とでも呼べる共感の場が広がる。これはもともと人間には他者を慮るということが備わっているかもしれないという考えが沸いてくる。ところが、平常時となると難しい。災害時には目の前にいる人を助けるということが何よりも優先するからである。著者は、政府が緊縮財政のなか福祉や医療、教育などのサービスを削る口実として、「この国はこのままで破産します」「未来の世代のためにみんなで我慢して借金を減らしましょう」という。なぜか当の苦しんでいる庶民の方が「じゃあみんなで我慢しよう」と政府を支持してしまう。しかし、支配者たちは庶民の苦しさなどは考えていなくて、財政規律を守ったという数字の実績を残して出世したいだけなのだと述べている。

 日本では自助、共助、公助と言われ、最近特に自助、共助を強調しだした。よく考えれば公助のお金を増やしたくない政府の事情を垣間見ることができる。私たちはこうした政府の発言にやすやすとエンパシーする必要はないのである。そして日本人は「人に迷惑をかけたくない」と口癖のように言う。それは他者を慮っているようでそうでもなくて、人にも煩わされたくないという心の裏返しでもある。そうした考えを私たちは少し修正しても良いのではないか。すなわち、お互い様で、お互いに迷惑をかけたり、かけられたりしてもそれが普通であると考えられるの社会になるように各自が努力してはいかがか。

☆今日は久しぶりの青空と降ったばかりの雪 何回目かの雪の城台山散歩 
 この時期の雪としては珍しい軽い雪だ。

 揖斐小から城台山

 思い出語るムクノキの奥に城ヶ峰

 お地蔵様と城台山

 伊吹北尾根の山(中央)

今年は雪が降りすぎて、思うように登れない。日曜日登るつもりであった湧谷山も強風と雪のため中止とした。

 

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