俳諧修業の頃を思い出す芭蕉
句郎 「さまざまの事おもひ出す櫻かな」と芭蕉は詠んでいる。月並みな感じがするね。
華女 そうね。芭蕉はどんなことを思い出したのかしら。
句郎 十代のころ、自分の将来のことをあれこれ不安に思っていたころなんじゃないかな。
華女 今も昔も十代の後半と言うと青春よね。
句郎 青春というと「道に迷っているばかり」という流行歌の歌詞があったようにどんな風に生きていこうか、苦しんでいたじゃないかな。
華女 元禄時代に芭蕉は生きたんでしょ。元禄時代の若者も今の若者と同じようにいろいろ人生の選択の幅があったのかしら。
句郎 元禄時代に生きた若者にとっての将来はほぼ決まっていたようなものだと思う。
華女 そうでしょ。だったら青春の憂いのようなものはなかったんじゃないのかしら。
句郎 でも芭蕉にはあったんだと思う。
華女 芭蕉の出自は農民だというじゃない。だとしたら農民になるしかなかったんじゃないの。
句郎 江戸時代は身分制社会だからね。農民は土地に縛り付けられた人々だったからね。
華女 芭蕉の故郷は伊賀上野、名古屋から関西本線の下りに乗ると奈良県に入る前にある駅だったわ。
句郎 芭蕉は伊賀上野の農民出身でありながら、土地の呪縛から逃れ出た。
華女 どうして芭蕉は農民身分でありながら、江戸に出て来ることができたのかしら。
句郎 普通、農家の次男は部屋住みが普通だった。
華女 部屋住みとはどんなことなの
句郎 田畑と家全部を長男が相続してしまう。当時、分家することは無かった。分家したら農民は生きていけなかった。「田分け」は家の存続を不可能にした。「田分け」は愚か者がすることだった。「部屋住み」は嫁を娶ることもなく、長男の指示を得て、農作業に勤しむ使用人のような存在だった。
華女 次男というのは惨めなものだったのね。
句郎 そうなんだ。だから芭蕉は12歳ぐらいになった時に、口減らしとして藩主の藤堂家に無足人として奉公に出た。奉公人だからただただ働く一方でご飯を食べさせてもらえるだけの使用人だね。
華女 今では考えられないことね。
句郎 芭蕉は台所で料理人として働いていたようだ。お仕えする人は藤堂新七郎の嗣子良忠だった。芭蕉23歳寛文6年、良忠は25歳の若さで亡くなってしまう。良忠の奉公人としてほぼ10年ぐらいお仕えしたが主君が亡くなってしまったため藤堂家から出なくちゃならなくなった。
華女 芭蕉は武家奉公人として藤堂家に仕えていたときに字を覚えたり、俳句を習ったのかしらね。
句郎 そのようだ。良忠は蝉吟(せんぎん)という俳号を持ち、京都の北村季吟に学び、俳諧に親しむ文人だった。芭蕉の素質を認めた最初の人だった。
句郎 芭蕉は藤堂家を下がり、それから6,7年、何をしていたのか分からない。29歳の時、芭蕉は江戸に出て来る。江戸に出た芭蕉が貞享5年伊賀上野に帰ったとき、藤堂家の良忠の子(探丸)が家督を継いでいた。この探丸の別邸の花見に招かれたときに詠んだ句が、「さまざまの事おもひ出す櫻かな」なんだ。芭蕉は藤堂良忠(蝉吟)に仕えていた頃のことを思い出したんだろう。
華女 どんな思い出があったんでしょうね。
句郎 きっと、感謝の気持ちでいっぱいだったんじゃないかな。蝉吟様のお陰で今の自分があります。蝉吟様から字の手ほどきを受け、俳諧を学ばしていただきありがとうございました。このようなことだったんじゃないかと思う。