醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 143号  聖海

2015-04-06 11:11:53 | 随筆・小説

     芭蕉は風景を発見したか

句郎 芭蕉は平泉から一関まで戻り、新緑のブナ林を通り、岩手山・鳴子温泉を経て尿前の関を越え、出羽の国に出ている。
華女 新暦の六月の頃のことなのでしよう。
句郎 そうだね。きっとブナや楢の落葉広葉樹の新緑に包まれた狭い道を歩いて行ったんだろうね。
華女 それにしては新緑の雑木林を詠んでいる句もなければ、文章もないわ。どうして書いていなのかしら。不思議ね。
句郎 特に東北地方の新緑はブナ林の風景が美しいと言われているみたいだから。本当に不思議だよね。どうしてなんだと華女さんは思う?
華女 目に入らなかったということはないんでしようから。どうしてかしらね。分からないわ。
句郎 ブナ林などの雑木に美しさを感じなかったのかもしれないよ。
華女 そんなことってあるのかしら。桐や藤の花が咲いていたかもしれないわよ。『曾良旅日記』を読むと日光・憾満ガ淵の新緑のころ、行っているみたいよ。憾満ガ淵の新緑のころは素晴らしいと思うわ。句もなければ、俳文もなにわね。
句郎 本当に雨に濡れた青葉には心が洗われた思いがした経験があるよ。大谷川の河音が清々しいしね。
華女 街中を少し入ったところに別世界があるという感じね。
句郎 芭蕉はブナ林の自然風景に接しながら、その風景の美を発見できなかった。そのようなことを言っている人がいるんだ。
華女 へぇー、そんなことを言っている人がいるの。
句郎 市立図書館の棚を眺めていたら、内田芳明という人の『風景の発見』という本を見つけたんだ。面白そうだと手に取ってみた。
華女 内田さんは何と言っているの。
句郎 例えば『奥の細道』への旅立ちの句「行春や鳥啼魚の目は泪」という句は鳥や魚に別れの哀しみを詠っているが、その哀しみは芭蕉の気持ちを表現している。自然の風景としての鳥や魚を詠っているわけではない。無常という主観を述べている。客観としての自然風景を詠ってはいないとね。
華女 確かにそうね。でも「あらたふと青葉若葉の日の光」と日光で詠んだ句はどうなのかしら。「青葉若葉」の美しさを詠んでいるのじゃないの。
句郎 そうかな。僕にはこの句も芭蕉の主観、不易なるものとしての日光東照宮の森の荘厳さのようなものを詠んでいるのじゃないかな。
華女 「日光」の客観的な美、そのものをそのものとして詠うのではなく、徳川家康を神として祀る森はなんと荘厳なものなのだろうと芭蕉の主観を詠んでいるというわけなのね。
句郎 そうなんだ。芭蕉は存在する自然や人間すべてのものに無常な生の現実があることを発見し、詠った。この無常なる生の現実に不易なる真実、徳川家康の神性を表現したのかな。
華女 難しくなってきたわね。要するに、芭蕉は自然の風景を詠んでも自然風景そのものを客観的に詠んではいないということなんでしょ。
句郎 内田さんそういうことを言っている。
華女 句郎君はどう思うの。
句郎 僕も内田さんの主張に納得したんだ。だって芭蕉は西行や宗祇の目を通して自然を見ているように思うからね。「花鳥諷詠」を唱えた高浜虚子の句とは違っていると思う。
華女 客観写生ということなの。
句郎 「春夏秋冬四時の移り変る自然界の現象や人の世の事象を諷詠する」という虚子の主張は客観写生、写実ということなんだろうな。
華女 虚子は「風景」を発見したということなの。
句郎 「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店」。この芭蕉の句は実にリアルな表現だと思うね。
華女 芭蕉のこのような句を継承したのが虚子だったのかもしれないわよ。