子供は発見された
子どもの存在を近代社会は発見した。子どもの誕生なくして近代社会は存在し得なかった。子どもの発見が近代国民国家を成立させたのである。
江戸時代には子どもはいなかったのかと、言えばそんなことはないだろう。子どもはいたに違いない。江戸末期には人口が急増していたから子どもの数は増えていたに違い。それにもかかわらずに江戸時代には「子ども」はいなかった。なぜなら江戸時代には公教育制度がなかったからである。公教育制度が成立するためには「子ども」を発見し、誕生させなければならなかった。
三浦綾子の書いた「母」を詠むと子守に出された小林多喜二の母が小学校の教室の窓の下に行き、赤子を背中に背負い教室を覗き込み、一心に教師の話を聞く、子守少女の姿が描かれている。そんな子守たちが教室の窓に集まると追い払う教師がいた。この教師の姿に権力者の本質が表現されている。
明治時代前半のころ小学校に通えない子どもたちにとって小学校は憧れの場所だった。小学校に通える子どもの数は限られていたのである。だから明治政府は子どもたちを学校に通わせるよう地方自治体に強制した。この強制に対して小作農民や中小の商工民は血税と言って反対したのである。青年男子が兵隊に取られることと子どもを小学校に通わせるよう強制されることはまさに小作農民や中小の商工民にとって働き手を国に取られる血税だったのである。
子どもを保護の対象にする。国家が子どもを教育の対象にする政策をとるようになるのは近代社会成立の結果なのである。教育によって子どもを国民にしたのである。子どもを国民にするということはまず国語を子どもたちに教えた。教えるということは強制することでもあった。普段、家で父母が使う言葉を汚い言葉として否定した。国語とは明治政府がつくった日本語である。方言を否定し、共通語を普及させることによって国家統一を進めた。このように子どもを保護の対象にすることは父母に血税を払わせ、国民を形成していくことであった。
公教育制度の普及によって国家を国民のものにしていった。その成果が日清・日露の戦争だった。世界最強を誇ったロシアのバルチック艦隊に対して東郷平八郎率いる日本海軍が「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」このような電報を大本営に打ち日露戦争に勝利でたきたのも日本国民の心底からの協力があったからである。しかし真に国が国民のものになったのかというと現実にはそうではなかった。現代にあっても国は国民のものにはなっていない。国を現実として国民のものにすることが現代日本社会の課題になっているのである。それは公教育制度を現実として国民のものにしたときに公教育というものが人類の文化遺産を継承する生徒・学生中心の教育になるのだ。
資本主義社会にある公教育制度は生徒・学生が中心になった学習が実現されていない。生徒・学生が疎外されて存在しているがゆえにまた教師や教授もまた疎外されて存在している。現在も多喜二の時代も公教育制度は疎外されて存在している。現在の公教育制度歌下で学ぶ者は地獄に生きることなのだと多喜二は小樽高等商業学校機関誌に書いている。