酒のめばいとど寝られぬ夜の雪 芭蕉43歳 貞享3年(1686)
「閑居の箴(しん)」と題する詞書をして、次の文章を芭蕉は書いている。
あら物ぐさの翁や。日ごろは人の訪ひ来るもうるさく、人にもまみえじ、人をも招ねかじと、あまたたび心に誓ふなれど、月の夜、雪の朝のみ、友の慕はるるもわりなしや。物をも言はず、ひとり酒のみて、心に問ひ心に語る。庵の戸おしあけて、雪をながめ、または盃をとりて、筆を染め筆を捨つ。あら物ぐるほしの翁や。
あらなんとも、ものぐさな老人ですなと、芭蕉は自分を卑下している。43歳にして芭蕉は自分を老人だと自己認識していた。330年前の日本社会にあって43歳は老人であった。8年後の51歳で芭蕉は亡くなっている。それでも当時の男の平均寿命から比べれば長生きであったろう。身分による平均寿命の格差は大きかったに違いない。武士と農民・町人とでは20歳以上の平均寿命の格差があったであろう。
日頃は人が訪ねてくるのがうるさい。人に会いに行くこともしない。人を招くこともしない。たびたび旅に出ようと心に誓ってはいるものの夜空の月を愛でているときや雪が降っている朝などは友がいればどんなにかいいのになあーと思う。黙って一人酒を飲む。お月さま、綺麗だね、芭蕉さん。自分で自分に話しかけ、相槌を打つ。まだ雪は降っているのかなと、庵の戸をちょっと開け、外を見る。まだまだ降っているなあー。降る雪をしばらく眺めては、盃に酒を注ぐ。「酒のめばいとど寝られぬ夜の雪」としたためた。ああなんと降る雪の寒さを楽しんでいるなんて、酔狂な老人がここにいますよ。降る雪の静かさを味わっている。
誰でもいい。誰かと話がしたい。一人ではいられない。この狭い部屋が広くて広くてたまらない。誰かと一緒にいたい。こんな気持ちになる自分を叱る文章を芭蕉は書いている。「箴(しん)」とは弱音を吐く自分を叱りつけるという意味なのであろう。
田中善信氏は「芭蕉二つの顔」という著作の中で芭蕉は俗世を捨てた孤高の詩人ではない。処世に長けた伊達好みの町人であったと述べている。伊賀上野から出てきた芭蕉は日本橋で俳諧師として成功している。それなりに豊かな生活を実現した。身の回りの世話をする女性を雇う余裕を持つことができるようになった。そのような生活を自ら捨て孤高の俳人たらんとしたということは考えられない。やむを得ず、芭蕉は隠棲せざるを得なかった。隠棲せざるを得ない人生を肯定的に積極的に生きた。そこに芭蕉の文学が生まれた。これが田中善信氏の主張のようだ。
なぜ芭蕉は隠棲せざるを得なかったのか。それは甥の桃印が江戸に出てから17年間一度も帰国していなかった。貞享4年の帰国令にも従わずに桃印は帰国しなかった。藤堂藩は貞享5年10月にも1年奉公人や日雇に出ている者も10月10日までに故郷の役所に出頭するよう命じている。藤堂藩は他国で働いている領民すべてを一時帰国させようとした。が、桃印は帰国しなかった。藩法を犯せば重罪は必至である。重罪が必至であることを知りながら芭蕉はなぜ甥の桃印に帰国を促さなかったのか。桃印は芭蕉庵にいなかったのである。出奔していた。
芭蕉はやむを得ず、桃印は死んだことにして国元へ届け出た。この嘘の報告がばれることを芭蕉は恐れた。そのため人の目につく日本橋から深川に隠棲したのだと田中善信氏は主張している。