俳句と短歌。芭蕉の句と比べてみる
秋の暮を詠んだ芭蕉の句がある。
この道や行人(ゆくひと)なしに秋の暮 芭蕉51歳(元禄7年、1694)
芭蕉はこの年、元禄七年に大阪で亡くなり、近江・膳所の義仲寺に葬られた。晩年を迎えた芭蕉の心中が表現されている。その世界は深く、広い。句に対して和歌はどうだろうか。新古今和歌集に「三夕(さんせき)の歌」といわれているものがある。
こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢(しぎたつさわ)の秋の夕暮 西行法師
(俗世間の人の気持ちを失くした出家した者の身にも、鴫の飛び立つ沢の秋の夕暮れには、感じるものがある)
見渡せば花ももみじもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 藤原定家
(見渡すと、春の桜も秋の紅葉もない。ただ、海辺の苫葺の小屋があるだけの秋の夕暮れ)
さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ 寂連法師
(さびしさは色がないということ。槇が立っている山の秋の夕暮れがあるだけ)
折口信夫は寂連法師の歌を、ただ槇の木がつっ立っているだけのつまらぬ歌と評したという。
短歌は三一字の文字(音)が文学世界を創りだす。この文字数が一七字に減少すると文学世界に質的変化が起こる。まさに弁証法的な変化である。文字数の量的変化が質的変化を起こす。文学世界に質的変化が起きる。歌から句になる。万葉集の伝統を継承している和歌はもともと声を出して唄うものであった。天皇の前で天皇を讃える歌を唄った。天皇の統治を称えた。天皇の統治する人々を、田を、畑を、山を、海を讃えた。三一文字の歌、三十一文字(音)を唄った。が、一七文字の句は唄わない。いや唄えない。だから書く。懐紙に書く。書いたものを読んで味わう。「黒冊子」に芭蕉の言葉がある。「発句の事は行きて帰る心の味(あじわい)也」。この言葉は読んで味わうことを意味している。歌う文学世界から読む文学世界に質的な変化を遂げる。文字数の量的減少は文学世界に質的変化をもたらした。和歌が情を歌う文学であるなら俳句は認識の文学であるだろう。文字数が少ない故により深く対象を表現しているといえるだろう。
和歌には無意味な約束事がたくさんあった。無意味な約束事など暇な特権階級の人々でなければ覚える事などできなかった。文字を覚えた庶民はその無意味な約束事を笑った。それを談林俳諧という。この中から芭蕉は生まれてくる。貴族や武士の文芸であった和歌を庶民が笑った。その中から庶民・民衆の文芸・俳句が生まれてくる。談林派の俳諧は和歌の無意味な約束事を笑った。笑うだけで面白がったが文学には程遠かった。しかし、新しい文芸のあり方を創りだした。その一つが記名のあり方だ。和歌の作者には姓を書く。姓には差別がある。奈良時代からの伝統的な差別がある。高貴な姓と賤しい低い姓がある。姓を得ることのできなかった民衆は名を書く以外に道は無かった。その伝統は今に伝えられている。子規、虚子、蛇笏などと俳人といわれる人々は名で呼ばれている。この伝統は俳句が庶民、民衆の文芸であることを意味している。俳句発生の端緒となった談林派の俳諧は笑い、その笑いは卑俗なものであった。卑俗なものではあっても笑いはいつの時代も民衆の武器であった。特権階級の乙に澄ました文芸を笑い溜飲を下げたが文学にはならなかった。
五七五の一七字、簡単に誰でも文字が書ければ書くことができる。俳諧とは数人が集まり、五七五と書いた人の発句に七七の脇句をつける。このような座を組んで詠んでいくのが俳諧である。
談林俳諧が普及すると日本全国いたる所に俳諧を楽しむ庶民が生まれてくる。いつの時代も庶民は笑いを求めている。書く文芸、俳諧の普及は日本人の識字率を大いに引き上げた。日本人の教養を大いに引き上げたことが想像できる。
俳諧の普及の中から卑俗な文芸であったものを文学にまで引き上げたのが芭蕉である。芭蕉は現在の我々が考えるような文学者ではなかった。あくまで俳諧師以外の何者でもなかった。だから連歌の掟を俳諧師は踏襲した。「発句は必ず言い切るべし」という鎌倉時代の連歌書、「八雲御抄」にある掟を守った。この掟を芭蕉は和歌から完全に独立した証とした。五七五だけで独立した文学世界の誕生であると主張した。「切れ」が新しい文芸ジ
ャンルを創りだした。だから俳句にあっては季語よりも「切れ」が俳句をして俳句たらしめているものなのだ。子規は「古池や」の句は季感の感情がないと述べている。芭蕉は発句にあっては季語より「切れ」を重視していたのだ。季語とは和歌によって創られた季節感を表す言葉なのだ。
発句が俳句として普及していくと季語というものが俳句の属性として定着していく。短歌には季語がないがそれ自身に季節感がある。