醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 149号  聖海

2015-04-12 12:21:59 | 随筆・小説

    短編小説 『死のアリーナ』    聖海      


1、闘鶏の眼つぶれて飼はれけり  村上鬼城

 イタリア・カンパニア地方では三月の中旬を過ぎると、灰色に曇った空の一角にある日、突然青空が現れる。青空は春を告げる。オリーブの林が微笑む。剣闘士の試合は春になると始まる。死のアリーナに無産(プロレ)市民(タリア)たちの熱気があふれる。
紀元前一世紀、ローマ帝国内のすべての道はローマに通ずるよう建設が進んでいる。同時に侵略した地域を属州とする直轄支配地が拡大していく。イタリア半島南端の町、タレントゥムからパプアを経てローマに至る軍道・アッピア街道には属州からの富をローマに運ぶ馬車の列が見られた。富を運ぶ馬車の行列を見てパプアの無産(プロレ)市民(タリア)たちは皆、溜息をつく。無産(プロレ)市民(タリア)たちの視線には富への羨望のまなざしがあった。富める者からの施しを得て生きる我が身を省みて我が身をあざける賤しさがあった。帝国の侵略戦争に従軍したパプアの自営農家たちは働き手を失い、先祖から預かり大事に受け継いできた農地を大農園(ラティフン)経営者(デウム)に売り、街に生活の糧を求める無産(プロレ)市民(タリア)になった。富者たちの豊かな生活を街場で直接見るに今まで覚える事のなかった人を羨み、妬む気持ちを抱くようになった。無産(プロレ)市民(タリア)たちの心は貧しい生活に疲れ切り、解消できない不平不満だけが溜まっていた。富者に向って不平不満をぶつけられない鬱屈した憤りは無産(プロレ)市民(タリア)たちの心を荒ませ、猛々しくしていた。
 パプアを通る軍道・アッピア街道はオリーブの林の中にある。無産(プロレ)市民(タリア)にとって剣闘士の試合が街での生活の鬱屈した憤りを解消する娯楽であった。パプアの無産市民たちはオリーブに小さな花が揺れ始めるのを待っている。春になると剣闘士の試合が始まる。剣闘士の試合を見に行くと、ビールがただで飲める。パンも食べられる。日頃の鬱憤を晴らすことができた。アッピア街道に剣闘士や罪人、捕虜、猛獣を乗せた馬車がオリーブの林から現れるのがいつかと待ち侘びていた。とうとう、その日を告げる広告が出た。闘技場の漆喰の外壁や大きな邸宅の壁の前にパプア市民が群がった。
『クロディウス元老院議員提供、三十組の剣闘士、早々に剣闘士が死んだ場合は補欠あり。来る四月一日、二日、三日、天候が許せばパプア円形闘技場において実施。野獣狩り、闘技、名だたるトラキア剣闘士フェリクス出場、フェリスク万歳!護民官の再選を目指すクロディウス万歳!』
 三月二五日、剣闘士を乗せた三十台の馬車がパプアの闘技場に隣接した剣闘士養成所に到着した。剣闘士を一目見ようとするパプア市民が我先にと馬車を取り囲んだ。先頭の馬車から左目に黒い革の眼帯をした禿げ頭の屈強な男・興行師(ラニスタ)アスティナスが棍棒を持って降りてきた。パプア市民は一斉にひいた。闘技場守衛の軍団兵に守られた中、左目に黒い革の眼帯をした興行師(ラニスタ)アスティナスの後ろに鉄の首輪をし、首輪と首輪が鎖で繋がれ、手を縛られた男たちが続いた。それらの男たちは皆キョロキョロしているだけでなく、おどおどビクビクしていた。パプア市民はそれらの男たちを見て、訓練された剣闘士ではないことを見抜いた。鉄の首輪と鎖で繋がれた男たちを見てパプア市民は誰ともなく「罪人たちだ」、「戦争捕虜たちだ」というひそひそ声が人から人へと囁かれた。闘技場で処刑されるべく、闘技場に連れられてきた者たちのようだった。二台目の馬車からは手首を縛られただけの背の高い屈強な男たちが降りてきた。その中にあって一人誰よりも背が高く、筋肉隆々とした男がいた。衣服の間から歩くたびに厚く盛り上がった胸と胸毛が見える。見るからにゲルマン人の大男だった。その男は頭を下げ、体から力が抜けているにもかかわらずパプア市民の間を通ると市民たちの間にぴりぴりした恐怖感が伝播した。しかしその男が通り過ぎるとパプア市民の中から何か期待を逸したような声が漏れた。顔が髭だらけで猛獣のような男だったからだ。美貌の持ち主、トラキア剣闘士フェリスクが猛獣のような顔の持ち主であるはずがないとパプア市民は思ったからである。トラキア剣闘士フェリスクは端麗者として名高い。静かにたたずむ端麗者の姿をそのゲルマンの男の中に見つけることがパプア市民はできなかった。若い娘たちが心ときめかすトラキア剣闘士フェリクスではないとパプア市民は直観した。続いて馬車からは首輪もはめられず、手も縛られず、うなだれたところが何もない背格好も普通なスリムな男たちが降りてきた。その男たちの体は躍動感にあふれ、敏捷な動きをした。闘技場守衛の軍団兵に緊張が走り、パプア市民に恐怖と興味が伝播した。守衛たちは腰を落とし、爪先に力を入れた。その男たちの中にトラキア剣闘士フェリスクはいたが誰がフェリスクであるかをパプア市民は見つけることができなかった。
 興行師(ラニスタ)アスティナスが剣闘士養成所に入っていくと、待ちかねていたクロディウスはアスティナスを自分の部屋に呼んだ。
「アスティナス、トラキア剣闘士フェリスクは来たか」
「はい、無事到着しました」
「最終日の試合に出場させるよう手配しろ、分かったか」
「クロディウス様、大変申し訳ございません。フェリスクは昨年最後の八戦目の試合で左足に傷を受けましてまだ全治しておりません。今回の試合に出せるか、どうか、難しい状況でございます。私としてもフェリスクは大事な財産、宝でありますので、そのあたりをどうか、ご理解賜りたいのでございます」
「アスティナス、それは困るぞ。パプア市民の一番の楽しみはフェリスクの試合なんだ。
なにしろ八戦全勝の端麗者、フェリスクの噂がパプアにも届いているぞ。美貌の持ち主にして、技が綺麗だ、すっきりと技が決まる。特に娘たちだけでなく、ご夫人の方々にも大変な人気なのだ。パプア市民は皆フェリスクの闘技を楽しみにしているのだ。それはお前にも分かるだろう」
「ごもっともなことでございます。しかしフェリスクは左足の太ももの傷が全治しておりません。怪我がある以上、市民の皆様に満足していただけるような闘技ができるかどうか、心配でございます。どうか、お許し下さい」
「アスティナス、トラキアのフェリスクには出場してもらうから、そのように準備をしてくれ」
「クロディウス様、これまで五戦しまして、四勝一引き分けのセクトゥスを初め、ガリア戦の捕虜、ゲルマンの
大男は昨年ポンペイの闘技会でライオンと闘い、倒した強者でございます。きっと、パプアの市民にも楽しんで
もらえるものと思いますんで、ございます。フェリスクの出場はご勘弁願いたいのでございます」
「アスティナス、これは命令だ。パプア市民はフェリスクの出場を待っているのだ」
「クロディウス様、承知しました。それではフェリスク貸し出し料を倍にさせていただきます」
「フェリスクが負けて死ぬことがあっても、その闘技に市民が満足したら、倍の貸し出し料を支払ってやろう。抜け目ない奴だ。それで不満はないだろう」
闘技会提供者クロディウスは興行師(ラニスタ)アスティナスの話に理解を示すことはなかった。興行師(ラニスタ)アスティナスは元剣闘士だった。元剣闘士アスティナスは左目を槍で刺されても命乞いをすることもなく雄々しく闘い助命された。その後、クロディウスの援助を得て剣闘士養成、貸し出しの興行師になった。アスティナスは抵抗することを諦めてクロディウスに頭を下げ、剣闘士養成所にある宿泊所に戻った。
 翌日、猛獣を乗せた馬車が到着した。それらの馬車にはライオン、虎、熊が乗せられていた。暇を持て余した無産市民たちが猛獣を見ようと集まってきた。ライオンの檻より虎の檻のまわりに人垣が多かった。この虎に人間が食い殺されるのを想像し、身震いする女性がいる一方、一刻も早くそのシーンを想像し、目が輝く若い男たちがいた。熊は虎より大きかった。熊の体を覆う毛に刺されただけでも血が噴き出しそうな剛毛だ。熊の手で一叩きされたなら人間は一溜りもないだろう。目が淫乱に輝く市民がいる一方で熊の檻を見ては、悲しみに満ちたまなざしの粗末な服装をした市民もいた。

  2、殺さるる夢でも見むや石布團       村上鬼城

 翌日からいよいよ闘技が始まるという日の未明のことだった。幾分、肌寒さの残る夜明け前、白く霞んで見えるオリーブの林がぼんやり曇っている。アスティナス剣闘士団の元剣闘士出身の守衛が怒鳴っている。夢うつつの中でフェリスクはなぶりつけられたような声を聞いた。虚ろな意識の中でざわめく人々の声がする。途切れ、途切れに聞こえる。「死んでる」、「死にやがった」「ゲルマン野郎」、「自殺しやがった」。深い意識の底から湧き上がってくる怒鳴り声がフェリスクの意識を刺激した。フェリクスにとっては誰が死のうがどうでもいい事だった。春の夜明け前の睡眠を奪われた怒りが眠気を奪った。起き上がると隣に寝ていた相棒のユべェニスの様子にフェリクスは只事ならぬ事態を察した。ユベェニスは興奮している。
「フェリクス、明日出場予定の心の冷えた野獣のような面構えのゲルマン野郎が死んだ。自殺のようだ。ガリア戦の捕虜として見世物になったあのゲルマン野郎だよ」
「ユベェニス、どこで自殺を図ったんだ」
「捕虜のゲルマン野郎が一人になれる場所は便所しかないだろう」
「どうやって自殺したんだ」
「衣服の布を裂き、糞便を流す棒にその布を巻き付け、その棒を喉の奥に差し込み命を絶った。よくやったもんだ」
 このユベェニスの言葉を聞いたフェリクスは眠気が去っていくのを感じた。寝床で寝ぼけ眼のまま黙って思いにふけった。明日、大男のゲルマン野郎の代わりに捕虜の一人が熊に食われることになるのだろう。そんなことはどうでもいい。糞にまみれて死んだ痛ましさを感じた。ゲルマン野郎はもっと別な死に方は無かったのか。彼奴なら逃げ出し絶壁の上から海に飛び込めたじゃないか。馬車の車に首を突っ込み絶命した剣闘士がいたという話を聞いたことがあるなぁー。台所の包丁を奪い、その包丁で自分の首を刺し死んだ剣闘士もいたな。なぜ便所で糞にまみれてゲルマン野郎は死んだのか、フェリスクは漠然と思い続けた。死に際の汚さに哀れを覚えた。
 闘技場への扉は剣闘士にとっても、罪人にとっても、捕虜にとっても地獄、死のアリーナへの扉である。すべての望みを奪う扉である。この扉を開けると絶望と死が待っている。
 捕虜のゲルマン野郎がナポリの死のアリーナで初めてライオンと立ち向かったとき、フェリクスは死のアリーナの控室の戸の隙間からゲルマンの大男とライオンとの闘技を見たことを思い出した。ゲルマン野郎は何の防具も身に着けていなかった。防具を身に着けることが許されなかったようだ。ただ一本の槍だけを持たされ、アリーナの真ん中に置かれていた。野郎は静かに身動きすることなく、体の力が抜けたままただぼうーっと立っているように見えた。ライオンに噛み殺される運命に心を奪われ、立っているだけの気力しか残っていないかのようだった。恐れをなして足が動かないように見えた。ナポリ市民は息をつめてライオンがアリーナに出てくるのを待っている。突然、一斉にラッパが鳴り響いた。吠えたてた。ギィー、扉が開く。ライオンの檻を積んだ馬車がアリーナに入ってきた。続いて水オルガンの音響が円形の死のアリーナに響く。厳かな雰囲気が観客に伝染していく。水オルガンの音に乗って観客たちの間から拍手が沸き起こり、徐々に喝采へと変わっていった。ライオンを積んだ馬車は円形の死のアリーナを一周した。ゲルマンの大男の正面に馬車がくるとゲルマンの大男から三十メートルぐらいの距離を取り、止まった。水オルガンの演奏が止み、静寂が死のアリーナの時間を止めた。ゲルマン野郎はただ一人、槍を手に静かに立っているだけだ。頭は上げているものの体からは力が抜け落ちている。ライオンに食われるのを待つ獲物のように見えた。ライオンが人間を食いちぎるのが今か、今かと観客は息を飲んでいた。
七日間もの間、餌を与えられていないライオンが檻から出された。ライオンは檻から出ると頭を回し、観客に向って吠えた。数歩、歩み獲物を見つけたライオンは走り出しゲルマン野郎に飛びかかろうとした。その瞬間だった。ライオンが一瞬怯み、目をつぶった。その一瞬をゲルマン野郎は捉えた。ライオンに向うゲルマン野郎は槍を両手で握り、ライオンの心臓を目指し走った。槍はライオンの心臓を貫いた。ライオンの血しぶきを浴びたゲルマン野郎はアリーナの真ん中に力が抜けたように呆然としていた。薄気味悪い数秒間だった。死のアリーナに大喝采が巻き起こった。ラッパが鳴り、水オルガンが吠えた。ゲルマン野郎は生き延びた。
気味悪いほど勇敢だったあのゲルマンの大男がなぜ今、糞にまみれて熊との闘いが予定された前日に自ら死を選んだのか。ライオンとの闘いに勝ったゲルマンの大男は熊との闘いにもきっと勝つだろう。それなのに自死した。なぜなのか、フェリスクには分からなかった。
闘うとき以外一切の武器をそばに置くことが許されない剣闘士や罪人、捕虜は小さな部屋に一人、もしくは二人が閉じ込められ、便所にいく以外の一切の自由がない。ゲルマン野郎は便所で思う存分糞を垂れた喜びを味わった。生きている喜びと満足を味わった。生きる歓びと満足を得たのだろう。熊との闘いには勝つ自信は持っていたに違いない。しかし死のアリーナから逃れられる望みはない。次には凶暴な虎との闘いが待っているだろう。残酷なことを好む市民たちは罪人や捕虜が猛獣に食い殺される見世物を待ち望んでいる。生き延びる術はない。いつかは食い殺されるのだ。生きることができないと悟ったとき、生きることを拒んだのだ。自殺とは気高い行為だとフェリスクは気付いた。興行師に損害を与え、捕虜の死の見世物を喜ぶ市民たちに見世物になることを拒絶した気高い行為だ。このことにフェリスクは思いをはせ、鬱々した気分を払拭したとき、ユベェニスに話しかけられた。
「フェリスク、何を考えていたのだ」
「うん、ちょっとな。ゲルマン野郎の死にざまについて思っていた」
「糞にまみれて死ぬことはなかったんじゃないか、そんなことを思っていたのか」
「まぁーな。ユベェニス、そろそろ朝飯の時間だな。アスティナスの奴、どんな罰を我々に与えるつもりかな」
「守衛の奴等はわが罪を我々になすりつけ、罰を負わせるつもりだろう」
「確かに、そうかもしれんな。興行師にとって、捕虜の死は損害に違いない。いや、犯罪ですらある。事前に自殺を阻止できなかった守衛たちは頭首からの罰を恐れ、何と弁解したのかな」
 自殺は興行師に大きな損害を与える犯罪であった。守衛は二四時間剣闘士を見張っている。その隙をつく出来事だった。
 フェリスクは起き上がり、身支度をした。水場にいき、顔を洗った。ユベェニスは独りですでに食堂に向っていた。フェリスクも少し遅れ薄暗い食堂に入った。大麦の粥を盛った椀を渡され席についた。家畜が食う大麦の粥をフェリスクはまずいと思ったことがない。子供のころから食べなれていた。フェリスクはトラキアの遊牧民だった。ギリシア人が常食にしていた大麦の粥をトラキアの遊牧民もギリシア人をまねて常食にするようになっていたからである。ホルデアリウス(大麦食い)とローマ市民が貧しいものを軽蔑していう大麦の粥は、ローマ市民たちが決して食べないものだとフェリスクは聞いていたが、大麦の粥に不満を持ったことはなかった。左足の傷の治療をしてくれた医者が教えてくれた。大麦の粥は力と健康をもたらすと。木の椅子がギシギシなった。薬味と塩の入ったオリーブ油を大麦の粥に入れた。生野菜にオリーブ油をまぶした。焼いた羊の肉が出た。闘技の始まりを告げる食事だった。普段、朝食に焼肉がでることはなかった。ユベェニスの隣に座ったフェリスクは押し黙ったままだった。これからどのような罰が与えられるのか、神経が高ぶってくる。他の剣闘士たちの緊張が伝わってくる。食事も喉を通らない捕虜たちの姿が目についたが、何事もなく朝食は終わった。
 広場に出ると各剣闘士たちはすでに各自が体を動かし、手足を伸ばしていた。準備運動は心の穢れを流してくれる。フェリスクもまた大きく深呼吸をしてから腰を回し、腕や足の筋肉の調子をみた。特に左足を動かし、具合をみた。太ももの傷の痛みはほとんど無くなってきてはいたが、踏ん張る力がでないことに焦りを覚えた。強面の訓練士が出て来ると「集合」と号令をかけた。いよいよ罰が言い渡されるのか。
「今朝、あのデブのゲルマン野郎が死におった。頭首アスティナス様はお困りだ。頭首様を困らせてお前たちにいいことはないぞ。分かったか。分かったら、なおいっそう訓練に励み、勤め上げれば木剣の栄誉にあずかれるぞ」
 フェリスクは訓練士の話に安堵すると同時に白々しい思いをした。剣闘士たちにとって、日常生活に良いことなんて何もない。訓練士の話が空々しい。剣闘士たちへの罰がなかったことに安心するというより意外な気持ちだった。そうだ。明日から闘技が始まるのだ。我々剣闘士に罰を与える時間的余裕がないのだ。フェリスクは一人、ニヤリとした。医者にまだ闘技は無理だと言われている。俺の出場はない。こう思うと気楽に訓練ができた。この気楽な気持ちに「木剣の栄誉」という言葉が入り込んできた。解放奴隷。興行師になったアスティナスは十八戦し、十六勝、二引き分けの戦績を得て、クロディウスの支援を得て剣闘士の興行師になった。そんな幸運は万に一つの事であるに違いない。生きて闘技場から出られるものは百人に一人もいない。闘技を勝ち抜き、剣闘士奴隷から解放され、「木剣の栄誉」を得て剣闘士養成所の守衛か、それとも訓練士か、有力な支援者を得られれば、解放奴隷興行師(ラニスタ)アスティナスのような存在になれるかもしれない。しかし興行師になれたとしても剣闘士興行はローマ市民たちに見世物を提供する奴隷的存在であることには変わらない。解放奴隷興行師(ラニスタ)アスティナスを見ていてフェリスクは感じていた。
 フェリスクは本格的な訓練をすべく、トラキア風防具、鱗状の金属製カタピラの付いたものを右腕に、脛にも金属製の防具を付け、重い木剣を持った。腹、胸に付ける防具はなかった。裸足のまま、広場の砂の上で木剣の素振りを左手が動かなくなるまでした。左手が動かなくなると鉄の防具を付けた重い右手で重い木剣を持ち、動かなくなるまで素振りした。足の運びを練習した。
 陽が広場の中天に来たとき、剣闘士上がりの訓練士が広場に出てきた。魚人(ムル)剣(ミッ)闘士(ロ)だった訓練士だ。
「フェリスク、傷の具合はどうだ」
「痛みはなくなりました」
「そうか、模擬戦をやってみろ」
 フェリスクは嫌な予感が胸に広がった。やむなく模擬戦をすることになった。相手はすでに広場の中央に出てきていた。魚人(ムル)剣(ミッ)闘士(ロ)だった。フェリスクは背に陽光を受け、有利な位置を意識した。魚人(ムル)剣(ミッ)闘士(ロ)は口元に笑みを浮かべ、フェリスクを睨んでいた。フェリスクが睨み返すと魚人(ムル)剣(ミッ)闘士(ロ)の口元に不敵な笑いが浮かんだ。フェリスクは挑発されることなく盾を持ち、剣を構えた。フェリスクは自分の動きが相手に読まれていないと思い、軽く一撃を与えた。魚人(ムル)剣(ミッ)闘士(ロ)は盾をずらしただけで一突き反撃してきた。ずしりとした重みが盾に食い込んできた。右足を踏み出し、反撃しようとした瞬間、前回の闘技で傷を受けた左足に痛みが走った。その痛みに耐え、一撃を与えたが、魚人(ムル)剣(ミッ)闘士(ロ)は盾で受けるかのようにしてするりと体をかわした。全身の力と気力を振り絞り、小刻みに動き、攻勢にでた。気付くと魚人(ムル)剣(ミッ)闘士(ロ)の背に陽光が当たり、姿が黒く見える。目の動きが分からない。足運びの方向が読めない。不利を悟った一瞬だった。魚人(ムル)剣(ミッ)闘士(ロ)の大振りの一撃に盾で受け止めることができず、後ろにひっくり返されてしまった。広場に倒されたフェリスクの上に魚人(ムル)剣(ミッ)闘士(ロ)の顔が睨みつけていた。訓練士が急いで間に入った。
「フェリスク、お前の負けだ。魚人(ムル)剣(ミッ)闘士(ロ)、ご苦労だった」
 魚人(ムル)剣(ミッ)闘士(ロ)は広場から引き揚げて行った。
「フェリスク、敗因はなんだ」
 訓練士がフェリスクに問いただした。間抜けな回答をすると鞭が飛んできそうな気配だった。
「小刻みに動き回り、陽光を真に受けてしまったため、相手の動きが読めなくなってしまった」
「そうだ、あまりにも動きすぎ、相手の動きの意図を見失ってしまったからだ。足の運びは爪先を少し浮かせ、踵を強く踏め、動きの歩幅に大小はあってもその速さは一定していなければだめだ。片足だけ動かすような動きをしてはだめだ。それは敵に隙を与えてしまう。左足の傷に心を奪われると動きが鈍るぞ」
 訓練士の言葉を聞きながらフェリスクは嫌な予感が的中したと感じた。黙っていると訓練士の言葉はなおも続いた。
「フェリスク、もう一つ言っておこう。対戦相手の武器だけに心を奪われるな。視野を大きく、広くしろ。そうしなければ相手の動きが見えてこないぞ。心で相手の動きを見るんだ。肉眼ではゆったり見るぐらいでいい。遠くのところを近くに見るように、近くのところを遠くにみるように。目玉を動かさずに相手の両手、両足を見るよう心掛けろ。どのような状況にあっても目付きが変わらないように冷静でいられるよう心掛けろ」
訓練士の訓戒を聞き終え、宿泊所に戻ると守衛が来た。
「フェリスク、頭首がお呼びだ」
守衛に付き添われ、頭首アスティナスの部屋に入った。
「フェリスク、四月二日の第三戦に出場することになった。分かったか。準備をしておけ」
 頭首アスティナスはフェリスクに命令すると同時に出て行けと手で合図をした。
 ※
3、冬蜂の死にどころなく歩きけり  村上鬼城
 
 明日の命がない剣闘士になってフェリスクは三年目を迎えていた。今、生きていることが奇跡だった。今日という日があるのがフェリスクにとって奇跡だった。フェリスクは剣闘士の生活に慣れることはなかった。いつ死んでもいいという心境にはなれない。この世に未練があるわけではないが、腹が減る。喉が渇く。性欲が疼く。体が生きることを強制する。同じ剣闘士団の者と共に闘技の見世物となり、殺し合わねばならない宿命を受け入れられない。殺し合う見世物になるのに慣れることはない。三年の月日を生き延び、闘技に勝ち、止めを刺したことがあった。勝ち誇り無表情に敗者の首を切った後味の悪さにムカつかないときはなかった。無表情な人間でなければ止めは刺せない。だが無表情な人間になれない。生きることを懇願し、声もなく涙がこぼれる顔を見ながら首に剣を当てる。生きることに無関心になり、生きることへの執着がなくなれば無表情な人間になれるのかもしれない。死のアリーナに生きることは死の隣に生きることであった。生への執着を強制的に奪う所だった。
フェリスクはトラキアの平原で羊の遊牧をしていた。家族と共に働くことが楽しかった。食べる歓びと、妻と寝る歓びがあった。ローマ軍がトラキアの金鉱を奪いに来た。フェリスクは率先してローマ軍と戦い、捕虜になってしまった。家族と永久に引き離されてしまった。殺されるものと観念したが殺されなかった。逃亡の危険を防ぐため、焼鏝(やきごて)を当てられ金鉱での強制労働を強いられた。金鉱から掘り出された岩石の塊を奴隷たちが運び出してくる。よろける奴隷に監督官が鞭打つ。鞭打たれた奴隷を見て、監督官に怒りと燃えるような敵意を表した奴隷・フェリスクに目を止めた片目の男がいた。その男が金鉱に剣闘士探しに来た興行師(ラニスタ)アスティナスである。彼はフェリスクに目を止めた。フェリスクの敏捷な身のこなしと筋肉の柔らかさ、監督官への燃えるような敵意、これこそが剣闘士の魂だと興行師(ラニスタ)アスティナスは見て取ったのである。フェリスクはローマ派遣軍から興行師(ラニスタ)アスティナスに売りとばされた。剣闘士養成所では鞭に打たれ、闘技の技を仕込まれた。どうにでもなれという気持ちに落ち込むと鞭打たれる。鞭打つ者への怒りと敵意が生きる気力を生んだ。獰猛な生命力が体に漲った。血を見ると奮い立つ剣闘士になった。気が付くと一人前の剣闘士になっていた。初めて闘技に出たときのことが忘れられない。
死のアリーナ入口に近い控えの間で待機していると、死の恐怖と不安が襲い掛かってくる。その苦しみに耐え、じっとさせられている。盾も剣も持たされず、防具も着けることが許されずにいる。同じ剣闘士団の対戦相手の姿を認めると体が小刻みに震えていた。その緊張感がフェリスクの心を波立たせる。緊張が絶頂に至ったとき、地獄への扉が開いた。死のアリーナは青空の下、きらびやかに装われている。そこは死の恐怖と不安に慄く剣闘士の地獄であった。剣闘士は素顔を観客に晒す。心が死に動物になっていく自分をフェリスクは感じた。観客は一段高い所から死への入場行進を楽しげに眺めている。闘技場の周囲を回ると手を振り花束をアリーナに投げ入れる娘たちがいる。耳をつんざく歓声が自分とは何の関係もない遠い世界の出来事のよう感じられる。それでも胸を張り虚ろに行進する。フェリスクと対戦相手が並んで先頭に立ち、出場する剣闘士たちが勢揃いして行進する。その後ろには大きな斧を持った二人の先導吏が控え、楽士たちが続く。喇叭を吹き、角笛を吹く。貴賓席の上では水オルガンの重奏な音のリズムが行進する者の歩調を整える。行進隊の後には神々の彫像を掲げた者が続く。死ぬ者の魂を鎮めると同時に観客の心を清め、人の殺し合いという見世物を浄化する行進でもある。
死のアリーナを一周する行進が終わると一旦アリーナから退場し、剣闘士たちは防具を身に着け、盾と木剣を持たされ、アリーナに出される。喇叭が吠え、水オルガンの重低音に合わせて死闘の真似事をする。剣闘士の華麗な演技に観客の興奮の波が徐々に絶頂に向かう。観客の興奮は闘う者の体をほぐす。剣闘士に闘う気力を生みだす。闘う気持ちを燃え上がらせる。晒し者になっている剣闘士たちは自分を失う。
本物の刀剣を捧げた者がアリーナに出て来る。一緒に連れられてきた羊の首をアリーナの真ん中で興行師(ラニスタ)アスティナスが切り落とすと、「おーっ」、観客たちの声が響いた。羊の首から血がほとばしる。刀剣が鋭く砥ぎすまされていることを観客に分かってもらう。馬に乗った剣闘士が登場、剣を振り回し、闘技場狭しと疾走する。音楽が鳴り、死のアリーナは興奮の坩堝となる。その中で剣闘士たちは控えの間に退場した。
フェリスクは技量を磨き、体力を鍛え上げ、気力が充実していた。がしかし、心の中は虚ろだった。対戦相手が同じ剣闘士団の仲間だった。どんなに憎もうとしても憎むことができない。トラキア兵としてローマ軍と戦ったときの高揚した戦意が湧いてこない。こんな気持ちに駆られると恐怖と不安が襲ってくる。不安が高まり、頂点に達すると不思議なことに命を失う恐怖感が失われていく。観客が見えなくなった。見世物であることを忘れる。勝つ。勝ってやる。動物的本能が躍動する。フェリスクは闘志が湧いてきたことを覚えた。観客は派手な演出に目を奪われて興奮している。フェリスクはここにいる自分は自分ではないという錯覚に襲われた。控えの間では悶々とした思いに苦しんだことが嘘のように無くなっていた。対戦相手は追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)だ。自分より若い。しかし実戦経験者だ。観客の派手な声援に載せられ、相手は初陣者だと追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)はフェリスクを見くびり華麗な技でがむしゃらに攻め、観客の気を引くようなことをしてくるだろう。この攻撃に載せられてはならない。静かに柔らかに応戦しよう。渾身の力まかせの攻撃をしてくる者には力を抜き、冷静に振舞おう。
突然、死へのアリーナの扉が開いた。呼び出し係に連れ出され、光あふれる死のアリーナにフェリスクと追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)は出された。陽がまぶしく、瞼が開けられない。薄目を開け、進み行くと微かに香水の香りが漂ってくる。その方向を見ると何人もの夫人方が派手に着飾って微笑んでいる。女性の姿がフェリスクの心に生き生きした感情を湧き起こさせた。あの夫人方の喝采を得てやる。慰み者でしかないことを忘れた一瞬であった。楽士たちの奏でる曲は軽快に早いテンポで重量感のある音色を轟かしている。進行役がフェリスクと追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)を紹介する。トラキア剣闘士フェリスク、初陣。追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)は一戦一引き分け。観客の声援に進行役の声がかき消されていく。水オルガンの音楽が葬礼を思わせるような調べに聞こえる。
ゆったりした上衣(トゥニカ)を着た審判が補佐を連れて現れた。細棒で地面の上に白い線を引いた。始めの合図があるまでこの白い線から出てはいけない。先ほど羊の首を切り落とした剣が綺麗に拭き清められていた。鋭く尖った先端が光る剣を渡され、手にすると恐怖が消えて行く。型通りの見栄をはる剣舞をする。貴賓席の中央に向い、フェリスクと追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)は宣誓する。
「興行主様、万歳。護民官、万歳。ローマ帝国、万歳。われわれ死に行く者が最後の挨拶を申し上げます」
対戦相手、追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)に向かう。興行主が闘技始めの合図を出した。気が付くとフェリスクの左前上方に太陽がある。フェリスクは位置の不利を自覚した。追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)の両手が黒い影に隠れて見えない。小さな盾に隠れた右手の短い剣がどこから飛び出してくるのか、分からない。手の動きが暗い闇だ。不安が走る。攻撃できない焦りに汗が噴き出る。追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)が右に少し動いた。太陽がその真後ろにきた。人影に剣が隠れた。その一瞬だった。いきなり黒い人影が近づき、剣先がキラリとした。盾で全身を覆うようにして剣を受け止めた。重い一撃だ。フェリスクは右に素早く回り込んだ。その動きに隙ありとみたのか、さらなる一撃を受けた。盾でどうにか受け止めることができた。フェリスクの思惑を相手は読んでいたのだ。あくまでも相手は太陽を背に負うつもりなのだ。フェリスクの盾は大きい。防戦には長けている、が重い。盾での防戦が重なると左腕がひどく疲れる。その疲れを相手は待っているのだとフェリスクは気付いた。右に回り込み、太陽を背に負う位置を確保せねばならない。相手はそれを許さじと派手な攻撃を繰り返す。フェリスクはまだ一度も反撃するチャンスを捕まえることができない。相手は呼吸を整えた。攻撃が一瞬止まった。その瞬間をフェリスクは逃がさなかった。右に回り込んだのだ。太陽が相手の背後から去り、追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)の全身がはっきり見えた。恐怖感が去り、闘志が漲ってくる。相手は攻撃をやめることはなかったが手の動き、足運びがはっきり分かる。相手は盾の下から剣を突き出し、足を狙ってくる。フェリスクはそれを盾で軽く左、右とかわしていると相手はフェリスクの盾めがけて突進するように剣を突き出してきた。それを撥ね退け、初めて一撃を与えた。相手は盾で受け止めたが、よろよろと後ろに退き、攻撃をためらい、にらみ合いが続いた。長い時間のように感じられたが一瞬のできごとであったに違いない。フェリスクは前に踏み出し、剣を突き出すふりをした。相手は体位を崩した。その瞬間だった。フェリスクは大きく頭めがけて剣を振り下ろした。甲高い喇叭が吠え、水オルガンが唸った。観客の狂ったような怒声が耳をつんざく。フェリスクの心の中には何の音も聞こえなかった。フェリスクの剣が追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)の兜を突き破っていた。追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)は二三歩退き、足を折って前につんのめったが、起き上がり、体勢を整えようとした。フェリスクは進み出て眼前に剣先を突き出した。追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)は観念したのか、盾を投げ捨てた。左手の親指を上げ、降参の意志を表し、兜を脱いだ。頭から出た血が顔中に流れていた。
観客からは怒声のような叫び声が上がった。その声は「許せ」なのか「殺せ」なのか、はっきりしなかった。やがてその声は「殺せ」「殺せ」と唱和していき、「殺せ」の大合唱へとなった。フェリスクの剣を持つ手は固まってしまい、振りほどくことができなかった。剣を持ったまま貴賓席の中央を見ると親指を上に突き出した手を真下にかざしながら、「喉を切り裂け」と叫ぶ興行主の声が聞こえた。フェリスクはザクリと心に刃を突き立てた。
よろよろ立っている追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)の顔には大粒の無言の涙が流れている。フェリスクは追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)の首を切り裂く一瞬に全身の力を注いだ。追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)の頭が前にがくっと落ち、血が吹き上がると、どっと追撃(セク)剣(ト)闘士(ル)は倒れた。無表情だったフェリスクの顔に影が射した。フェリスクの右手に残った感触にぞっとしながら同時に反吐が胸に込みあがってくると、同時に観客の中から喝采が起こった。喝采は死のアリーナに湧きかえった。
殺された者の哀しみも殺した者の惨めさも観客には何も伝わらない。動物としての剣闘士が殺されただけなのだ。敗者の硬直した体は勝者の心を硬直させる。観客は負けた剣闘士を嘲笑い、獰猛な動物としての剣闘士を讃え、楽しんだに過ぎない。誰にだって弱り切って生きている人を衆人環視の中で殺す。こんなことに慣れることはない。剣闘士の気持ちが観客に伝わることはない。黄泉の看守が出てきた。死者を担架に乗せると死の門を出て行った。

 4、春の野にとどろき渡る鬨の声  一道

四月二日、フェリスクの相棒、ユベェニスの闘技が実施される。
フェリスクにとってユベェニスは唯一の友だちだった。剣闘士たちは皆、孤独だった。剣闘士団ではいつ同僚が敵として現れ、死のアリーナで闘わせられるのか分からない。自分の得意技を剣闘士は皆隠している。知られることは死を意味した。剣闘士は仲間と口を利くことがない。情を感じることがない。誰に対しても殺意を発散する。恐怖と不安が支配する所、絶えず周りの者たちと威嚇し合う所が剣闘士団宿泊所であった。無口な剣闘士たちの中には殺意と恐怖が漂っている。
フェリスクとユベェニスとは同じ部屋に寝かされていた。ある晩のことであった。早く寝ていたユベェニスが寝言を言った。
「俺が死んだら、母さんは‐母さんは‐」
このユベェニスの寝言にフェリスクの心が動いた。ユベェニスはフェリスクと同じトラキア剣闘士だった。同じ防具と盾、同じ剣を持つ者同士の闘技を観客は好まなかった。ユベェニスが対戦相手にされる危険性は少ない。その安心感がフェリスクにユベェニスへの心を開いた。いつしかフェリスクにとってユベェニスは唯一の肉親、弟のような存在になった。気を許してふと心の内をもらすことがあった。対戦の前日の午前中の練習を終え宿舎に戻る途中、ユベェニスが気難しげな顔をしていた。
フェリスクはユベェニスに問うた。
「何か、あったのか」
「嬉しくない噂を聞いた」
「何だ」
「フェリスクも俺も負ける掛け率が高いということだ」
「もう市民たちには俺たちの対戦相手が誰か、知れているのか」
「そのようだ」
 剣闘士には生死を賭けた闘いであっても市民たちにはお金を賭ける娯楽でしかない。フェリスクは諦めたのか余裕なのか、分からい発言をした。
「アリーナに出れば、対戦相手が誰かが分かるよ。事前に分かったからといってどうなるものでもあるまい」
「そりゃそうだ。相手の手の内を教えてもらえるわけじゃないからな」
 宿舎に近づくと羊の肉を焼く匂いがしてきた。宿舎の入り口の脇の壁に興行師(ラニスタ)アスティナス剣闘士団出場者とそのパプア剣闘士団出場者の対戦相手が紹介されていた。ユベェニスの相手は投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)、フェリスクの対戦相手は重装(ホフロ)剣(マ)闘士(マスク)だった。
対戦前日の夕食には御馳走に彩られた酒宴がある。魚料理の皿がある。羊の肉料理が皿に山盛りになっている。死に臨む人間に食欲はない。食べ物の味が無い。だからビールを流し込む。ビールが胃を刺激する。ビールに飽きたらワインを手に取る。ワインの酸味が食欲を促す。酒が緊張した心をほぐし、我を忘れ、自分が無くなる。肉を焼く匂いに食欲が出る。薄く切られて炙られた鮪が美味しい。女が綺麗に見える。透き通るような女の嬌態に男の体が疼く。透けるトゥニカを羽織る女に男の体が燃える。
酒宴に招かれた女たちの嬌声が夜風に乗ってくる。ユベェニスに目を注ぐ女がいることにフェリスクは気付いた。薄いチュニックを着ている。パプア有力者夫人の一人だ。豊満な胸を強調し、にこやかに周りの者と談笑している。周りの女たちも追従の笑顔を向けている。下座の方に目を向けるとその中にもユベェニスに注目している女がいた。透けるトゥニカを羽織っている。落ちぶれた無産市民の女だ。今夜、闘技を前にしてユベェニスの命が燃え上がっている。チュニックを羽織った女は童顔の笑顔が可愛いユベェニスに今夜、奉仕させるのだろう。フェリスクは女を選べないユベェニスを思った。
パプア剣闘士団の方に目を向けるとユベェニスの対戦相手、投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)をフェリスクは見つけた。その食べる仕種を見つめた。身のこなしに癖を見つけるフェリスクの習性だった。その男は左手を伸ばし、その手で食べ物を口に運んでいる。ユベェニスの対戦相手投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)は左利きなのだ。ユベェニスに目配せをすると即座に事の次第が伝わった。ユベェニスが左利きの剣闘士と闘った話をフェリスクは聞いたことがない。ユベェニスの不利を思うと今まで食べた御馳走の味が失せていく。腹の中の異物感に苦しみ出した。ユベェニスと投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)との闘いに賭けるパプア市民は圧倒的に投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)である。パプア市民はすでに投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)が左利きであること、ユベェニスは左利きの剣闘士と闘った経験がないことを知っているのだ。体の中を冷たい風が吹いていくのをフェリスクは感じた。
この夜、フェリスクは一人寝間に帰った。しばらくするとチュニックを羽織った女が長い髪を垂らし、芳しい匂いと共に黙ってフェリスクの寝間に入ってきた。パプア上流夫人の一人だった。フェリスクを黙って見つめている。その眼差しには女神の輝きがあった。しばらくの間、時が止まったままだった。やがて彼女は手を差し伸べ、フェリスクの手を取るとその手を彼女の胸へといざない、肌を寄せてくる。唇でフェリスクの体を愛撫した。女から受ける快感にフェリスクの体は勃起し、心に安らぎが広がった。女の優しさがフェリスクの心の襞に沁み込んでいく。女はフェリスクの体を求めたがフェリスクは心に安らぎを得た。この夜、フェリスクは夢を見た。故郷、トラキアの平原で妻と共に羊の乳を搾っている。キュッキュッと羊の大きな乳首をしごく音がする。その音に目が覚めると女はいなかった。女がいつ部屋から出て行ったのか、気が付かなかった。
アスティナス剣闘士団の者たちと一緒にフェリスクが外に出ると小雨が途絶えそうに空に虹がかかっていた。朝方の虹は珍しい。フェリスクはこの虹がユベェニスに幸運をもたらしてくれることを祈った。死のアリーナのゲートをくぐると騒然とした観衆の声が聞こえてきた。控えの間に着くとユベェニスはすでに来ていた。昨夜は上流夫人宅で過ごしたことは分かっていた。ユベェニスは見張られながら武器の点検をしている。鋭く堅固な剣を見つけ、安心した様子だった。遠くから見ていてもピリピリした緊張が伝わってくる。話しかけられそうもない険しさだ。控えの間で出場を待つ時間の長さにこれから耐えられるか不安が過った。残酷な時間が遅々として進まない。ユベェニスより一回り大きい大男の投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)はひと際、目立っている。肩から胸にかけて筋肉が隆々と盛り上がっている。肌は戦車競走所を疾走する馬の褐色の肌を思わせた。悪漢に見えるこの巨漢とユベェニスはどう戦うのか、一瞬悪寒が走った。体を振るってユベェニスの勝利を祈った。
ユベェニスと大男の投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)が控えの間を並んで出て行った。投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)は何も防具を身に着けない。柄の長い三叉の鉾と投げ網を持つ。網を投げ、相手の動きを絡め捕り、鉾で刺し、命を奪うのだ。興行主への挨拶が型通り済むと審判が出て行った。いよいよユベェニスの闘いが始まった。
フェリスクは扉の隙間から息を詰めたままじっと闘技に見いった。大男の隣を歩くユベェニスの後姿に怯む影があるように感じたが、向かい合ったユベェニスの顔には宿命を受け入れた清々しさがあった。大丈夫だ。投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)はユベェニスを見くびっている。そこに隙がある。楽士の演奏が高鳴った。自分の闘技の時には感じられない緊張に唇が渇くのをフェリスクは初めて感じた。審判が闘いの合図をした。心臓が高鳴った。
左利きの投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)は右利きの剣闘士との闘技には慣れている。それを観客は知っている。観客はユベェニスが不利であるとみなしている。ユベェニスを応援する娘たちはいても観客の大半を占める男たちは圧倒的に投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)を応援している。
防具を着けていない投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)は身軽に間合いを計ってユベェニスの周りを動く。
「ユベェニス、太陽を背負え」
知らず間にフェリスクは大声を出していた。ユベェニスが陽を背負った一瞬を捉え、投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)に近づき、一撃を加えた。投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)は鉾で剣を払い、身をかわし、右に動いた。剣と鉾がすれ合う金属音が観衆の興奮を駆り立てた。
「ユベェニス、危険だ。右に回れ、早くしろ」
フェリスクは叫んでいた。ユベェニスが払われた剣を整えた一瞬であった。投げ網が飛んだ。投げられた網は大空いっぱいに広がったが、そこには捉える獲物はいなかった。ユベェニスは素早く右にかわしていた。
「そうだ。いいぞ」
フェリスクは心の中で言った。投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)は三叉の鉾で牽制し、網を拾いあげた。投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)は闘技に時間をかけ、重い防具と盾とを持っているユベェニスの疲労が溜まるのを待っているのだ。勝利の鍵はどれだけ投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)に近づけるかにあるのだ。
「間合いを計られ、疲れを見られたら負けだ。早く気付くことだ」
フェリスクは思った。ユベェニスにフェリスクの心が通じたのか、ユベェニスは盾を構え、盾の下から剣を出し、足を狙って投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)に突進した。ユベェニスの剣は投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)の足を払った。投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)の太ももから血が噴き出した。血に興奮した観客から歓声が上がった。血に興奮したのは観客だけではなかった。喇叭が唸った。投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)は血を出しながら痛みを感じないのか、興奮した面持ちで落ち着きはらい、ユベェニスの背に回った投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)はユベェニスの背に向けて網を放った。ユベェニスの兜を捉えた網を投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)が強く引くとユベェニスは死のアリーナの上に仰向けに倒されてしまった。投網(レーティ)剣(アー)闘士(リゥス)はユベェニスに近づき、腹を鉾で突いた。フェリスクは目を瞑った。血が腹から流れ出る中、ユベェニスは左手の親指を立て、負けの意思表示をした。審判が駆け寄り、二人の間に入った。審判は中央の貴賓席に向かい、伺いをたてた。
「殺してしまえ」、「殺してしまえ」
観客が合唱する。興行主クロディウスは厳かに右手の親指を下げた。
宿舎に帰ったその夜、また前日と同じような酒宴が開かれた。フェリスクは独り、ワインを煽った。女の誘いも退け、床についた。哀しみがあふれ、寝入ることができなかった。その夜、フェリスクは夢を見た。トラキアの草原に羊を追い、野イチゴを摘み、妻と一緒に野イチゴを食べている。遠くから聞こえてくる角笛の音が哀しみに満ちている。妻と一緒に涙を流し、羊を眺めている。いつしか羊を捕まえている妻がいる。冬の備えが始まっている。妻が抑えた羊にナイフを当て、羊の毛を刈っている。妻が羊に向かって微笑んでいる。虎の唸り声がする。フェリスクは目を覚ますと便所に向った。台所の脇を通ると仕舞い忘れた包丁が見えた。包丁の刃が月の光に光った。刃の光を見た瞬間、フェリスクの心が狂った。包丁を奪い、剣闘士の仲間たちに怒鳴った。
「逃げよう」、「殺し合いは嫌だ」、「故郷に帰ろう」「ベスビオ山に逃げよう」
フェリスクの呼びかけは闇にこだました。応える声はなかった。フェリスクは興行師(ラニスタ)アスティナスの部屋に向った。何事が起こったか。寝床から起き上がったアスティナスに突進したフェリスクは包丁をアスティナスの首に刺した。返り血を浴びたフェリスクに向って獰猛な叫び声が発しられたが何を言ったのか分からなかった。物音に驚いた守衛が駆けつけてきた。守衛に立ち向かったフェリスクにとって守衛は敵ではなかった。起き出してきた剣闘士たちはフェリスクの血を浴びた顔を見ると興奮し、一緒になって武器庫を破り、武器を携えて、ベスビオ山目指し、鬨の声を挙げ逃げ出した。

 参照文献 スパルタクスの蜂起 土井正興