醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 141号  聖海

2015-04-04 09:23:04 | 随筆・小説


   芭蕉は華厳の滝を見ていない

 芭蕉は日光東照宮を参拝している。だが東照宮陽明門などについては、一切何も書いていない。どうして芭蕉は日光東照宮を参拝しなかったのだろうか。答えは簡単だ。身分制社会にあっては農民や町人の参拝はできなかった。参道を眺めて終わりだった。それ以上のことを望まなかった。初めから不可能なことを人は望まないものだ。
 堀切実著「おくのほそ道」《日光》の部分を読み、芭蕉は東照宮の森に参って満足したのだと理解した。東照宮の森の中で感動した句が「あらたうと青葉若葉の日の光」である。この句が日光東照宮を荘厳すると同時に表現している。東照宮という建物群によって日光の自然が荘厳なものになっている。芭蕉が目にすることのできない東照宮について感じたことはこの荘厳さなのだ。細かなことはすべて省略し、そこは読者の想像力に任せている。
 また今ではほとんどの観光客が訪れることのない「裏見の滝」を見て、「暫時(しばらく)は瀧に籠るや夏(げ)の初(はじめ)」と詠んでいるが華厳の滝までは足をのばしていない。なぜなのか。何冊かの芭蕉学者たちの著書を読み、私なりの仮説をえた。「奥の細道」とは何の旅だったのかということに尽きる。ここに解答がある。「奥の細道」は歌枕を訪ねる旅だった。「華厳の滝」は歌枕ではない。そのため「華厳の滝」は芭蕉の興味・関心をひくことがなかったからではないか。これが私の得た仮説・解答である。
 ちなみに華厳の滝を詠んだ和歌はないかとインターネットで調べてみたが見つからなかった。
 華厳の滝を始めて発見した人は日光開山の祖、勝道上人である。命名者も勝道上人のようである。由来は華厳経からとられた。奈良東大寺の宗派が華厳宗である。華厳経が説く仏がいわゆる大仏・毘盧遮那仏である。奈良天平時代、聖武天皇の帰依した仏教が華厳宗、この華厳の教えが支配的あったがゆえに「華厳の滝」と命名された。勝道上人は八世紀後半から九世紀初めころに山岳修行を説く密教に帰依し、下野薬師寺で得度した僧侶である。滝に打たれる修行の場にならないかと見つけたにちがいない。しかし滝に打たれる修行など絶対に不可能なことを悟ったであろう。険阻な山道を一歩一歩上り、木につかまって降りて初めて眺められる華厳の滝、こうしてまで和歌を詠んだ古人はいない。芭蕉が崇めた古人は宗祇であり、西行であった。彼らは華厳の滝を詠んでいない。華厳とは菩薩の徳を華とたとえたことのようだ。大量の川水が一気に百メートル近く落下する水しぶきを荘厳な華と感じたからではなのだ。
 明治三十六年、一高学生藤村操が華厳の滝から飛び降り自殺をした。このことから華厳の滝が自殺の名所となり、昭和の初めに滝壺近くに下りるエレベーターが設置されてから観光名所となった。
 現代の私たちにとって、華厳の滝は大変な観光の名所であっても、元禄時代にはほとんど知られることの無かった瀑布であったのであろう。また華厳の滝にいたる道も無かったのかもしれない。当時、裏見の滝から華厳の滝まで日帰りできる距離でもなかった。中禅寺湖畔には宿泊できるような所もなかったに違いない。そこは山伏たちの修行の世界であった。