人を想うことが生きること
映画「いつか読書する日」。見て来たよ。居酒屋「此処」に入ってくるなり、玄ちゃんは言った。
「えっ、東京まで見に行って来たの」
「そうよ。映画のためだったら、どこまでだって行くよ」
「そんなに映画が好きなの」
「好きだね。子供の頃からずっと好きだった。唯一の娯楽だったからなぁー。今でもただ一つの娯楽かな。女房は死んじゃったし。子供はいないしね。テレビで見る映画と映画館で見る映画は違うからな」
「どこが違うの」
「感じないかな。映画館で見る映画は一人で見る映画じゃないんだ。見ず知らずの他人であっても一緒に同じ映画を見ているという相通じ合う気持ちがあるように感じるんだ」
「うーん。なんでまたわざわざ東京まで映画を見に行ったの」
「新聞で批評を読み、行く気になったんだ」
「初老を迎えた独身女性の恋というのに興味を持ったのかな。玄ちゃんも初老の独身男だからなぁー」
「うん。まぁー、そんなところかな。映画館に入ってなるほどと思ったよ。ばぁーさんが多かったな。ジジーもいるにはいたが、少なかった。俺なんか若い方だったよ」
「若者は一人もいなかったの」
「一人もいなかったな。五十女の恋物語じゃ、若者は見ないだろうな」
「映画、いつか読書する日、感じるものが何か、あった」
「人を想うことが生きること、という言葉が印象に残ったと批評に書いてあったのでこの映画を見に行ったようなものなんだ。俺にも身に沁みる言葉になったね」
「玄ちゃんも奥さんをなくしているからな」
「うん。女房に死なれて寂しくもあるからな。再婚する気はないんだ。死んだ女房と同じような生活ができるわけないと思うからなんだけれどな。今、俺が生きることは此処で酒を飲むこと、たまに映画を見に行くこと、大衆小説を読むことかな」
「映画、いつか読書する日、とはそういうような映画なの」
「そうだと思う。映画の主人公の五十代の女性は俺と違って『カラマーゾフの兄弟』を読み、涙を流したりする。俺はドストエフスキーなんか、一冊も読んだことないよ。長くって、難しそうで読めないよ。俺は梁石日(ヤンソギル)や船戸与一の小説で充分だよ」
「ドストエフスキー、我々が若かった頃、みんな読んでいるような顔をしていたな。でも、未だに俺は読んでいないよ。若い頃、読もうと思って取り組んだことが何回かあるんだけれども読み通すことができなかった。玄ちゃんにもそんな経験があったんだ」
「そりゃ、そうよ。俺は文学青年のつもりだったからな。今だに俺は文学青年のつもりだよ。心はね」
「孤独な人の生きる道は読書なのかな」
「読書すると寂しくないもの」
「そうだな。酒より安いし、いいよ」