世にふるも更に宗祇のやどりかな ○桃青 『芭蕉俳文集 下』堀切 実編注 岩波文庫
この句には俳文がある。「かさの記」と題したものである。
秋の風さびしき折々、妙観が刀をかり、竹とりのたくみを得て、たけをさき、たけをたはめて、みづからかさ作りの翁と名いふ。たくみつたなければ、日をつくしてならず、こころ静(しづか)ならざれば、日をふるにものうし。朝(あした)に紙をしたためて、かわくをまちて夕べにかさぬ。しぶをもてそそぎて、いろをそめ、うるしをほどこして、かたからむ事をようす。はつか過ぐる程にこそ、ややいできにけれ。かさのはのななめに、荷葉(かえふ)のなかば開らけたるににたるもおかしきすがたなりけり。なかなかに規矩(きく)のいみじきより、猶愛すべし。かの西行の侘笠か、坡翁(はをう)雲天の笠か。呉天の雪に杖をや曳かん、宮城野の露にやぬれむと霰(あられ)に急ぎ、時雨を待ちて、そぞろにめでて殊に興ず。興のうちにしてにはかに感ずるものあり。ふたたび宋祇の時雨にたもとをうるほして、みずから笠のうらに書き付けはべりけらし。天和2年(1682) 芭蕉39歳
秋風が寂しく吹いている折々、普段用いている刀を仏師・名工の妙観の刀を借りたつもりになって、竹藪に入り、竹を切り、竹を裂き、竹を曲げ、自ら笠作りの職人だと言い聞かせる。技が劣っているなら時間をかけても笠にはならない。心が騒ぎ、時が過ぎていくのが物憂い。朝、紙を用意し、濡れた紙が乾くのを待って夕方には紙を重ねる。柿渋を紙に塗り、漆を塗る。20日もたてば、やや出来上がる。傘の端は蓮の花が半ば開いているように見える姿におかしさを感じる。なかなか上手にできた。これは西行の侘笠か、蘇東坡の傘か、呉天・異郷の地を旅する杖にもなろう。宮城野の露を防ぐ笠にもなろう。霰が降ってきたら、この笠をさそう。時雨を待ってこの傘をさそう。面白がってこの出来上がった傘を見ていると宗祇が詠んだ時雨の歌の気持ちになって笠の浦に「世にふるも更に宗祇のやどり哉」と書きつけた。
深川芭蕉庵に隠棲した芭蕉は暇に任せて傘を作っては楽しんでいた。芭蕉は俳句ばかりでなく、土木事業や竹細工、調理など器用な人だった。生活力旺盛な人だった。身の周りの日常生活に必要なものを自分で作ることができる人だった。一人住まいはきっと忙しい生活だったのだろう。と同時に西行や宗祇の歌や句に親しむ文人でもあった。
「世にふる」。いい言葉だ。「花の色は移りにけりないたづらに我が身よにふるながめせしまに」。小野小町は若かった頃を思い出し、皆からチヤホヤされていい気持ちになっていた。気が付いて見てびっくりした。こんな歳になっていたなんて。「我が身よにふる」と老いた自分の半生を想った。思えば一瞬の出来事だった。我が身は世に降ったのだ。降っている間、世間は注目するが止めば一顧だにしてくれない。
「世にふるは苦しきものを槙の屋に易くも過ぐる初時雨」。二条院讃岐は「世にふるは苦しきものを」と詠んでいる。世を経ることの苦しさは初時雨に会うようなものだ。一瞬のこと。くよくよすることはないよ。
「世にふるも更に時雨のやどりかな」。生きていくというのは時雨の宿りのようなものだなぁー。宗祇は詠んでいる。そうだ。私も宗祇の気持ちになって生きていこう。「世にふるも更に宗祇のやどりかな」。芭蕉は宗祇の心の世界に飛び込んで生きていこうと句を詠んだ。
芭蕉忌を時雨忌という。はかない人生、定めなき人生、移り行く無常の世を表現しているものが時雨なのであろう。この流行する世に不易なものを探ったのが芭蕉である。
楠の根をしづかにぬらす時雨かな 蕪村
蕪村になると「時雨」には芭蕉が詠んだような世界はない。