櫓声(ろせい)波を打(うつ)てはらわた氷る夜や涙 天和元年(1681) 芭蕉38歳
深川の草庵に隠棲して一年目を迎えた頃の句である。この句の前に「乞食の翁」という句文を載せ上記の句の他に3句詠んでいる。
窓含西嶺千秋雪(まどにはふくむせいれいせんしゆうのゆき)
門泊東海万里舟(もんにははくすとうかいばんりのふね)
我其句を識(しり)て、その心ヲ見ず。その侘(わび)をはかりて、其楽(そのたのしみ)をしらず。唯、老杜(ろうと)にまされる物は、独(ひとり)多病のみ。閑素茅舎の芭蕉にかくれて、自(みづから)乞食の翁とよぶ。
長江上流に四川盆地がある。三国時代、蜀の都であった成都に杜甫の庵があった。西の窓からは万年雪を湛えた山々が見える。門前には長江を下って呉の国へと旅立つ船が泊まっている。芭蕉は深川の庵を成都にあった杜甫の庵に例えて、西に富士山を望み、目前の隅田川を航行する舟を見る。杜甫の詩を知ってはいるが、その心まではわからない。杜甫の貧しい生活は推し量ることはできるが、その楽しみを推し量ることができない。ただ私が杜甫に優るものといえば、多くの病を抱えていることだ。簡素で質素な芭蕉庵に隠棲し、門人たちからの施しで生きている。
冬の夜、小名木川を行く舟の櫓を漕ぐ浪音が聞える。腸ので凍るような寒さに震え、涙がとまらない。こんな生活のどこに楽しみがあるのか。この厳しい生活の中に生きる歓びを見つけようと芭蕉は必死になっていた。
貧山(ひんざん)の釜(かま)霜に鳴(なる)声寒シ
霜の降る夜、中国豊山の鐘は鳴ったと言うが貧山、芭蕉庵では霜で釜の音が鳴る。その音のなんと寒々しいことか。乏しい米、暖かな夜着がない。寒さと空腹に耐える生活のどこに楽しみがあるのか。この否定的な現実を肯定的なものとして受け入れるために芭蕉は必死になって句を詠んでいる。句を詠んだところで空腹が満たされるわけではない。体が温まるわけでもない。句を詠むと心が満たされる。
氷にがく偃鼠(えんそ)が咽(のど)をうるほせり
買水(みずをかふ)と前書きして、この句を芭蕉は詠んでいる。当時、深川には飲み水がなかった。江東区はゼロメートル地帯だった。井戸を掘っても塩水が出たのかもしれない。舟で飲み水を売りに来た。冬、買い置きの飲み水には氷が張っていた。氷を割り、咽を潤した水はほろ苦い。ドブネズミのような存在である私にはほろ苦い水で咽を潤す嬉しさがある。酒好きだった芭蕉は前夜、深酒をしたのかもしれない。苦い水が美味しかったのかもしれない。貧しく寒い日々であってもその中に足ることを覚えて行った。
暮々(くれくれ)てもちを小玉(こだま)の侘寝(わびね)哉
年の瀬が迫ってきた。賑やかな川向うから餅つきの音がこだまとなって聞こえてくる。たった一人の侘び住い。蒸篭から湯気が上がる。家族総出で餅つきをしている。そんな風景を心に浮かべ、芭蕉庵で独り侘びて寝ている自分を意識している。今から300年前の江戸の下町には都会の孤独があった。故郷に生きる場所が無くなった若者が生活の糧を求めて江戸に出てきた。農家の次男坊であった芭蕉は職を求めて江戸に出てきた。江戸はまだまだ新開地だった。仕事があった。芭蕉は俳諧師としての職を確保したが、空腹と寒さと孤独と闘っていた。その中で芭蕉の句は紡ぎだされていった。