醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 142号  聖海

2015-04-05 12:19:35 | 随筆・小説

    集団就職の少年が和菓子屋さんに

 長崎から名古屋に集団就職した少年は成人になったときに一念発起して一人、東京に出てきた。和菓子職人を目指して住み込み徒弟奉公をした。五年間奉公した。それから一年間、お礼奉公をした。古い職人の「しきたり」をした最後の世代だとSさんは言う。居酒屋のカウンターで酒を飲んでいるとSさんは名刺を差し出した。白い前掛けを着けていた。四十代半ばぐらいの若々しい感じのする職人さんだった。
 私の故郷は長崎・島原なんです。そこで十五まで育ちました。雲仙普賢岳が噴火したことを覚えていますか。溶岩は島原の方に流れたんです。私の故郷は同じ島原でも普賢岳の東側にある島原とは反対側の千々石(ちぢわ)という所なんです。
 天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)が今からほぼ四百年前にローマ教皇に派遣された少年の一人、千々石清左衛門、洗礼名はミゲルの石碑が私の生まれた町にはありました。今から四百年前にここからローマ教皇に会いに行った人がいた。凄いなと子供のころ、思っていました。長崎にはキリスト教が日本に入ってきた最初の所でしよう。私の故郷にはどこか日本離れした情緒があるんですよ。戦国時代の終わりごろにはキリシタン大名がいたと聞きました。私の生まれた町ではみんなが知っている人ですよ。千々石清左衛門(ミゲル)は。
 Sさんは中学を卒業すると名古屋に集団就職をした。名古屋での思い出は定時制高校に通ったことである。仕事を終え、薄暗くなった学校で級友と顔を合わせ、一緒に給食を食べた思い出は今を生きる力になっているという。高校を卒業して三十年近くになっても未だに家族同様に付き合っている友がいる。私の青春は名古屋での高校時代だったという。そのころ東京に出て和菓子職人になり、自分のお店を持ちたいと思うようになった。
 二十六歳になったとき、独立した。お店を借りて商売を始めた。十年間、頑張りました。東京近郊の街には住民が増えていた。商売は順調だった。結婚をし、仲良く商売に励んだ。愛嬌のある奥さんが販売に力を発揮してくれた。預金が溜まり、自分の土地を持ち、店を持つことが夢だった。その頃千葉県野田市は住宅地の開発を進めていた。新開地には住宅地が次々と作られ、住民が増えていた。東京に出てきて二十年の努力の結果、自分のお店を持つことができた。
 私が不思議に思ったことはSさんの顔に苦労の後がないことだった。集団就職して三十年、誰にでも句郎の後が深い皴となって残っている人が多いがSさんにはそのようなものが何もなかった。Sさんは苦労を苦労として受け取らなかった。修行として積極的に受け入れていたからではないかと思うようになった。だから元気だった。自分の存在を肯定的に積極的に受け入れていた。だからなのかなととSさんの話を聞いていて思った。