先(まず)たのむ椎の木も有(あり)夏木立 芭蕉47歳 元禄三年(1690)
元禄二年の春、芭蕉は江戸を立ち、松島・平泉を経て奥羽山脈を越え、酒田・象潟を通って日本海側を南下し、秋を迎えた金沢・敦賀を経て大垣で終わる『おくのほそ道』の旅を遂げた。旅に痩せた体を門人に迎えられた。元禄2年の冬、近江膳所の義仲寺無名庵で芭蕉は年を越した。その後、元禄3年4月6日から7月23日まで芭蕉は門人の菅沼曲水の奨めで近江国大津国分山にある幻住庵に入った。幻住庵に入るに当たって挨拶をした句が「先(まず)たのむ椎の木も有(あり)夏木立」である。この挨拶句は西行の歌「ならび居て友を離れぬ子がらめの塒<ねぐら>に頼む椎の下枝」を反芻した句だという。「子がらめ」とは小雀をいう。
芭蕉が書いたもっとも有名なものといえば、『おくのほそ道』であろう。その次に有名なものというと幻住庵にいた時に書いた『幻住庵記』であろう。ここに芭蕉の人生観が表現されている。
かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身、人に倦んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室(ぶつりそしつ)の扉(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。「楽天は五臓の神を破り、老杜(ろうと)は痩せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の住みかならずや」と、思ひ捨てて臥しぬ。
「ある時は仕官懸命の地をうらやみ」と芭蕉は書いている。きっと若かったとき、武士に取り立ててもらい、命を懸けて守る封土を持てる身分になりたいと願った。この文章を読むと農民の身分であった者でも武士に取り立ててもらえる道があったことを意味している。可能性が無いものに人は希望を持たない。江戸時代は身分制社会であったが社会的流動性がわずかながらにもあったことをこの文章は意味している。二宮尊徳は農民の出身でありながら、藩に取り立てられ、藩政を司っている。芭蕉は「やや病身」と自分を見ている。二宮尊徳のような屈強な若者ではなかった。「人に倦んで、世をいとひし人に似たり」と書いている。人付き合いに草臥れたと愚痴っている。できるものなら嫌な人とは付き合いたくないとこぼしている。「一たびは佛籬祖室(ぶつりそしつ)の扉(とぼそ)に入らむとせしも」。仏道修行に入ろうかとも思ってはみたけれども、できなかった。「たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば」と俳諧師への道を歩んでみた。「楽天は五臓の神を破り、老杜(ろうと)は痩せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の住みかならずや」と白楽天は詩作のために全身を痛め、杜甫もまた詩作のために体が痩せるような苦しみをしている。白楽天や杜甫の詩文は素晴らしいが私の文は劣り、才能は平凡だ。どこに私の生きる幻の住処があるのだろう。そんなところはどこにもない。こんな思いを持って捨て寝している。
どうか、椎の木の夏木立の皆さん、こんな私ではありますが、よろしくお願い致します。