体罰がなくならない。なぜか、日本国民にスポーツ文化が根付いていないから。
中・高の部活動において、体罰がなくならない。体罰をした教師を処分しても体罰はなくならない。体罰が禁止されると指導者は技を通じて体罰をする。武道の場合、教師は対戦相手に指導したい生徒を指定し、徹底的にしごく。指導者である教師にスポーツ文化が身についていないから、このようなことが起きる。何もこれは武道に限らない。球技のスポーツにあっても同じことである。生徒より技に優れた教師は生徒をしごく。そのしごき方に優しさが何もない。これは将に体罰である。なぜか。部活動も教育活動の一部としてスポーツ指導が行われているからである。知育・徳育・体育。体育指導の一環として部活動がある。野球やサッカー、バスケット、バレー、テニス、剣道、柔道等々のスポーツが体育指導の一部として実施されている。
体育とスポーツは違う。明治以来、学校教育における体育指導は強健な身体を作り、平民を兵隊に作り上げるために行われたものが体育であった。明治維新は四民平等を実現した。武士の特権であった兵を平民に開放した。徴兵令を実現するためには平民を武士に、兵につくりあげねばならなかった。それが体育であった。基本は行進であった。一糸乱れぬ行進が体育の基本であった。これはまた同時に兵隊の基本でもある。
スポーツは遊びである。遊びにルールを持ち込み、危険性を防ぐ。これがスポーツである。スポーツは遊びであるから勝った者(たち)は負けた者(たち)を称える。負けた者(たち)を称えることは自分(たち)を称えることでもある。なぜなら勝ったのであるから。これがスポーツである。体育は遊びではない。教師が生徒と一緒に遊んでいたなら、それでは給料は支払えないということになるだろう。部活動は遊びではないのだ。教育指導の一部なのだ。だから体罰は起る。
スポーツ(sport)に体育という訳語はない。訳せなかった。だから訳さず原語のまま、スポーツとカタカナ語で日本語にした。スポーツは古代ギリシャ、オリンピック競技として誕生した。マラソン競技の誕生はペルシア戦争に起源がある。有名な話だ。ギリシア都市国家連合軍が東方の大国、専制国家アケメネス朝ペルシアと戦った。マラトンでギリシア都市国家連合軍が東方の大国、専制国家アケメネス朝ペルシアと戦い、その勝利の連絡をした。使者は40キロを走りぬき、