醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 147号  聖海

2015-04-10 09:48:34 | 随筆・小説

   瑞々しく綺麗なお酒、「霧筑波」

 名酒「霧筑波」を醸す浦里酒造は筑波山の麓にある。N市にある小さな酒販店の若主人が試飲会で飲み、心を奪われた。年明けの一月、深々と雪が降り積もる日の夕方になって仕入れに出向いた。私が試飲会で味わった感動を自分の住む地域の人々にも味わってもらいたい。そんな気持ちで仕入れに出向いたという。
 その頃、日本酒全体の需要は年々低下する傾向にあった。日本酒製造量は1970年代の中ごろを頂点として現在に至るまで長期低落傾向にある。日本酒の大量生産、大量消費の時代は終わった。第二次世界大戦が終わり、戦後復興とともに日本酒の製造量も増加の一途であった。兵庫、灘の名酒や京都、伏見の銘酒が大量生産した。日本全国いたるところに灘や伏見の酒が溢れた。地方に住む人々にも受け入れられるような酒が普及していった。日本酒の大量生産は日本酒の均一化を進めた。日本酒は沖縄と鹿児島を除くすべての地域で個性豊かなお酒が醸されていたが、その個性が奪われ、均一化した酒を地方の小さな酒蔵は大手メーカーの下請け会社として生産し、生き延びた酒蔵がある一方で酒造りを止める蔵も多数あった。
 1970年代の中ごろを境にして日本酒の需要が減少し始めると大手メーカーは下請けの地方の酒蔵にお酒の生産を求めなくなった。地方の酒蔵は生き延びる道を求める苦難が始まった。ちょうどその頃である。地方の国鉄が赤字路線となり、廃線になる鉄道が出てきた。地方の国鉄の活性化を目論んで「デスカバージャパン」というコピーがヒットした。地方の発見。細々と日本酒を醸していた酒蔵が発見されていく。その中に新潟の酒があった。純米酒というそれまで聞いたこともない酒が消費者の目につくようになった。醸造用アルコールを添加した酒しか飲んだことのなかった人にとって純米酒は糠臭い匂いにむせって飲めたものではなかった。しかし数年もすると純米酒から糠臭い匂いが抜けてきた。
 1980年代になると特定名称酒と云われる日本酒の生産量は微増ながら伸び始めた。純米酒や吟醸酒といわれるものである。地方の小さな酒蔵の酒は先祖帰りをして個性豊かな酒を醸すようになっていった。浦里酒造には幸運があった。筑波学園都市が近所に出現した。ここに美味しい日本酒を楽しむ人々がやって来た。その需要に応えるべく醸されている酒が「霧筑波」である。
 ナショナルブランドの酒でなく、地方色豊かな個性のあるお酒を楽しめる飲酒文化が今、花開こうとしている。大手メーカーのお酒も中小メーカーのお酒も互いに仲良く共存していく日本酒文化が日本国民のものになっていく過程に今あるように思う。それには消費者が大手メーカーのものを高く評価し、中小メーカーのお酒をまずいものという偏見を捨てることだろう。消費者は情報をたくさん仕入れ、偏見に捉われないよう絶えず、努力しなければならない。