醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  827号  白井一道

2018-08-21 12:26:50 | 随筆・小説


 
  「山も庭もうごき入るや夏座敷」。『おくのほそ道』途上芭蕉が詠んだ句


句郎 『おくのほそ道』途上、那須の黒羽に門人秋鴉(しゅうあ)を尋ねて挨拶した句のようだ。秋鴉は黒羽の館代浄法寺図書高勝。
華女 江戸時代の那須は不毛の地だと聞いていたけれども、集落があり、俳諧を楽しむ人がいたのね。
句郎 江戸では少し名の知れた俳諧師だったのかなと思っていたが、那須の黒羽に芭蕉を慕う俳諧の仲間がいたということは凄いことなんだと思うな。
華女 見晴らしの良い高台に秋鴉さんの屋敷があったのね。
句郎 この句には「山も庭に動き入るや夏座敷」という句形も伝わっている。
華女 「山も庭も」と「山も庭に」の「も」と「に」の違いね。
句郎 「も」と「に」、どちらの方がいいかな。
華女 「山も庭に」の方が断然分かりやすいわね。借景だということが分かっていいと思うわ。
句郎 この句について、俳人の長谷川櫂が著書『「奥の細道」をよむ』の中で「山も庭も」の方が「山も庭も夏座敷に躍りこんでくるようだという一物仕立ての句。躍動感があって、この方がはるかによい」と述べている。
華女 夏座敷に招かれ、庭を眺めた時の感動が追体験できるような句だということなのね。
句郎 この句を読むと思い出すことがあるんだ。昭和三十年代の大和郡山から斑鳩の方に行くバスがあった。その途中に大和小泉がある。そこに慈光院という寺の庭から大和平野が望めた。田んぼの中を汽車が走っていく。新緑の田んぼとため池、その中を白い煙を吐いて走る汽車。慈光院の庭と汽車、田んぼ、ため池、この借景が記憶に焼き付いている。
華女 「汽車も庭もうごきいるるや夏座敷」なのね。
句郎 そうなんだ。一幅の絵になっているんだ。
華女 この芭蕉の句には躍動感があると長谷川櫂は言っているのよね。「動き」というものを芭蕉は表現したと言っているのよね。
句郎 そう、静的な世界を表現するのではなく、動的なものを表現するのが蕉風の俳諧なのかもしれないな。
華女 そうなのかもしれないわ。例えば『おくのほそ道』にある有名な句、「五月雨をあつめて早し最上川」。この句も水量が多い梅雨の時期の最上川の流れの速さが表現されているのよね。
句郎 そうだよね。「さみだれや大河を前に家二軒」。蕪村の句と比べてみるとはるかに芭蕉の句には躍動感があるな。
華女 蕪村の句は、静かな絵画のような句ね。
句郎 絵画的だから静的な句だということにはならないとは思うけどね。
華女 そりゃそうよ。躍動感溢れる絵画だってあることは知っているわ。ドラクロワの絵には躍動感が溢れているように思うわ。
句郎 フランス七月革命を表現した「民衆を導く自由の女神」の絵には躍動するパリ市民が表現されているように感じるな。
華女 蕪村の句には静物画のような静かさがあるわ。
句郎 その静かさのようなものが蕪村の句の魅力なのかもしれないな。
華女 躍動する大河の魅力が芭蕉の句にあるとしたら蕪村の句には大河の静かな流れに魅力があるのよ。
句郎 「山も庭も」夏座敷に招き入れられた時、芭蕉の目に飛び込んできて座敷に設けられた一幅の絵になったという感動を表現しているということだよね。
華女 芭蕉は心象風景を表現しているのよね。
句郎 そう、心象風景を詠んでいる。ここに芭蕉の句の特徴があるように思っている。
華女 単なる写生の句ではないということなのよね。
句郎 そう。だから明治になってから正岡子規が「写生」ということを言ったけれども見方に依れば、芭蕉は子規よりも近代的な域に達しているとも言えるように思うな。
華女 心象風景という主観を詠んでいるということね。
句郎 主観を詠んだというこ とが子規より近代的なのかもしれないと思っている。芭蕉の句と子規の句とを比べてみると遥かに子規の句より芭蕉の句の方が多くの人に親しまれているように思うんだ。子規の句を口ずさむ人は芭蕉の句を口ずさむ人ほどいないように思っているだけどね。

醸楽庵だより  826号  白井一道

2018-08-20 11:36:06 | 随筆・小説


  「じたらくにねれば涼しき夕べかな」   


句郎 「じだらくにねれば涼しき夕べかな」。宗次という人の句が猿蓑集巻の二に載っているんだ。
華女 元禄時代の人の句ね。三百年前の人も今の人と同じ気持ちだったのね。
句郎 芭蕉同門の人たちが俳諧『猿蓑集』の編集をしている時に宗次という人が数句投稿してきたんだ。見てみるとどの句も入集できるような句ではないというのが編集に携わっている人たちの一致した見解だった。疲れた。皆さんも一服して下さい。私もちょっと横になりますよ。芭蕉が横になると
編集委員たちの間の緊張がほぐれ、去来が自堕落に休むと夕べの涼しさが身にしみますねと、言った。その言葉を聞いた芭蕉は「じたらくの」の句を入集させましょうと言った。この句は発句になっていますよ。こうした事情で入集した句のようなんだ。
華女 どうして゜、そんなことが分かるの。
句郎 『去来抄』に書いてあるんだ。
華女 編集委員会というのは今も昔のかわらないのね。でも芭蕉はどうしてこの句を『猿蓑集』に採
用しようと決めたののかしら。
句郎 「じだらく」という俗語がこの句では詩語になっていることに芭蕉は気付いたからだということを芥川龍之介が『芭蕉雑記』の中で述べているんだ。「じだらくに」は「芭蕉の情調のトレモルを如実に表現した詩語である」と述べている。
華女 へぇー、そうなの。
句郎 芭蕉は弟子の土芳に「俳諧の益は俗語を正す也」と云った。土芳が残した『三冊子』の中にある芭蕉の言葉だ。
華女 「俗語を正す」とは日常用いる言葉を詩語にすることを言うのね。
句郎 「俗語を正す」とは「俗語に魂を与えることである」とも言っているから詩語とは魂のある言葉なのかもしれないな。
華女 言霊のある言葉が詩語なのかもね。
句郎 そうかもしれない。「じだらくにねれば涼しき夕べかな」。この句には人間が表現されているものね。
華女 緊張感から解放されたときの安らぎみたいなものかしらね。
句郎 ふっと口をついてでてくる言葉に人間を表現する言葉が出てくることがあるということかな。。
華女 作意のない言葉ね。
句郎 「命なりわづかの笠の下涼み」。三十三歳の芭蕉が帰郷の際、小夜の中山で詠んだ。この句の「命なり」の語の横に芥川は点を打っている。このことは「命なり」の言葉には魂が籠っているというを意味していると思うんだ。俗語が詩語になっているということだと思う。
華女 真夏の街道を行く旅人にとってはまさに笠の下の涼しさは命なんだと感じるわ。
句郎 作意のない句だね。
華女 作意がなければ句はできないんでしようけれども作意あっては句ができないとは矛盾ね。
句郎 「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師のおりしも私意をはなれよという事なり」という芭蕉の言葉が『三冊子』にある。僕が言う作意とは芭蕉が言う私意ということかな。
華女 作意と私意、同じような言葉ね。
句郎 見た物、そのものが自分の表象となるということ。主体と客体が一体化するということかな。

醸楽庵だより  825号  白井一道

2018-08-19 10:22:51 | 随筆・小説


  『おくのほそ道』から「もの書きた扇ひきさく余波かな」


 この句だけを読んだのでは何が表現されているのか、わからない。もちろん鑑賞などできない。「奥の細道」この句の前に書かれている文章を読むと幾分情景が想い浮かぶ。
 金沢の北枝という者が芭蕉を慕い、丸岡天龍寺まで見送ってくれた。その北枝との別れに臨みて詠まれた句であることが分かる。この情報による想像だけでこの句を鑑賞するにはまだ不十分のようだ。俳句には季語というものがある。この句の季語は何か。その季語が表現する世界はどのような世界なのかが分かっていなければ鑑賞はできない。
 この句の季語は「扇」である。「扇」は夏の季語、しかし表現されている世界はなんとなく秋のような感じがする。「扇引さく」とあるからいらなくなった扇である。いらなくなった「扇」、すなわち「秋扇」・「扇置く」を意味している。これは秋の季語である。「秋扇」には寵愛を失った女性を意味すると広辞苑にある。「秋扇」という季語の世界を味わうと想像力が喚起される。
 「もの書きて」とはきっ
と別れの挨拶句を書いたのだろうと想像できる。この句は北枝との別れの挨拶句なのだ。別れの挨拶句で扇を引裂いてしまっては挨拶にならない。「扇引さく」とはどのような状況なのだろうと推理する。注釈書をひも解くと「松岡にて翁に別侍りし時、おふぎに書きて給る、もの書きて扇子へぎ分(わく)る別(わかれ)哉 翁 笑ふて雰(きり)きほい出(いで)ばや 北枝」とある。「もの書きて扇引さく」とは芭蕉が挨拶句を書き、北枝が七七を付けて挨拶を
返した。「もの書きて扇引さく」とは白紙の扇子に師匠である芭蕉が五七五を書きいたものをへぎ分け、北枝に与え、北枝が付けた七七を師匠である芭蕉は受け取った。このような状況を表現した言葉が「もの書きて扇引さく」ということになる。「扇子へぎ分る」とは、「へぎ」が、はがすという意味だから二枚の紙を合わせて作られている扇子の紙を二枚に剝し分けたという意味になる。「扇子へぎ分る」という状況を芭蕉は「扇引さく」と表現した。こう表現することで別れの哀し
みの強さを表現したのだと気が付く。「扇子へぎ分(わく)る別(わかれ)哉」では北枝との別れの辛さ、哀しみが表現できない。平板な淡々としたものになってしまう。「別(わかれ)」を「余波(なごり)」と言い換えることによって北枝との別れの辛さ、哀しみの余韻が表現される。
 元禄時代、芭蕉のような人々にとって扇子はきっと貴重品であったに違いない。その貴重な扇子を引裂くほどの哀しみが北枝との別れにはあった。実際、扇子を引裂くことはしなかったのではないか。これは哀しみを表現する比喩なのだ。
 当時の別れは今生の別れなのだ。打ち解けた俳句の世界を共有した北枝との別れはもう二度と生きて会うことはない別れなのだ。現代にあっては死に別れに匹敵する別れなのだ。それほど芭蕉と北枝とは打ち解けあったのだ。この芭蕉の哀しみに対して北枝は微笑んでこの霧の中にお別れして元気よく出発していこう。このような挨拶を交わした。それがこの句なのだ。

醸楽庵だより  824号  白井一道

2018-08-18 10:40:30 | 随筆・小説


 『おくのほそ道』より「塚も動け我泣声は秋の風」



 私の気持ちに応えて、塚よ応えてほしい。私があなたにどんなに会いたかったか、その気持ちをわかってほしい。あなたが亡くなったと聞いて秋風のごとく悲しみにくれています。
 このような芭蕉の気持ちを表現した句でしょうか。小杉一笑という金沢では有名な俳人に会いたいと思って芭蕉はやってきた。芭蕉はまだ一度も一笑にあったことはない。それにもかかわらずにこのような句を詠んだ。なにか一笑からの手紙に芭蕉の心に触れるものがあったのであろう。江戸時代にあって手紙は今では考えられないほど人と人とを結びつける力があった。噂に聞く一笑の俳諧の力に学びたいという気持ちが芭蕉にあったのかもしれない。きっと芭蕉は人間関係を大事にする人であったのであろう。俳諧そのものが人と人との交わりを楽しむ遊びでもあった。そんな遊び事に芭蕉は命をかけた。
 芭蕉は「塚よ動け」とは詠まずに「塚も動け」と詠んだ。まずここに芭蕉の芸があるように思う。よとも
ではどのような違いあるのだろう。細見綾子の句に「春
の雪青菜をゆでてゐたる間も」がある。このもは「春の雪」も「ゆでていたる間も」という解釈でいいと思う。「春の雪も」のもは省略されている。このもを読者に喚起させる言葉が「ゆでていたる間も」のもである。「塚よ動け」と詠んだのでは「我泣声も」のもを読者に喚起させることはできない。だから「塚も動け」でなければならない。
 「我泣声は--秋の風」の中七の言葉と下五の言葉の間に小さな切れがある。このことに気づかせてくれるのも「塚も動け」のもの働
きである。「我泣声は」のは
は、もという意味をも表現していることに気付く。
この句の解釈は塚も動いて私の言葉に答えて下さい。
私が泣く声も私の哀しい思いを乗せた秋風になってあなたに語りかけています。どうか私に一笑さん、応えて下さい。こう解釈することで追善句になる。静かに故人を思う気持ちが表現されることになる。
 芭蕉学の泰斗、鴇原退蔵がこの句ははげしい悲しみの情をのべたと解釈したのに対して上野洋三は違和感を覚えた。この句は慟哭の
句ではない。そもそも追善句とは静かに故人への思いを表現するものである。
 芭蕉の他の追善句を上野洋三は読む。
 なき人の小袖も
いまや土用干し
 数ならぬ
身とな思ひそ玉祭
 埋(うづみ)火(び)もきゆやなみだの烹(にゆ)る音
 火鉢の埋火も消え、悲しみの涙もなくなり、会葬の人もいなくなった。囲炉裏にかかっている鉄瓶の音だけが部屋にこだましている。
会葬者のいなくなった棺の前で故人を思う気持ちが静かに表現されている。これが追善句なのだ。
 整えられ、鎮静された感情を表現してこそ此岸から彼岸に向けて故人が彼岸に渡っても幸せであってほしいという気持ちが表現されるのだと上野洋三は主張する。慟哭では追善にならない。
 この句を激情、慟哭を表現したものとするのが大勢の中にあってこのような解釈をしたのは勇気ある試みであると思う。私もこの上野洋三の解釈に従ってこの芭蕉の句を理解したい。

醸楽庵だより  823号   白井一道

2018-08-16 10:14:36 | 随筆・小説


  芭蕉の俳諧理念「軽み」について


 道のべの木槿(むくげ)は馬にわれけり  芭蕉



 「野ざらし紀行」に載っている句の一つである。この紀行文の最初の句が有名な「野ざらしを心に風のしむ身かな」である。旅に死ぬ私の髑髏(されこうべ)が野ざらしになっていることを想像すると心の中に吹く秋風が冷たく寒い。旅に生き、旅に死ぬ覚悟を詠んだ句である。時に芭蕉四十一歳、貞享元年(1684)、元禄時代の直前である。こんなに重い覚悟の句の直後に芭蕉は馬上吟の句、「道のべの木槿は馬に食われけり」と詠んでいる。この句が「軽み」を表現した句である。
「野ざらしを心に風のしむ身かな」、この句はとても重い。死ぬ覚悟ができると心が軽やかになったのであろう。すべての柵(しがらみ)から解放され、後ろ髪引かれるものが無くなったのであろう。日常普段に眼にするものをそのまま表現する。卑近なものであっても卑俗にならない。ここにこの句が軽みを表現していると言われる
所以がある。モーツアルトの音楽の軽快さに共通するものがある。
 芭蕉と曽良、他の門人たちは深川の芭蕉庵から隅田川をさかのぼり千住で船をあがる。門人たちは芭蕉と曽良の後姿が見えなくなるまで見送ってくれた。そのときに詠んだ句が「行春や鳥啼魚の目は泪」である。なんと後髪の引かれる思いであったことでろう。門人たちは皆、目に泪をたたえ、別れを惜しんでいる。それはもう二度とまみえることがないだろうという不安を抱えていたからである。芭
蕉たちもまた振り返ることもなく足早に後姿が小さくなっていった。
 このような重い別れであったのに比べて「奥の細道」最後の句「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」、大垣に駆けつけてくれた門人たちとの別れを詠んだ句はなんとも軽い。大きな旅を無事終えた芭蕉にとっては身も心も軽くなっていたことでろう。そんな気持ちの軽さが表現されている。ここにも軽みがある。
 将来を背負ったときには荷の重さが心を占める。人生の歩みが始まってしまえ
ば心は軽くなるものなのかもしれない。忙しい毎日が過ぎていく。その忙しさに人間は楽しみを見出していく。歩く足裏の痛みもいつしか笑いの種になる。日射しの暑さに咽の渇きを覚えることがあったても井戸水で咽を潤す喜びがある。風の音に秋の訪れを感じる寒さがやってきても迎え入れてくれる門人たちのぬくもりに癒される。雨に濡れる冷たさはあっても見飽きることのない景色を心にとどめていく楽しさは今、生きているという実感があったであろう。
 テクテク歩く旅を通して芭蕉は人間の本質を究めた。その人間の本質とは重く悩み苦しむことではなく、生活を楽しむ軽さにあると気づいたのである。
 生きる苦しみにではなく、生きる楽しみに人間の本質はある。老いの苦しみに老いの本質があるのではなく、老いの楽しみに人間の本質はある。
 死ぬ危険性をたたえた旅を真正面から受け入れたとき、実感をもって知った人間の本質であった。この現実を肯定的に受け入れることによってこの現実を変える力を得るのだ。

醸楽庵だより  822号   白井一道

2018-08-15 10:35:17 | 随筆・小説


  『おくのほそ道』よれ「荒海や佐渡によこたふ天河」  芭蕉


 旧暦の七月四日に芭蕉は新潟県出雲崎でこの句を詠んでいる。今の暦でいうと八月九日、暑い盛りである。曾良旅日記の七月四日には「快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、弥彦ヲ立」とある。青空の下、快い風に吹かれて、午前八時頃、芭蕉と曽良は弥彦を出発した。その後、「寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着。宿ス。夜中、雨強降」とあるから寺泊を経て出雲崎に午後四時頃到着し、出雲崎で泊まった。その夜は強い雨が降った。弥彦から出雲崎までおよそ三十二キロを歩き通した。
 出雲崎に着いたのが申の上刻、午後四時のことであるから8月上旬ではまだ明るい。宿に着いた芭蕉は行水でも浴びた後、食事までの時間に浜辺から眺めた佐渡を思い起こし、「銀河の序」という文章を残している。
「北陸道に行脚して越後の国出雲崎といふ所に泊る。
かの佐渡がしまは海の面十八里、滄波を隔てて、東西三十五里によこほりふしたり、みねの嶮難谷の隅々までさすがに手にとるばりな
りあざやかに見わたさる。
 むべ此の島はこがねおほく出でてあまねく世の宝となれば限りなき目出度き島にて侍るを大罪朝敵のたぐひ遠流せらるるによりてただおそろしき名の聞こえあるも本意なき事におもひて
窓押し開きて暫時の旅愁をいたはらむとするほど、日既に海に沈んで月ほのくらく銀河半天にかかりて星きらきらと冴えたるに、沖のかたより波の音しばしばはこびてたましひけづるがごとくた腸ちぎれてそぞろにかなしびきれば草の枕も定まらず、墨の袂なにゆえと
はなくて、しぼるばかりになむ侍る。
 あら海や佐渡に
横たふあまの川 」
 北陸道は現在の国道四〇二号線である。この街道を十月初旬にドライブした人の紀行文を読むとうっすらと佐渡島が見えたと書いている。十月より八月の方が景色は曇っている。それなのに芭蕉は「みねの嶮難谷の隅々までさすがに手にとるばりなりあざやかに見わたさる」と書いている。今から三百年前は空気が澄んでいたのかもしれい。
 浜辺に寄せる波音が枕元
に響いてくる。太陽が海に沈み、月がほの暗く銀河の半天にかかる。星がきらきら輝くのを見ながら佐渡島の歴史に芭蕉は思いをよせる。佐渡島は本来、宝を産する目出度き島であるはすなのに時の政権に叛旗を翻した朝敵である大罪人を流刑にした島である。島流しにあった世阿弥や文覚上人のことを思うと哀しみに腸が千切れるような旅愁にかられた。
 「荒海や」、この言葉には本土から切り離された島に生きる人の哀しみが表現されている。その哀しみに生きる人に対する架け橋が「天の川」である。「天の川」に籠められた意味は肉親や友人・知人から切り離されて生きる人への思いになっている。
 荒海に佐渡が横たわっている。夜空には天の川がかかっている。「荒海に佐渡横たふや天の川」。この句は実景である。この実景の句を「荒海や佐渡に横たふ天の川」と捻った。「荒海に」を「荒海や」と変え、「佐渡横たふや」を「佐渡に横たふ」と変えた。このように捻ったことによって雄大な宇宙と歴史的広がりが表現されている。

醸楽庵だより  821号  白井一道

2018-08-14 10:51:36 | 随筆・小説


  アサガオの季節は秋だということ


句郎 アサガオの季語はいつ?
華女 夏じゃないのよね。よく間違いやすいのよ。私は間違わないわよ。アサガオは秋なのよ。
句郎 アサガオはなぜ秋なのかな。
華女 秋なんじゃないの。俳人の宇田喜代子さんがこの間テレビで話していたわ。なぜ秋なのか。分からないのよ。俳句をしているとそのうち分かる人にはわかるのよとね。
句郎 そのうち俳句を詠んでいるとあぁー、アサガオの季節感は秋なんだということが実感されるということかな。
華女 そうなんじゃないのかしら。アサガオは秋だと私は覚えたのよ。
句郎 「朝顔につるべ取られてもらひ水」。加賀千代女の有名なアサガオの句があるでしょ。この句のどこに秋の季節が表現されているのかな。
華女 正岡子規が酷評した句ね。秋の季節感を言う前にこの句は理屈の句だと子規は酷評したのよ。
句郎 確かに理屈の句だといえばそうなのかもしれないな。
華女 でもね、私には分かるような気もするのよ。
今でもこの句を良い句だと言っている人がいるみたいよ。だからいまだに人に知られている句なんじゃないの。
句郎 秋の季節感が表現されているということなのかな。
華女 そうよ。アサガオには秋の季節感が表現されているのよ。アサガオを見て秋が来たなと感じられる感性が磨かれなくちゃ、アサガオが秋の季語だということは実感されないのよ。
句郎 宇田喜代子さんがそのうち分かる人には分かるということはそういうことなのかな。
華女 俳句を詠むということは季節感という感性を磨くことなのよ。日々の生活の中で季節の移ろいに敏感になっていくということが俳句を詠むということなのよ。
句郎 この千代女の句には「アサガオに」ではなく「アサガオや」という形も伝えられているようだ。
華女 「に」と「や」の違いね。「アサガオに」の方が断然分かりやすいわね。「や」だと切れるから内容がちょっと複雑になるわね。
句郎 そう子規の言う理屈の句から開放されるかな。
華女 そうね。いわれてみると「アサガオや」の方が俳句としてはいいような気がしてきたわ。
句郎 「アサガオや」とすると朝起きて井戸端に行った時のアサガオの美しさに見とれている人の姿が瞼に浮かんでくるよね。
華女 井戸水を汲み出す釣瓶にアサガオの蔓が巻き付いているのを取ることができないということなのよね。
句郎 禅の研究で有名な鈴木大拙は「彼女がいかに深く、いかに徹底して、この世のものならぬ花の美しさに打たれたかは、彼女が手桶から蔓をはずそうとしなかった事実によってうなずかれる」『禅』の中で書いているらしい。
華女 彼女はアサガオの花の透明な美しさに打たれたのよね。子規は「もらい水」に「俗極まりて蛇足」だと言ったようだけどもそうじゃないのよね。
句郎 そうなんだろうな。この句は今朝の秋を表現した句なんだろうな。アサガオの花には秋が表現されているんだ。ここが分からないとこの句が秋だいうことが分からない。

醸楽庵だより  820号  白井一道

2018-08-13 11:23:11 | 随筆・小説


 吟醸酒を楽しむ黒耀会のたより「月中天と聖」


侘輔 今日のお酒は香川県のお酒なんだ。
呑助 香川県のお酒と言うと有名な銘柄のお酒があるんですかね。
侘助 私が今まで楽しんだお酒というと観音寺の「川鶴」、「川の流れの如く、素直な気持ちで呑み手に感動を」初代より受け継がれたこの酒造りの精神を守り蔵人たちが想いをこめて造っているというお酒かな。
呑助 真心というやつですか。
侘助 それから「綾菊」かな。「現代の名工」に選ばれ、黄綬褒章の受賞暦がある「国重弘明」名誉杜氏のもと、愛弟子の「宮家秀一」杜氏が、讃岐の豊かな風土と文化をしっかりと携えた伝統と技術を継承したお酒かな。
呑助 「川鶴」は黒耀会で楽しんだような記憶がありますね。
侘助 間違いなく、一回は飲んでいると思うな。
呑助 今日楽しむ香川のお酒は何ですか。
侘助 今まで間違いなく一回は楽しんでいるお酒、「月中天」、香川県は琴平のお酒なんだ。琴平というと何が有名何だったけ。
呑助 金毘羅さんですかね。
侘助 「おんひらひら蝶も金比羅参哉」と俳人の小林一茶が金毘羅さんに参った時に詠んだ句のようだ。
呑助 私らが子供だった頃、映画「清水の次郎長」に出てくる森の石松が金毘羅さんに親分の代わりに参り、帰り道その香典を狙われ命果てる物語が有名ですかね。
侘助 義理人情に篤く、喧嘩に強いキャラクターが庶民の喝采をうけたのかな。
呑助 金陵酒造さんのお酒も義理と人情に篤い味わいのお酒なのかもしれませんね。
侘助 そうなんじゃないのかな。「こころをこめた酒造りで、食文化を創造」したいと言っているからね。また「こころが香る、お酒の歴史と文化の空間」を創造していくと胸を張っているからね。
呑助 疲れた体と心にやさしく入ってくる癒しのお酒ということですか。
侘助 そうだと思うな。造りは純米だから、醸造用アルコールが添加されていないお酒。無濾過だから炭素で濾過しなくとも酒の旨味が表現されている。生酒だから火入れをしていない。酵母の命がかすかに息づいているおさけだということ。原酒だから水で薄められていないお酒だということかな。
呑助 純米、無濾過、生原酒のお酒なんですね。
侘助 炭素濾過をするとお酒の旨味も一緒に取ってしまうようだからね。
呑助 無濾過のお酒は、酒本来の味が楽しめるということですかね。
侘助 もう一本のお酒は群馬県渋川のお酒、聖酒造のお酒なんだ。酒造米「若水」で醸したお酒なんだ。今年、五月にも黒耀会で楽しんだお酒なんだ。覚えているかな。
呑助 「若水」という酒造米はどこで開発された酒造米なんですか。
侘助 愛知県農業総合試験所で開発された愛知県酒造組合がこだわって醸しているお酒のようなんだ。酒造米「五百万石」を親としている酒造米だから新潟県のお酒に通じる端麗辛口のお酒に仕上がっているんじゃないかな。
呑助 「月中天」の方がどちらかというとしっかり味の載っている酒ですか。

醸楽庵だより  819号  白井一道

2018-08-12 12:42:04 | 随筆・小説



 『おくのほそ道』途上で詠まれた句「秣(まぐさ)負ふ人を枝折(しをり)の夏野哉」



句郎 「秣(まぐさ)負ふ人を枝折(しをり)の夏野哉」。この句に次のような前詞を芭蕉は書いている。「陸奥(みちのく)にくだらむとして、下野国まで旅立けるに、那須の黒羽と云所に翠桃何某の住けるを尋ね、深き野を分入る程、道もまがふばかり草ふかければ」。元禄二年ごろの那須野原というと不毛の野原だった。馬や牛の飼料となる秣(まぐさ)しか育たない広大な野原だった。開墾の結果、現在の那須になった。その歴史は用水路を掘削する厳しい労働の賜物が今の那須野原のようだ。当時の那須野原は行けども行けども秣に覆われた道なき道を旅人は歩んだ。当時の那須野原を芭蕉は表現した。
華女 枝折とは、何なの。
句郎 枝折とは道しるべだよ。昔は木の枝を折って、後続の者の道しるべにしたようだ。
華女 秣を背負って行く人の後について那須野原を渡ったということなのね。
句郎 枝折がなければ那須野原を通り抜けることができないほど、道幅は狭く、縦横に道が入り組んでいたということなんじゃないのかな。
華女 那須の夏野を表現した芭蕉の句ということね。
句郎 夏野が表現されている名句だと思うな。
華女 単なる写生を超えている句だと思うわ。
句郎 僕もそう思うな。クールベの絵『石割人夫』を思い出すような風景が思い浮かぶ句のように思う。
華女 そうね。汗だくなって足早について行かないと見えなくなってしまいそうな気がする夏野だったのよね。
句郎 この句の発案は「秣刈人を枝折の夏野哉」のようだ。「秣を背負う人」と「秣刈る人」との違いだけれども、夏野を表現するには「秣負ふ人」でなければ広大な夏野は表現されないと芭蕉は推敲したんじゃないのかな。
華女 芭蕉は推敲の人だったのよね。
句郎 芭蕉は天才だということではなく、努力の人だっんたじゃないのかな。努力することが好きな人だったんだと思うな。
華女 苦も無く努力できる人が天才なのよ。
句郎 何か、召命観のようなものに憑かれた人だったんじゃないのかな。
華女 俳諧に、なのね。
句郎 俳諧は神から命じられた私の使命だというような気持ちなのかな。
華女 そうよね。芭蕉には家族というようなものを持たなかったんでしょ。
句郎 人間は家族を持つことによって一人前になるという面があるように思うんだ。職人さんや商売している人の場合、家族のいる人と家族のいない人では信用度が違うというじゃない。
華女 そうよね。家族のいる人の方が安心して付き合えるような気がするわね。
句郎 そうでしょ。そんな気がするんだよね。だから男も女も結婚し、子供を育てる営みの中で人間になっていくような気がするんだ。
華女 芭蕉は家族を持つことがなかったということで人間として一人前じゃなかったのよね。
句郎 しかし芭蕉は俳諧を通して立派な大人になった。そのような人が近代以前の人にはいたんじゃないのかな。
華女 なぜそんなことが言えるの。近代社会になると家族を持つことが可能になったということなのかしら。
句郎 芭蕉の時代は、旅に生きる人生など家族を持っている人にはできなかった。独り者だから旅に生きる人生を送ることができたんじゃないのかな。
華女 そうよね。遠洋航海の船乗りを夫に持った人の奥さんは寄港地まで子供を連れて夫に会いに行ったという話を聞いたことがあるわ。
句郎 芭蕉は独り者ではあったが、寂しい人生ではなかった。芭蕉のまわりには数多くの友人、門人に囲まれていた。
華女 確かに芭蕉には数多くの門人がいたのよね。門人がいたからこそ、芭蕉の文学は世に普及したのかもしれないわよ。
句郎 江戸や尾張、近江、浪花など各地に蕉門ができていたからね。
華女 そのような人々の中で芭蕉の俳諧は創られていったのよね。
句郎 芭蕉は俳諧をとおして人間になっていった。その成果が芭蕉の句なんだ。


醸楽庵だより  818号  白井一道

2018-08-11 10:56:04 | 随筆・小説



 安倍政権は民主主義を破壊している



 民主主義とは話合い、合意を得て、政治的決定をするという政治思想をいう。
 ところが沖縄県民の意思を代表する翁長県知事との話し合い、合意形成をすることなしに、国が決めたことを沖縄県に強制している。これは民主主義に反する。独裁政治である。日本国憲法をないがしろにする政治的決定を安倍晋三総理はしている。
 安倍政権に苛め抜かれて翁長沖縄県知事は癌を病み、亡くなられた。心の底からお悔やみ申し上げたい。
 安倍総理は翁長沖縄県知事を苛め抜いたことを反省するどころか、蛙の面にションベンとは、このことか言う顔をして次のような談話を出している。「安倍晋三首相は9日、長崎市で記者会見し、8日に死去した沖縄県の翁長雄志知事について「沖縄の発展に尽くされた貢献に敬意を表したい」と述べ、哀悼の意を表明した。その上で、沖縄県の基地負担軽減と経済振興に全力を挙げる方針を強調した」と新聞は報じている。また菅官房長官は次のように述べている。辺野古新基地建設については「唯一の解決策にかわりはない」と従来通りの考えを示した。
 辺野古新基地建設は沖縄の民意ではないということを翁長県知事は述べている。にもかかわらず、安倍総理や菅官房長官は普天間米軍基地を閉鎖するには、辺野古に新基地建設を建設する以外に道はないということを繰り返し述べている。
 沖縄の民意はもちろん普天間米軍基地の閉鎖、辺野古新基地建設はしない。米軍基地を限りなく閉鎖、無くしていきたいというのが沖縄の民意である。
 日中平和友好条約が1978年に締結されて、今年で40年になる。中国との平和友好を深めていくことが日本国の経済の発展になる。沖縄の経済の発展になる。なぜ安倍晋三氏や菅義偉氏など自民党政治家は中国や北朝鮮との平和友好関係を深めようとしないのか、不思議である。
 最近、恐ろしい発見がありました。日本ジャーナリスト会議のホームページを見て、次のような記事を発見した。共産党、赤旗記事がJCJ賞を受賞した。その記事が次のようなものであった。
「核態勢見直し」策定に向けて米議会に設置した諮問機関が行った意見聴取での在米日本大使館関係者の発言記録を赤旗記者が入手。当時の駐米公使(秋葉剛男・現外務次官)が核巡航ミサイル・トマホークの退役に関して代替兵器の配備を要請したり、核弾頭の最新鋭化を促していた事実を報じました。また、沖縄への核兵器貯蔵庫建設の打診に対して「そうした提案は説得力があるように思える」と肯定発言をしていたことを暴露しました。
 JCJは、授賞理由として「独自に入手した米側の文書をもとに、オバマ政権が標榜(ひょうぼう)していた『核のない世界』の強大な妨害勢力の一つが、唯一の戦争被爆国で非核三原則をもつ日本政府であった事実を告発している」と評価。「この報道は沖縄地元2紙、共同、時事などで相次ぎ、国会では共産党だけでなく他の野党も追及し大きな反響を呼んだ」ようだ。
 日本の外務官僚が非核三原則を無視するようなことをしている。これは日本国民を愚弄するものだ。日本国民の生命、財産を危機に晒すようなことをするのが外務官僚なんだ。
 「とことん共産党」をyou tube で見た。ゲストが法政大学教授山口二郎氏だった。山口氏は外務官僚を宦官だと切り捨てた。中国皇帝に仕えたのが去勢された官僚、宦官である。日本の外務官僚が仕える皇帝とはアメリカ政府なのかもしれない。オバマ元アメリカ大統領は「核なき世界」を唱えたがここにアメリカ政府の本流があるとは、見なさず、核によるアメリカの世界支配、ここにアメリカの本質があると現外務省事務次官秋葉剛男氏は考えていたのであろう。秋葉氏の考えが総理大臣安倍晋三氏の考えでもあろう。このような日本国民の民意よりアメリカ政府の方針に忠実であることが大事なことであると考えている以上、沖縄の民意を尊重する民主的な政治決定はあり得ないのかもしれない。
 その時の中米大使秋葉氏の発言はアメリカ共和党政治家を励ましたとも言われている。日本の野党政治家の中には民主主義を大事にする人がいる。アメリカにも民主主義を守ろうとする人々がいる。日本とアメリカの民主主義を守り、育てていこうする政治家が協力し、平和を守りたい。