醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1222号   白井一道

2019-10-21 11:16:17 | 随筆・小説



    徒然草50段  応長の比、伊勢国より、女の鬼に成りたるを』



 応長の比、伊勢国より、女の鬼に成りたるを率て上りたりといふ事ありて、その比廿日ばかり、日ごとに、京・白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺に参りたりし」、「今日は院へ参るべし」、「たゞ今はそこそこに」など言ひ合へり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言と云う人もなし 。上下、ただ鬼の事のみ言ひ止まず。

 応長の頃(花園天皇1311年頃)、伊勢の国から鬼になった女を連れて京に上って来たということがあった。その頃、二十日ばかりは日ごとに京・白川の人は鬼を見ようと街中に出て来てぶらぶらしていた。「昨日は西園寺に参った」、「今日は上皇の御所にはやってくるだろう」、「ただ今はそこそこに鬼になった女がいる」などと人々は言い合っていた。本当に見たという人はいなかったし、この話は嘘だと言う人もいなかった。身分の高い人も下々の人たちもただ鬼の話をするばかりだ。

 その比、東山より安居院辺(あぐゐへん)へ罷り侍(はんべり)しに、四条よりかみさまの人、皆、北をさして走る。「一条室町に鬼あり」とのゝしり合へり。今出川の辺より見やれば、院の御桟敷(おんさじき)のあたり、更に通り得べうもあらず、立ちこみたり。はやく、跡なき事にはあらざンめりとて、人を遣りて見するに、おほかた、逢へる者なし。暮るゝまでかく立ち騒ぎて、果は闘諍(とうじやう)起りて、あさましきことどもありけり。

 その頃、東山から安居院の辺りまで行くことがあった。四条より上にいる人は皆、北に向かって走って行く。「一条室町に鬼がいる」と怒鳴り合っている。今出川の辺りから眺めると、上皇の御所の賀茂祭を眺める桟敷のあたりは特に通ることができないほど人々が立ちこんでいる。やはり根も葉もない噂話ではないようなので、使いの者をやって聞いてみると大方は鬼を見たものはいないということであった。暮れるまでの大騒ぎの果は喧嘩が起こり、浅ましい限りであった。

 その比、おしなべて、二三日、人のわづらふ事侍りしをぞ、かの、鬼の虚言は、このしるしを示すなりけりと言ふ人も侍りし。

 その頃、世間一般では、二、三日、人々が患うことがあったではないかと、あの鬼の流言はこの前兆を表す出来事だったという人がいた。


 千駄ヶ谷の街を一人の青年が歩いていた。その青年を取り囲み、棍棒を握りしめ、目の血走った民衆が「お前は朝鮮人じゃないのか」と問いただしていた。「否、私は日本人です。朝鮮人ではありません」と拝むように言う青年は無罪放免された。
 1923年(大正12年)9月1日、相模湾で大地震が起きた。この地震のマグニチュード(M)は 7.9。震央は相模湾の北西部。家屋倒壊率の高かった地域は湘南地方,三浦半島,房総半島南部であるが,震災は東京を中心に千葉,埼玉,静岡,山梨,茨城,長野,栃木,群馬の各県に及んだ。死者・行方不明者は従来,約 14万2000人あまりが亡くなった。これが関東大震災である。
 日本政府は治安が乱れた背景に朝鮮人と社会主義者がいると宣伝し,朝鮮人虐殺,大杉栄らの虐殺,亀戸事件,社会主義者弾圧などが起こった。
 朝鮮人が井戸に毒を投げ入れたという流言飛語が飛び交い、在日朝鮮人を日本人民衆が虐殺した歴史がある。この事件に千駄ヶ谷で遭遇したのが若き日の千田是也であるという。かれは後に千駄ヶ谷での事件を恥じ、ペンネームを千駄ヶ谷のコレヤ(朝鮮人)、千田是也にしたという話を聞いたことがある。
 朝鮮人が日本人民衆に襲撃され、多数の死傷者がでたという黒の歴史が日本にはある。今も新聞やテレビには流言飛語に類するようなニュースは流れていないのかというとそうでもないようだ。韓国や中国の経済は破綻寸前であるかのようなニュースがあるが、そのニュースは真実なのかどうか、疑問だ。そのようなニュースがあるからこそなのだろう。ソフトバンクの孫正義氏は、東日本大震災が起きた時、直ちに100億円の義援金を申し出た。この孫正義氏の100憶円の義援金提出は在日朝鮮人たちへの生命保険だったと在日朝鮮人の方々が話し合っているのを私は聞いた。日本の財界人で他に100憶円に匹敵する寄付をした人を私は知らない。

醸楽庵だより   1221号   白井一道

2019-10-20 11:43:40 | 随筆・小説



    徒然草49段 『老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ』




 老来りて、始めて道を行(ぎやう)ぜんと待つことなかれ。古き墳、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病を受けて、忽(たちま)ちにこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔(くや)しきなり。その時悔ゆとも、かひあらんや。

 もう少し、年取ってからでいいだろうと仏道修行を始めるのを待つようなことをしてはならない。昔の墓の多くはみな少年のものだ。思わぬ病をえて、たちまちこの世を去ろうとする時になって初めて今まで間違った考えをしていたと気付くことになるだろう。誤りは他でもない。今すぐしなければならない事をせず、どうでもいいことに夢中になり、あんな事をしなければ良かったと後悔することになる。その時になって後悔しても後悔先に立たずだ。

 人は、たゞ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤(つと)むる心もまめやかならざらん。

 世が無常迅速だと言うことを人は、ただ心にしっかり持って身に迫ってくることを束の間も忘れることがあってはならない。そのように心がけるならば、この世の濁りに染まることも少なく、仏道修行に励む心も生まれてくるであろう。

 「昔ありける聖は、人来りて自他の要事を言ふ時、答へて云はく、『今、火急(かわきふ)の事ありて、既に朝夕(ちょうせき)に逼れり』とて、耳をふたぎて念仏して、つひに往生を遂げけり」と、禅林の十因(じふいん)に侍り。心戒といひける聖は、余りに、この世のかりそめなる事を思ひて、静かについゐけることだになく、常はうづくまりてのみぞありける。


 三界六道には、心安く、尻さしすゑてゐるべき所なきゆゑ也」『一言芳談』

 あるひと云く、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくとも候、なうなうとうたひけり。その心を人にしひ問はれて云く、生死無常の有り様を思ふに、この世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけたまへと申すなり、云々。『一言芳談』

 昔の修行僧は、人がやって来て自他の用事を言うのを聞いて、『今、火急の用事がありますので、既に朝夕(ちょうせき)に逼っております』と言って耳を塞いで念仏を唱え続けて、ついに往生を遂げたと、『往生十因』という本にある。心戒という上人(しょうにん)は、余りにもこの世のはかなさを思い、静かに安座することなく、常にしゃがんだままであったという。

 宗教と政治は若者を夢中にさせる。若者が大人になることが難しい。難しいが故に若者はつまずく。ただ大半の若者は親を見習い、親の真似をしているうちに親と同じような大人になっていく。しかし親と同じような大人になりはぐる少数者がいる。それらの少数氏が頼るのが宗教と政治なのではないかと感じている。
 今、マルクス主義に興味を抱く若者はいないようだ。1960年代後半、マルクス主義に興味を抱く若者がいた。全体から見れば少数者であった。大半の若者はマルクス主義などに興味を抱く若者は少数者であった。大学にあっても多数者は無関心、興味・関心の中心は実存主義というのが知的若者の多数者だったのではないかと思う。
 マルクス主義にかぶれた少数の学生が派手な行いをした結果、目立っただけなのじゃないかと思う。私自身、マルクス主義に興味関心を持ったがこのような運動によって社会が大きく変わることはないという実感があった。特に就職する時期が近づいてくるとマルクス主義などどうでもよいものになっていた。就職試験の勉強とアルバイトに勤しみ、マルクス主義など、どうでもよいものになっていた。ただ一時期、強き引き付けられるものがあっただけだ。

醸楽庵だより   1220号   白井一道

2019-10-19 10:27:15 | 随筆・小説



    徒然草48段 『光親卿、院の最勝講奉行してさぶらひけるを、』


 
 光親卿(みつちかのきやう)、院の最勝講奉行(さいしょうきやうぶぎやう)してさぶらひけるを、御前(ごぜん)へ召されて、供御(ぐご)を出だされて食(く)はせられけり。さて、食ひ散らしたる衝重(ついがさね)を御簾(みす)の中へさし入れて、罷(まか)り出(い)でにけり。女房、「あな汚な。誰(たれ)にとれとてか」など申し合はれければ、「有職(いうしよく)の振舞、やんごとなき事なり」と、返々(かへすがへす)感ぜさせ給ひけるとぞ。

 藤原光親卿は後鳥羽上皇のおられた仙洞御所において最勝講の奉行の役をしていると、御前のところへ行くよう促され、御膳を出されて、ご馳走になった。さて、食い散らかした御膳を御簾の中にさし入れて出てこられた。女房たちは「まぁー汚いこと、誰に片付けよと言うのかしらと」と言い合っていると上皇は「これこそ故実をわきまえた振る舞い、立派なものだ」と返すがえすも感心したということである。

 特攻兵たちの「最後の晩餐」は食い散らかし、最後はすべて食器を壊し、酒を飲み尽くし、歌を吠え尽くすどんちゃん騒ぎをして終わったという。興奮した精神の絶頂状態を維持することによって肉弾戦が実現した。人間を死に追いやる残酷な作戦が今も昔も行われていたということを『徒然草48段』を読んで思った。
 軍神として崇められる裏には残酷な儀式があった。
藤原光親は承久の乱において斬首されている。藤原光親について『ウィキペディア(Wikipedia)』は次のように説明している。
「光親は後鳥羽院の側近として年預別当や、順徳天皇の執事、近衛家実や藤原麗子の家司なども務めた。
承久3年(1221年)に承久の乱が起こると、光親は北条義時討伐の院宣を後鳥羽院の院司として執筆するなど、後鳥羽上皇方の中心人物として活動。しかし実際は上皇の倒幕計画の無謀さを憂いて幾度も諫言していたが、後鳥羽上皇に聞き入れられることはなかった。
光親は清廉で純潔な心の持ち主で、同じく捕らえられた同僚の坊門忠信の助命が叶ったと知った時、心から喜んだといわれるほど清廉で心の美しい人物だったという。『吾妻鏡』によれば、光親は戦後に君側の奸として捕らえられ、甲斐の加古坂(現在の籠坂峠、山梨県南都留郡山中湖村)において処刑される。享年46。処刑の直前に出家して西親と号する。甲斐源氏の一族・武田信光は光親を鎌倉へ連行する途中・駿河国車返の付近で鎌倉使の命を受け、光親を斬首した。
北条泰時はその死後に光親が上皇を諌めるために執筆した諫状を目にし、光親を処刑した事を酷く悔やんだという。ただし、院宣の執筆行為と伝奏として院宣発給の事実を太政官に連絡し、それを元にして太政官においても義時追討の官宣旨が作成されていることから、公家の中でも最も重い罪に問われたと考えられている」。
この承久の乱によって最終的に古代天皇制権力は崩壊し、明治維新になるまで武家政権が存続することになる。このことは同時に日本の古代社会は崩壊し、中世封建制社会が不動の体制になったということを意味している。
源頼朝が御家人制度を作り上げ、日本の中世封建制度の基盤をつくったが日本全国を網羅することはなかった。源氏政権が成立し、北条政権が成立するまでの時期は日本の古代社会が崩壊し、中世封建社会が成立する過渡期だ。
日本の古代社会は点と線を支配した国家であったが、中世社会になると面的な広がりを支配する国家が成立してくる。それが封建社会であった。兼好法師が生きた時代は日本の封建社会が生成してくる時代であった。滅びゆく古代天皇制権力は実質的な政治権力を失い、権威としての天皇の位のみが存続するようになっていく。
時代の変化はそれ以前の社会と比べると速くはなったが、後の時代と比べると遅々としていた。時代の変化は時代と共に加速度的に速くなっていくようである。現代社会は兼好法師が生きた時代とは比べ物のないほど、速い。
時代の変化を鋭く感じていた兼好法師はその思いを書き残しているのではないかと私は考えている。後鳥羽上皇が政治権力を失っていく過程での話が『徒然草48段』だと思う。

醸楽庵だより   1219号   白井一道

2019-10-18 10:20:58 | 随筆・小説



    徒然草47段 『或人、清水へ参りけるに、』



 或人、清水(きよみづ)へ参りけるに、老いたる尼の行き連れたりけるが、道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、応へもせず、なほ言ひ止まざりけるを、度々問はれて、うち腹立ちて、「やゝ。鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君(やしなひのきみ)の、比叡山に児にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はんと思へば、かく申すぞかし」と言ひけり。有り難き志なりけんかし。

 或る人が清水寺へのお参りに、年取った尼と道ずれになり行ったところ、道々「くさめくさめ」と言って行くので「尼さん、何をそんなにおっしゃっておられるのですか」と問うても、応えないところか、言い止めることがない、度々問われて腹を立てたのか「うるさい。くしゃみした時、このように呪(まじ)なわなければ死ぬると世間では申すので、養育申し上げた貴人の若君が比叡山に児としておりますので、ただ今もくしゃみをしてはいないかと思うから、このように言っていますのじゃ」とおっしゃった。なんと有難い志かなと思った次第だ。


 『徒然草47段』を読み、太宰治の『津軽』を思い出した。30年ぶりに養母たけを尋ねた所を抜き書きをしてみる。
「「越野たけ、といふ人を知りませんか。」私はバスから降りて、その辺を歩いてゐる人をつかまへ、すぐに聞いた。
「こしの、たけ、ですか。」国民服を着た、役場の人か何かではなからうかと思はれるやうな中年の男が、首をかしげ、「この村には、越野といふ苗字の家がたくさんあるので。」
「前に金木にゐた事があるんです。さうして、いまは、五十くらゐのひとなんです。」私は懸命である。
「ああ、わかりました。その人なら居ります。」
「ゐますか。どこにゐます。家はどの辺です。」
 私は教へられたとほりに歩いて、たけの家を見つけた。間口三間くらゐの小ぢんまりした金物屋である。東京の私の草屋よりも十倍も立派だ。店先にカアテンがおろされてある。いけない、と思つて入口のガラス戸に走り寄つたら、果して、その戸に小さい南京錠が、ぴちりとかかつてゐるのである。他のガラス戸にも手をかけてみたが、いづれも固くしまつてゐる。留守だ。私は途方にくれて、汗を拭つた。引越した、なんて事は無からう。どこかへ、ちよつと外出したのか。いや、東京と違つて、田舎ではちよつとの外出に、店にカアテンをおろし、戸じまりをするなどといふ事は無い。二、三日あるいはもつと永い他出か。こいつあ、だめだ。たけは、どこか他のへ出かけたのだ。あり得る事だ。家さへわかつたら、もう大丈夫と思つてゐた僕は馬鹿であつた。私は、ガラス戸をたたき、越野さん、越野さん、と呼んでみたが、もとより返事のある筈は無かつた。溜息をついてその家から離れ、少し歩いて筋向ひの煙草屋にはひり、越野さんの家には誰もゐないやうですが、行先きをご存じないかと尋ねた。そこの痩せこけたおばあさんは、運動会へ行つたんだらう、と事もなげに答へた。私は勢ひ込んで、
「それで、その運動会は、どこでやつてゐるのです。この近くですか、それとも。」
 すぐそこだといふ。この路をまつすぐに行くと田圃に出て、それから学校があつて、運動会はその学校の裏でやつてゐるといふ。
「けさ、重箱をさげて、子供と一緒に行きましたよ。」
「さうですか。ありがたう。」
 教へられたとほりに行くと、なるほど田圃があつて、その畦道を伝つて行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立つてゐる。その学校の裏に廻つてみて、私は、呆然とした。こんな気持をこそ、夢見るやうな気持といふのであらう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、いま目の前で行はれてゐるのだ。まづ、万国旗。着飾つた娘たち。あちこちに白昼の酔つぱらひ。さうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎつしりと立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなつたと見えて、運動場を見下せる小高い丘の上にまで筵むしろで一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、さうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはん食べながら、大陽気で語り笑つてゐるのである。日本は、ありがたい国だと、つくづく思つた。たしかに、日出づる国だと思つた。国運を賭しての大戦争のさいちゆうでも、本州の北端の寒村で、このやうに明るい不思議な大宴会が催されて居る。古代の神々の豪放な笑ひと闊達な舞踏をこの本州の僻陬に於いて直接に見聞する思ひであつた。海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果の砂丘の上に、華麗なお神楽が催されてゐたといふやうなお伽噺の主人公に私はなつたやうな気がした。さて、私は、この陽気なお神楽の群集の中から、私の育ての親を捜し出さなければならぬ。わかれてから、もはや三十年近くなるのである。眼の大きい頬ぺたの赤いひとであつた。右か、左の眼蓋の上に、小さい赤いほくろがあつた。私はそれだけしか覚えてゐないのである。逢へば、わかる。その自信はあつたが、この群集の中から捜し出す事は、むづかしいなあ、と私は運動場を見廻してべそをかいた。どうにも、手の下しやうが無いのである。私はただ、運動場のまはりを、うろうろ歩くばかりである。
「越野たけといふひと、どこにゐるか、ご存じぢやありませんか。」私は勇気を出して、ひとりの青年にたづねた。「五十くらゐのひとで、金物屋の越野ですが。」それが私のたけに就いての知識の全部なのだ。
「金物屋の越野。」青年は考へて、「あ、向うのあのへんの小屋にゐたやうな気がするな。」
「さうですか。あのへんですか?」
「さあ、はつきりは、わからない。何だか、見かけたやうな気がするんだが、まあ、捜してごらん。」
 その捜すのが大仕事なのだ。まさか、三十年振りで云々と、青年にきざつたらしく打明け話をするわけにも行かぬ。私は青年にお礼を言ひ、その漠然と指差された方角へ行つてまごまごしてみたが、そんな事でわかる筈は無かつた。たうとう私は、昼食さいちゆうの団欒の掛小屋の中に、ぬつと顔を突き入れ、
「おそれいります。あの、失礼ですが、越野たけ、あの、金物屋の越野さんは、こちらぢやございませんか。」
「ちがひますよ。」ふとつたおかみさんは不機嫌さうに眉をひそめて言ふ。
「さうですか。失礼しました。どこか、この辺で見かけなかつたでせうか。」
「さあ、わかりませんねえ。何せ、おほぜいの人ですから。」
 私は更にまた別の小屋を覗いて聞いた。わからない。更にまた別の小屋。まるで何かに憑かれたみたいに、たけはゐませんか、金物屋のたけはゐませんか、と尋ね歩いて、運動場を二度もまはつたが、わからなかつた。二日酔ひの気味なので、のどがかわいてたまらなくなり、学校の井戸へ行つて水を飲み、それからまた運動場へ引返して、砂の上に腰をおろし、ジヤンパーを脱いで汗を拭き、老若男女の幸福さうな賑はひを、ぼんやり眺めた。この中に、ゐるのだ。たしかに、ゐるのだ。いまごろは、私のこんな苦労も何も知らず、重箱をひろげて子供たちに食べさせてゐるのであらう。いつそ、学校の先生にたのんで、メガホンで「越野たけさん、御面会。」とでも叫んでもらはうかしら、とも思つたが、そんな暴力的な手段は何としてもイヤだつた。そんな大袈裟な悪ふざけみたいな事までして無理に自分の喜びをでつち上げるのはイヤだつた。縁が無いのだ。神様が逢ふなとおつしやつてゐるのだ。帰らう。私は、ジヤンパーを着て立ち上つた。また畦道を伝つて歩き、村へ出た。運動会のすむのは四時頃か。もう四時間、その辺の宿屋で寝ころんで、たけの帰宅を待つてゐたつていいぢやないか。さうも思つたが、その四時間、宿屋の汚い一室でしよんぼり待つてゐるうちに、もう、たけなんかどうでもいいやうな、腹立たしい気持になりやしないだらうか。私は、いまのこの気持のままでたけに逢ひたいのだ。しかし、どうしても逢ふ事が出来ない。つまり、縁が無いのだ。はるばるここまでたづねて来て、すぐそこに、いまゐるといふ事がちやんとわかつてゐながら、逢へずに帰るといふのも、私のこれまでの要領の悪かつた生涯にふさはしい出来事なのかも知れない。私が有頂天で立てた計画は、いつでもこのやうに、かならず、ちぐはぐな結果になるのだ。私には、そんな具合のわるい宿命があるのだ。帰らう。考へてみると、いかに育ての親とはいつても、露骨に言へば使用人だ。女中ぢやないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして、昔の女中を慕つて、ひとめ逢ひたいだのなんだの、それだからお前はだめだといふのだ。兄たちがお前を、下品なめめしい奴と情無く思ふのも無理がないのだ。お前は兄弟中でも、ひとり違つて、どうしてこんなにだらしなく、きたならしく、いやしいのだらう。しつかりせんかい。私はバスの発着所へ行き、バスの出発する時間を聞いた。一時三十分に中里行きが出る。もう、それつきりで、あとは無いといふ事であつた。一時三十分のバスで帰る事にきめた。もう三十分くらゐあひだがある。少しおなかもすいて来てゐる。私は発着所の近くの薄暗い宿屋へ這入つて、「大急ぎでひるめしを食べたいのですが。」と言ひ、また内心は、やつぱり未練のやうなものがあつて、もしこの宿が感じがよかつたら、ここで四時頃まで休ませてもらつて、などと考へてもゐたのであるが、断られた。けふは内の者がみな運動会へ行つてゐるので、何も出来ませんと病人らしいおかみさんが、奥の方からちらと顔をのぞかせて冷い返辞をしたのである。いよいよ帰ることにきめて、バスの発着所のベンチに腰をおろし、十分くらゐ休んでまた立ち上り、ぶらぶらその辺を歩いて、それぢやあ、もういちど、たけの留守宅の前まで行つて、ひと知れず今生こんじやうのいとま乞ひでもして来ようと苦笑しながら、金物屋の前まで行き、ふと見ると、入口の南京錠がはづれてゐる。さうして戸が二、三寸あいてゐる。天のたすけ! と勇気百倍、グワラリといふ品の悪い形容でも使はなければ間に合はないほど勢ひ込んでガラス戸を押しあげ、
「ごめん下さい、ごめん下さい。」
「はい。」と奥から返事があつて、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。私は、その子の顔によつて、たけの顔をはつきり思ひ出した。もはや遠慮をせず、土間の奥のその子のそばまで寄つて行つて、
「金木の津島です。」と名乗つた。
 少女は、あ、と言つて笑つた。津島の子供を育てたといふ事を、たけは、自分の子供たちにもかねがね言つて聞かせてゐたのかも知れない。もうそれだけで、私とその少女の間に、一切の他人行儀が無くなつた。ありがたいものだと思つた。私は、たけの子だ。女中の子だつて何だつてかまはない。私は大声で言へる。私は、たけの子だ。兄たちに軽蔑されたつていい。私は、この少女ときやうだいだ。
「ああ、よかつた。」私は思はずさう口走つて、「たけは? まだ、運動会?」
「さう。」少女も私に対しては毫末の警戒も含羞もなく、落ちついて首肯き、「私は腹がいたくて、いま、薬をとりに帰つたの。」気の毒だが、その腹いたが、よかつたのだ。腹いたに感謝だ。この子をつかまへたからには、もう安心。大丈夫たけに逢へる。もう何が何でもこの子に縋つて、離れなけれやいいのだ。
「ずいぶん運動場を捜し廻つたんだが、見つからなかつた。」
「さう。」と言つてかすかに首肯き、おなかをおさへた。
「まだ痛いか。」
「すこし。」と言つた。
「薬を飲んだか。」
 黙つて首肯く。
「ひどく痛いか。」
 笑つて、かぶりを振つた。
「それぢやあ、たのむ。僕を、これから、たけのところへ連れて行つてくれよ。お前もおなかが痛いだらうが、僕だつて、遠くから来たんだ。歩けるか。」
「うん。」と大きく首肯いた。
「偉い、偉い。ぢやあ一つたのむよ。」
 うん、うんと二度続けて首肯き、すぐ土間へ降りて下駄をつつかけ、おなかをおさへて、からだをくの字に曲げながら家を出た。
「運動会で走つたか。」
「走つた。」
「賞品をもらつたか。」
「もらはない。」
 おなかをおさへながら、とつとと私の先に立つて歩く。また畦道をとほり、砂丘に出て、学校の裏へまはり、運動場のまんなかを横切つて、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはひり、すぐそれと入違ひに、たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。
「修治だ。」私は笑つて帽子をとつた。
「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、へんに、あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思ふ事が無かつた。もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。先年なくなつた私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であつたが、このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。世の中の母といふものは、皆、その子にこのやうな甘い放心の憩ひを与へてやつてゐるものなのだらうか。さうだつたら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまつてゐる。そんな有難い母といふものがありながら、病気になつたり、なまけたりしてゐるやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。
 たけの頬は、やつぱり赤くて、さうして、右の眼蓋の上には、小さい罌粟粒ほどの赤いほくろが、ちやんとある。髪には白髪もまじつてゐるが、でも、いま私のわきにきちんと坐つてゐるたけは、私の幼い頃の思ひ出のたけと、少しも変つてゐない。あとで聞いたが、たけが私の家へ奉公に来て、私をおぶつたのは、私が三つで、たけが十四の時だつたといふ。それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教へられたのであるが、けれども、私の思ひ出の中のたけは、決してそんな、若い娘ではなく、いま眼の前に見るこのたけと寸分もちがはない老成した人であつた。これもあとで、たけから聞いた事だが、その日、たけの締めてゐたアヤメの模様の紺色の帯は、私の家に奉公してゐた頃にも締めてゐたもので、また、薄い紫色の半襟も、やはり同じ頃、私の家からもらつたものだといふ事である。そのせゐもあつたのかも知れないが、たけは、私の思ひ出とそつくり同じ匂ひで坐つてゐる。だぶん贔屓目であらうが、たけはこの漁村の他のアバ(アヤの Femme)たちとは、まるで違つた気位を持つてゐるやうに感ぜられた。着物は、縞の新しい手織木綿であるが、それと同じ布地のモンペをはき、その縞柄は、まさか、いきではないが、でも、選択がしつかりしてゐる。おろかしくない。全体に、何か、強い雰囲気を持つてゐる。私も、いつまでも黙つてゐたら、しばらく経つてたけは、まつすぐ運動会を見ながら、肩に波を打たせて深い長い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかつた。でも、やはり黙つてゐた。
 たけは、ふと気がついたやうにして、
「何か、たべないか。」と私に言つた。
「要らない。」と答へた。本当に、何もたべたくなかつた。
「餅があるよ。」たけは、小屋の隅に片づけられてある重箱に手をかけた。
「いいんだ。食ひたくないんだ。」
 たけは軽く首肯いてそれ以上すすめようともせず、
「餅のはうでないんだものな。」と小声で言つて微笑んだ。三十年ちかく互ひに消息が無くても、私の酒飲みをちやんと察してゐるやうである。不思議なものだ。私がにやにやしてゐたら、たけは眉をひそめ、
「たばこも飲むなう。さつきから、立てつづけにふかしてゐる。たけは、お前に本を読む事だば教へたけれども、たばこだの酒だのは、教へねきやなう。」と言つた。油断大敵のれいである。私は笑ひを収めた。
 私が真面目な顔になつてしまつたら、こんどは、たけのはうで笑ひ、立ち上つて、
「竜神様りゆうじんさまの桜でも見に行くか。どう?」と私を誘つた。
「ああ、行かう。」
 私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登つた。砂山には、スミレが咲いてゐた。背の低い藤の蔓も、這ひ拡がつてゐる。たけは黙つてのぼつて行く。私も何も言はず、ぶらぶら歩いてついて行つた。砂山を登り切つて、だらだら降りると竜神様の森があつて、その森の小路のところどころに八重桜が咲いてゐる。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取つて、歩きながらその枝の花をむしつて地べたに投げ捨て、それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切つたみたいに能弁になつた。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、庫くらの石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺むがしこ語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、愛めごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。
「子供は?」たうとうその小枝もへし折つて捨て、両肘を張つてモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人。」
 私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかつて、ひとりだ、と答へた。
「男? 女?」
「女だ。」
「いくつ?」
 次から次と矢継早に質問を発する。私はたけの、そのやうに強くて不遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。きやうだい中で、私ひとり、粗野で、がらつぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だつたといふ事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはつきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。だうりで、金持ちの子供らしくないところがあつた。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、さうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕へてゐるが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にゐた事がある人だ。私は、これらの人と友である。
『津軽』青空文庫より

醸楽庵だより   1218号   白井一道

2019-10-17 12:03:13 | 随筆・小説



   徒然草46段 『柳原の辺に、強盗法印と号する僧ありけり』



 柳原の辺に、強盗法印と号する僧ありけり。度々強盗にあひたるゆゑに、この名をつけにけるとぞ。

 今の京都市上京区柳原町のあたりに強盗法印と綽名のついた僧侶がいた。度々そこに強盗が出たためにこの名が付いたと言うことだ。


『ウィキペディア(Wikipedia)』より
 警察官ネコババ事件 
1988年に大阪府堺南警察署(現在の西堺警察署)槙塚台派出所(現在の南堺警察署槙塚台交番)の巡査が拾得物の現金15万円を着服(ネコババ)した事件である。
堺南署は、身内の不祥事を隠蔽するため、現金を届けた妊婦に着服のぬれぎぬを着せ、組織ぐるみで犯人に仕立てあげようとした。
1988年2月6日午前11時40分ごろ、大阪府堺市のスーパー経営者の妻は、店内に落ちていた15万円入りの封筒を、近くの大阪府堺南警察署(以下「堺南署」)槙塚台派出所に届け出た。派出所には巡査が一人いたので、15万円入りの封筒を拾った事を告げると、巡査は「その封筒なら紛失届が出ている」と言い、封筒を受けとった。この時、巡査は主婦の名前をメモに書いただけで、遺失物法に基づき作成が義務の「拾得物件預り書」を渡さなかった。主婦は不審に思ったが、深くは追及せず帰宅した。届け出た現金15万円は遺失物扱いとならずそのまま着服(ネコババ)される事となる。
それから3日が経っても、警察から落とし主に封筒を渡したとの連絡が来なかったので、主婦は不審に思い、堺南署に確認の電話をかけた。しかし、署員は「そんな封筒は受理していない」と答えた。この時点で、現金が何者かによって着服された事実が明らかになり、“偽警官”による詐取の可能性を捜査する一方、主婦も事情聴取を受けることとなった。主婦を聴取した刑事課員は、「シロ」と判断し、上司に報告した。
主婦が無実であれば、必然的に派出所の勤務者が着服したことになるため、堺南署幹部の間で大きな問題となった。部下の不祥事の発覚を恐れた幹部らは、主婦を犯人に仕立て上げ、事実を隠蔽するという方針を固めた。署長の指示の下、8人もの捜査員で専従捜査班が編成され、着々と捜査が進んでいった。捜査班は、いるはずのない証人や、存在するはずのない物的証拠を次々と「発見」していった。
同時に、捜査班は主婦の取調べを執拗に行った。主婦は妊娠中であり、取調べには細心の注意が必要であったにもかかわらず、警察官はありもしない罪の自白を厳しく迫った。主婦はノイローゼに陥るなど、精神的に極めて深刻な状態にまで追い詰められた。
一向にして主婦から(存在しない)自白を引き出せない取り調べ状況に痺れを切らした堺南署は、主婦の逮捕に踏み切ることを決定、大阪地方裁判所に逮捕状を請求しようとするも、主婦のかかりつけの産科医の猛反対や、証拠不十分による逮捕に関して大阪地方検察庁堺支部からの疑念(主婦が着服したのならば、わざわざ警察に連絡することが全く矛盾している点)があり、結局この請求は却下された。
この頃、読売新聞の記者がこの事件を耳にした。記者は事件の詳しい経緯を取材し、社会面に大きく特集記事を掲載した。この時点でようやく堺南署が何をしているか把握した大阪府警察は、事件を堺南署から、横領など知能犯事件を担当する本部捜査第二課に移管させ、改めて捜査を始めた。
そして3月25日、再捜査の結果をもとに、本部が巡査の着服を認めたため、主婦の冤罪は晴れることとなった。
大阪府警は、再捜査後の記者会見においてもなお隠蔽する姿勢を見せ、「無関係の市民を容疑者と誤認し…」と事実と異なる発表をしたが、即座に記者たちから猛烈な抗議の声が上がり、「誤認」という言葉を取り消した。記者会見実施の翌日の報道では「誤認ならぬ、『確信』」としたものもあった。また、明らかに無実と知っていながら、逮捕状を請求したことに対しては「(警察関係者による)逮捕監禁未遂ではないのか?」との声も寄せられた。
その後の顛末[
主婦の家族は、大阪府警を相手取り、慰謝料請求の民事訴訟を大阪地方裁判所に起こした。詳しい事実関係が裁判で明らかになるのを恐れた大阪府警は、口頭弁論で請求を認諾した。これに対して、原告側の主婦とその家族と、被告側の大阪府警は双方ともに控訴せず、事実上の和解となり、民事訴訟確定後に慰謝料200万円を支払った。主婦は全額を冤罪防止運動団体に寄付した。
この慰謝料相当額は、当時の府警幹部により大阪府に弁済されている。
処分
大阪府警察は、当時の堺南署長を減給に処し、署長はこれを受けて引責辞職。同署副署長は戒告と警務部付に、警邏課長も戒告と部付に更迭、刑事課長を厳重注意処分とした。また、これとは別に国家公安委員会も府警本部長ら幹部に対し減給の懲戒処分を決定した。新田勇・警察本部長は減給100分の10、警務部長は減給100分の10、派出所長で直属上司の巡査部長は引責辞職した。そして着服したN巡査は懲戒免職にされ業務上横領罪で大阪地検に送致されたが、1989年4月7日、起訴猶予処分となった。

醸楽庵だより   1217号   白井一道

2019-10-16 12:11:52 | 随筆・小説



    徒然草45段 『公世の二位のせうとに、』



 公世(きんよ)の二位(にゐ)のせうとに、良覚僧正(りやうがくそうじやう)と聞えしは、極めて腹あしき人なりけり。

 従二位藤原公世(ふじわらのきんよ)の兄、良覚僧正(りやうがくそうじやう)と言われた方は、極めて腹を立てる方であった。

 坊の傍に、大きなる榎の木のありければ、人、「榎木僧正(えのきのそうじょう)」とぞ言ひける。この名然るべからずとて、かの木を伐られにけり。その根のありければ、「きりくひの僧正」と言ひけり。いよいよ腹立ちて、きりくひを掘り捨てたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀池僧正」とぞ言ひける。

 良覚僧正の僧房の傍らに榎の大木があったので、人々は「榎木僧正」と呼んでいた。この綽名はけしからんと言って榎の大木を切り倒した。その榎の根があったので人々は「切り株の僧正」と言った。いよいよ良覚僧正は腹を立て、切り株を掘り起こし、捨てるとその跡に大きな堀ができた。すると「堀池僧正」と人々は言うようなった。

 庶民は誰を笑ったのか。それは権力者を民衆は笑った。政治権力と結びついた仏教寺院の僧正たちを庶民は笑った。
教室で偉そうなことを言っている教師が権力者の前で、ペコペコ頭を下げている。この教師を見て、教師の名を呼び捨てにして馬鹿にする高校生がいる。
 日本国民は権力者安倍晋三首相を笑う。国会見学ツアーに参加した小学生が安倍首相に質問した。
「安倍さんはどうして政治家になったんですか」
「父も祖父もこの仕事をしていたので、この職に就いたんですよ」と安倍首相は答えたという。
「福島原子力発電所から出ている汚染水の影響は完全にアンダーコントロールされています」
「完全にアンダーコントロールされているのは自由な報道です」
「福島汚染水の状況はコントロールできており、東京には何の影響も与えない状況になっています」
「コントロールされているのは、マスコミです」
「日本の原発技術は世界一安全です。福島原発事故をコントロールしたのですから」
「世界中に原発輸出の訪問販売をしました」
「世界中どこの国も日本の原発を買ってくれる国はありませんでした」
「安倍首相は世界中で一番アメリカ大統領からの信頼が厚い首相です」
「トランプアメリカ大統領は安倍首相には一言も 文在寅韓国大統領と一緒に板門店に行くと言う話をすることなく、日本を去って行った」
「外交の安倍といわれています。ロシア大統領プーチンとは20数回も会談をしています」
「20数回も安倍首相はプーチンロシア大統領と会談をしているにもかかわらず、歯舞色丹島すら返還されることはありませんでした」
「安倍首相はトランプアメリカ大統領と会談し、ウィンウィンの貿易交渉を実現しました」
「日本政府はアメリカ産大豆、中国への輸出ができなくなった大豆を買わせられる羽目になりました」
 安倍晋三氏を笑い倒そうというコメディアンがいる。松元ヒロさんである。昭和の終盤、『歌舞音曲の自粛』によって仕事が全部キャンセルになったんです。『ご時勢ですから』の一言で片付けられるにはおかしいという不満が転じて、時事ネタを扱うコント集団『ザ・ニュースペーパー』を仲間たちと旗揚げしました」集団から独立後も、一貫して権力者を揶揄し続けてきた。初の著書でも、安倍政権に抗議の声を上げる。「最近、政治ネタがよくウケるんですよ。今の世の中、閉塞感がただよっていて、軍国化していきそうなこわばりがある。そこから解放してくれるのが笑い。お客さんが拍手して笑うことで、『もっと言ってくれ!』と要求するのを感じますと松元ヒロさんは述べている。
ヒロさんは「何を、誰を笑うのか」という基準は「笑いの矛先を自分よりも弱者に向けてはいけない。抗う術がないものにむけてはいけない。相手の尊厳を貶め、いたずらに人を傷つけるものであってはいけない。理不尽な社会に対する武器なんだと思っていないと、暴力装置になってしまう」と言っている。
庶民の笑いは暴力でもあるということを松元ヒロさんは自覚している。弱者を笑う演芸は真の演芸ではないのだろう。

醸楽庵だより   1216号   白井一道

2019-10-15 11:09:27 | 随筆・小説



    徒然草44段   『あやしの竹の編戸の内より、』



 あやしの竹の編戸の内より、いと若き男の、月影に色あひさだかならねど、つやゝかなる狩衣に濃き指貫(さしぬき)、いとゆゑづきたるさまにて、さゝやかなる童ひとりを具して、遥かなる田の中の細道を、稲葉の露にそぼちつゝ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かん方知らまほしくて、見送りつゝ行けば、笛を吹き止みて、山のきはに惣門のある内に入りぬ。榻(しぢ)に立てたる車の見ゆるも、都よりは目止る心地して、下人(しもうど)に問へば、「しかしかの宮のおはします比にて、御仏事など候ふにや」と言ふ。

 粗末な竹の編戸の内から、とても若い男の、月影に色合いははっきりしないが艶やかな狩衣に濃い紫色の袴、なかなか整った風情のある様子で、小柄な少年を一人供に連れ、どこまでも続く田の中の細い道を、稲葉の露に濡れつつ分け行くほどに、えとも言えないような美しい笛を吹いている、いい笛の音だと聞いて分かる人もいるまいとは思うが、どこに行くのかが知りたくて、見送りしながらついて行くと、笛吹くのを止めて、山際に立派な大門のあるうちに入って行った。榻(しぢ)(牛車から牛を放した時に轅の端の軛を支えておく四脚の台)に轅(ながえ)をもたせかけた車が見えるのも、都よりは目に付いて、下人(しもうど)に聞くとこれこれという宮様がご滞在中でございまして、ご法事がございますのでしょうと言う。

 御堂の方に法師ども参りたり。夜寒の風に誘はれくるそらだきものの匂ひも、身に沁む心地す。寝殿より御堂の廊に通ふ女房の追風用意など、人目なき山里ともいはず、心遣ひしたり。

 持仏を安置する堂に法師たちがやって来た。夜寒の風に誘われてくる薫物(たきもの)の匂いも、身に沁みる気持ちになる。寝殿より御堂の廊下を通る女房が追い風に香の匂いを漂わす用意など、人目のない山里とも言えないような心遣いをしている。

 心のまゝに茂れる秋の野らは、置き余る露に埋もれて、虫の音かごとがましく、遣水の音のどやかなり。都の空よりは雲の往来も速き心地して、月の晴れ曇る事定め難し。

 思いのままに茂っている秋の野のような庭は、こぼれるほどの露に一面がおおわれ、虫の音が恨み言でも云うように、遣水の音がのどかに聞こえる。都の空より雲の往来が速いような気がして、月が晴れるのか、曇るのか、定め難い。


 兼好法師には次のような歌がある。
 「世の中の 秋田刈るまで なりぬれば 露も我が身も置きどころなし」
 秋の野では農民たちが稲刈りに夢中になっている。今まで稲葉に降りていた露は、これからどこに降りろと言うのか。もう露には降り処もない。世の中に飽き果てた自分もまた、この身の置き所をどこにしろというのか、どこにもありゃしないじゃないか。

 「月やどる露(つゆ)の手枕(たまくら) 夢さめて晩稲(おくて)の山田 秋風ぞ吹く」
 もう月光が部屋に射し入る時間になってしまったのか。露が木の葉に降りるように手枕で居眠りをしてしまった。夢から覚めて起きて見ると晩稲の山の中の田圃にはもう秋風が吹いて来ているではないか。

 「手枕の野辺(のべ)のはつ霜(しも)冴(さ)ゆる夜(よ)の寝ての朝(あさ)明(け)に残る月かげ」
 野辺にはもう初霜が降り、初霜が月明かりに冴える夜、朝起きて見ると空にはうっすらと月影が残っているではないか。

 田園生活を謳歌した兼好法師が詠んだ和歌には自然を愛する兼好法師の姿を知ることができる。

醸楽庵だより   1215号   白井一道

2019-10-14 12:07:09 | 随筆・小説



    徒然草43段 『春の暮つかた、のどやかに艶なる空に、』



 春の暮つかた、のどやかに艶なる空に、賎しからぬ家の、奥深く、木立もの古りて、庭に散り萎れたる花見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子皆おろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸のよきほどにあきたる、御簾の破れより見れば、かたち清げなる男の、年廿ばかりにて、うちとけたれど、心にくゝ、のどやかなるさまして、机の上に文をくりひろげて見ゐたり。

 晩春の頃、のどかで艶っぽい空に、みすぼらしくはない家の、奥深く、木立がどこか古びて、庭に散り萎れた花を見過ごすことができなくなり、ちょっと中に入って見て見ると、南向きの格子窓が皆閉められて寂しそうなのに、東に向いては両開きの扉がちょうどよい具合に開けられている、簾の破れから見ると姿かたちの清廉な男、年のころ二十歳ぐらい、打ち解けた態度が心憎いばかり、長閑なる様子で、机の上に本をゆったり開いて見ている。

 いかなる人なりけん、尋ね聞かまほし。

 どのような人なのか、尋ねてみたくなった。


 兼好法師の文章は一文が実に長い。「春の暮つかた」から「くりひろげて見ゐたり」までが一文になっている。どうしてこのように長いのか。「春の暮つかた、のどやかに艶なる空に」というように兼好法師の意識が流れていく。「賎しからぬ家の」というように意識が展開すると読者は何を作者は言おうとしているのか、興味、関心が喚起されていく。「奥深く、木立もの古りて」、作者の意識の流れに沿って読者もまた作者の意識の流れに沿って読み進んでいく。「庭に散り萎れたる花、見過しがたきを、さし入りて見れば」、作者は庭に散り萎れた花を見過ごすことができなくなり、思い切って「もの古り」た木立の中に入って見るとそこに発見したものが出てくる。このように作者、兼好法師は読者の気持ちを引っ張っていく。この意識の冗漫さのようなものが続いて行く中に文章の味わいが醸されていく。
 そこには一軒の家が建っている。南側の格子窓は皆、締め切られていて、寂しそうだが、東側にある出入り口の扉は開かれていて、そこに下ろされている簾のほころびから家の中を覗くと清潔な感じの二十歳くらいの青年が悠々自適にゆったりと読書をしている。その姿が心憎いばかりだと兼好法師は書いている。
 この青年を表現しているうちに長い一文の文章になってしまったということなのだと私は理解した。兼好法師は文章を書くことを楽しんでいる。今私が文章を書く楽しみを味わっているように兼好法師もまた文章を書くことが楽しかったに違いない。
 このように一文が長い文章の伝統というものは現代にまで影響を与えている。例えば泉鏡花の文章は一文が長い。泉鏡花の代表作『高野聖』は次のように書き出されている。
 「参謀(さんぼう)本部編纂(へんさん)の地図をまた繰開(くりひら)いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触わるさえ暑くるしい、旅の法衣の袖をかかげて、表紙を附つけた折本になってるのを引張り出した」。
「みるでもなかろう、と思ったけれども、あまりの道じゃから」と続いて行く。このような続きに『徒然草』の文章の影響のようなものが出ているように感じるのだ。このような文章は現代文の主流ではないように感じている。現代文の特徴は主語が一つ、述語が一つの文章にあるように考えている。このような文章が読者に負担を与えない文章なのではないかと思う。簡明にして単純な構成の文章が読みやすくも伝わりやすいと言うことだ。このような文章が多い中にあって敢て古い文章の形を真似て書く文章がある。野坂昭如の文章である。
 「もっと近うこな、風あるよって火ィ消えるよ」男は、痩せこけてはいても、まごうかたない女の脚に、お安の風体のすさまじさを見忘れ、いわれるまましゃがみこむと、お安はその肩あたりを寝巻きの裾でおおい、と、下半身がポウと明るく浮き出て、マッチ1本燃え尽きるまでの御開帳」。『マッチ売りの少女』野坂昭如著より
 この野坂昭如の文章には兼好法師や泉鏡花らの文章の影を見ることができるように感じている。「小説の神様」と言われた志賀直哉の文章、単文を重ねていく方法が主流ではあっても一文の長い文章もまた味わいがあるもののようだ。



 飛騨ひだから信州へ越こえる深山みやまの間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立こだちも無い、右も左も山ばかりじゃ、手を伸のばすと達とどきそうな峰みねがあると、その峰へ峰が乗り、巓いただきが被かぶさって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。

醸楽庵だより   1214号   白井一道

2019-10-13 11:47:32 | 随筆・小説



    徒然草42段 『唐橋中将といふ人の子に』



 唐橋中将(からはしちゅうじょう)といふ人の子に、行雅僧都(ぎょうがそうづ)とて、教相(けうさう)の人の師する僧ありけり。気(け)の上(あが)る病ありて、年のやうやう闌(た)くる程に、鼻の中ふたがりて、息も出で難かりければ、さまざまにつくろひけれど、わづらはしくなりて、目・眉・額なども腫れまどひて、うちおほひければ、物も見えず、二の舞の面(おもて)のやうに見えけるが、たゞ恐ろしく、鬼の顔になりて、目は頂(いただき)の方につき、額のほど鼻になりなどして、後は、坊の内の人にも見えず籠りゐて、年久しくありて、なほわづらはしくなりて、死ににけり。

 近衛中将の唐橋という人の子に僧正に次ぐ位にある行雅僧都(ぎょうがそうづ)という方がおられた。真言密教の教理を教え、研究されている僧侶であられた。時に逆上する病を持ち、徐々に年の盛りが過ぎゆくうちに鼻の中がふさがり、息もしにくくなり、さまざまな治療を施したけれども、病状が進み、目・眉・額なども腫れて、顔全体を覆ってしまい、ものも見えなくなり、舞楽の曲、「案摩(あま)」の後、二人の土民の舞に用いる異様な面のように見えるが、ただ恐ろしく、鬼の顔になり、目は吊り上がり、鼻は額の辺りになり、後には僧坊に住む人々からも離れ、自分の部屋に籠り、久しい年を経て、なほ病は進み亡くなられた。

 かゝる病もある事にこそありけれ。

 このような病気が本当にあるのだなぁー。

 
 政党「れいわ新選組」から舩後靖彦さんと木村英子さんの二人が参議院議員に初当選した。舩後靖彦さんは意思疎通に特別な対応が必要な難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者である。木村氏は手足がほとんど動かない脳性まひの障害を持つ。
 山本太郎氏は人間を生産性のみで見るのは間違っていると主張している。人間は存在するだけで尊いということが認められる社会でなければならないとも主張している。
 私はこの世に生きていてもいいのだということが実感できる社会、そのような社会にしなければならないというのが山本太郎氏の主張のようだ。年を重ね、老いた人間も正々堂々と生きていていいと若い人々から敬われる社会であってほしいと私も願う。
 社会保障はムダ金だ。ドブに金を捨てるようなものだというような考えの人に政治をしてほしくない。社会保障はムダ金だというような主張がある国はまだまだ貧しい国だ。貧しいからこそ社会保障はムダ金だというような主張がでてくるのだろう。山本太郎氏の率いる「れいわ新選組」が参議院で二議席獲得したということは日本という国がそれなりに豊かな社会になったという証明ではないかと思う。
 この世に生きるすべての人が誰からも敬われる社会になるにはすべての人がすべての人を互いに認め合うことが大事だ。性同一性障害を持つ人々がいる。自分の身体的性を自分の心が受け入れがたいということのようだ。このような心身の不一致に苦しむ人々がいる。このような人を障碍者としてではなく、ごく普通の人としてすべての人が受け入れられるような社会になってほしいと思う。
 昔、盲人に大学の門戸を開けという運動をしたことがある。実際、同じクラスに盲人の仲間がいた。彼の成績は優秀だった。しかし学内にはもう一人盲人がいた。その彼が自殺した。学業について行くことにくたびれて自殺した。この出来事が新聞に報道されると大学側はこの事件以後、障碍者の受験を阻むようなことをした。このことを私たちは批判し、障碍者への大学門戸を開けと運動をした。
 障碍者が障害を乗り越えることはできないと視覚障碍者は言う。盲人はどんなに努力したところで目が見えるようになることはないとある視覚障碍者が発言していた。盲人は目が見えないという現実を受け入れ、正々堂々として晴眼者と対等な存在として誰からも受け入れられる社会になってほしいと主張していた。目が見えないということは障害ではなく、個性として受け入れてほしいとその盲人は発言していた。この発言を聞き、私は納得した。黒人の肌の色が白くなることはない。肌の色が黒いということはその人の個性として私たちは受け入れている。生れ付いて持っているものをそのまま受け入れ合う社会がいい。そこに差別や区別を持ち込む必要はない。あるがまま受け入れ合う社会がいい。

醸楽庵だより   1213号   白井一道

2019-10-12 06:19:17 | 随筆・小説



    徒然草41段  『五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに』



 五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。

 五月五日、上加茂神社恒例の競馬を見物しに行ったところ、私の乗って行った牛車の前に下賤な者が立ちふさがって見ることができない。牛車に同乗していた者が各々降りて、馬場の柵のそばまで近づいたが、殊に人多く込み合っている。分けて入る術もない。
 
 かかる折に、向ひなる楝の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ物かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしまゝに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「こゝに入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。

 このような時に、向こう側の楝(あうち)の大木に法師が登り、木の股に座り、見物している。木につかまりながらぐっすり眠っているようだ。落っこちそうになると目を覚ますこと、たびたびあった。これを見ていた人々があざけり軽蔑して「世にも稀な愚か者、これほど危険な枝の上で安心して居眠りしているよ」と言っている。この言葉を聞き、私はふと思ったままに「私たちの生死の到来は今すぐなのかもしれませんよ。それを忘れて競馬を見て日を過ごす。愚かなことをしているのは私たちの方かもしれませんよ」と言うと、前にふさがっていた人々が「誠にそのとおりだ。私たちの方こそが愚愚かなのかもしれません」と言って、皆、後ろを見返して、「ここにいらっしてください」と場所をあけて、呼び入れてくれた。

 かほどの理(ことわり)、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。

 このような道理、誰も思いつかなかったようだけれども、折からの思いがけぬ話に心打たれたようだ。人間は、木や石でない以上、時に物を感じることがないということはない。


 14世紀前半、鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政があった頃、『徒然草』は書かれていると言われている。この時代、公家と言われていた人々や武家と言われていた人々にとって、額に汗をかき、一日中泥まみれになって田や畑、山、海で働く人々は同じ人間ではなく、動物に近い存在であった。無知蒙昧、言葉を話す動物以外のなにものでもなかった。それらの人々にとって手の汚れていない人々、文字が読める人々は高貴な別世界に生きる人々であった。下賤な人々にとって敬わずにはいられない人々であった。
 無知蒙昧な下賤な人々と高貴な人々が同じ場所に同時に存在した場所が京都、上賀茂神社の馬場であった。兼好法師一行は牛車に乗って上賀茂神社恒例の競べ馬競技見物に出かけた。そこにはすでに無知蒙昧な下賤な人々が競べ馬競技場を取り囲んでいた。
 高貴な人々の一人であった文字の読み書きの出来る兼好法師が下賤な人々の群れに入り、その場所で新しい発見をした話が『徒然草第41段』である。兼好法師が発見したことは無知蒙昧な下賤な人々にも高貴な文字の読み書きができる人々と同じようなものの見方ができることであった。人間の命が永遠なものではなく、いつ亡くなるか分からないものであるということであった。その無常観が伝わったことに兼好法師は驚いたのであろう。