宮応かつゆきの日本改革ブログ

●日本共産党
総選挙で市民と野党の共闘で政権交代を、共産党の躍進をめざします。

スターリン秘史ー第8章、スターリン怒る、「中国。西安事変と抗日統一戦線」

2013年08月12日 | 綱領関連

 「ディミトロフ日記」、1936年12月14日ー「夜遅く、12時にスターリンから電話。『中国のこの事態は、君たちが承認したものか?(-違います!)これはだれにせよ、いまおこないうる日本への最大の奉仕だ(-われわれもまた、この事件をそう見ています!)

 不破さんは、ここでスターリンを激しい怒りに駆り立てた中国の事件、”有名な西安事変”について、解明していきます。「スターリンの怒りがここまで爆発したのはなぜか。この疑問を解こうと、ディミトロフ『日記』を起点に、当時のスターリン、中国共産党、コミンテルンの三者の関係を歴史的に読み解いてゆくと、そこには、自分の国家戦略を最優先において、中国革命や中国共産党の状況など意に介しないスターリンの大国主義と、中国共産党自身の統一戦線政策が転換期を迎えつつあったことが絡み合って、スターリンのこの爆発的な怒りを引き起こしたことがわかります」と解明にあたっての観点を述べています。そして、歴史のドラマを判りやすくを読み取ることができる記述になっていることに感銘しました。

 特に、「西安事変、その経過と結末」(「前衛」誌、9月号ー205頁~214頁)は、十分に読み応えのある内容です。「西安事変」とは、「1936年12月、東北軍が中国共産党攻撃の指示に従わないのを怒った蒋介石が、命令を執行させるために、東北軍の司令部が置かれた西安に出かけたところ、逆に張学良に逮捕・監禁されてしまった」事件のことです。(「前衛」誌、9月号ー190頁)

 

 

 


第3の躍進を”大河の流れに”党創立91周年記念講演会、志位委員長よびかけ

2013年08月11日 | 党関係

 10日、日本共産党創立91周年記念講演会が、東京・日本青年館(新宿区)で開かれました。会場は2千人であふれ、全国1千か所で視聴会が開かれ、1万7千人がリアルタイムで視聴、史上最大規模の取り組みになったとのことです。私は、自宅で視聴しました。志位氏の講演前に吉田信夫都議団長、参院選で当選した8氏のあいさつがありました。どの議員のあいさつも希望と期待を感じさせるものであり、また、”躍進”の大きな意味を実感しました。

 志位委員長の記念講演のテーマは、「”第3の躍進”を本格的な流れに」です。今回の参院選は15年ぶりの勝利でした。日本共産党が前の綱領を決定したのが、1961年の第8回大会でした。この綱領に基づいてたたかった国政選挙で、1960年代終わりから70年代にかけての「第1の躍進」を、1990年代後半に「第2の躍進」を切り開いてきました。それにつづく今回の”躍進”です。志位委員長は、今回の”躍進”について、「この躍進は、自然に起こったものでも、『風』が吹いて起こったものでもありません。この10数年の全党と後援会の不屈の活動の積み重ねが実ったものにほかなりません」と指摘し、「2大政党による政権選択論など反共作戦に立ち向かい、敗北から学び、鍛えられた中での勝利であった」ことを強調しました。そして、この間には、日本共産党は2004年に、現綱領を決定し、日本の民主的改革の展望を国民にわかり易く明らかにして、粘り強く活動してきました。この活動が第1歩ではありますが、実った結果と評価しました。

 志位委員長は、講演の3つ目の主題として、「3つの努力方向」を語りました。一つは、抜本的対案を掲げ、安倍政権の暴走と正面から対決すること。二つは、日本共産党の路線、理念、歴史を丸ごと理解してもらう活動を、日常不断の活動として強めること。三つは、希望ある未来を開く、強く大きな党をつくること、です。そして、志位委員長は、「開始された”第3の躍進”を日本の政治を変える大河のような大きな流れにすることができるかどうか、『変革者の党』としての私たちの真価が試されています」とよびかけました。

 日本の政治変革は内政、外交どの分野でも待ったなしの事態となっているのではないでしょうか。日本共産党の”真価”が文字通り試される時期となっている思います。

 

 

 


「私の顔や手を見てください」ー被爆者・山口仙二さんの国連での訴え力に!

2013年08月10日 | 核廃絶・平和

 8月3日に広島で開幕した原水爆禁止2013年世界大会は、7日から9日の長崎大会で終了しました。

今年の世界大会は、被爆70周年であり、核不拡散条約(NPT)再検討会議が開かれる2015年にむけて、核兵器廃絶を求める、熱い、根源的な議論が行われた大会であったと強く感じました。
核兵器廃絶の「根源的議論」の中心点は、「核兵器の非人道性の告発の課題」であり、「被爆体験の継承と普及」です。

 長崎大会決議、「長崎からのよびかけ」の冒頭には、今年7月に亡くなった長崎の被爆者・山口仙二(82歳)さんが1982年第2回国連軍縮特別総会で演説した内容で始まっています。
「私の顔や手をよく見てください。 
世界の人々、そしてこれから生まれてくる人々、子どもたちに、私たちのようにこのようなな被爆者に、核兵器による死と苦しみをたとえ1人たりとも許してはならないのでありますーー」

 9日の長崎平和式典で田上富久長崎市長は、「平和宣言」の中で、「68年前の今日、このまちの上空にのアメリカの爆撃機が、1発の原子爆弾を投下しました。 24万人の市民のうち、7万4千人の方々が命を奪われ、生き残った被爆者は今もなお、白血病やがん発病への不安、深い心の傷を抱え続けています」と訴え、「日本政府に、被爆国としての原点に返ること」を求め」ました。

その上で、日本政府が今年の4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された「核兵器の非人道性を訴える共同声明」に、日本政府が署名せず、世界の機体を裏切ったことを指摘し、次のように、訴えたのです。

「人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。
これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します」と安倍首相が参加している式典で厳しく指摘しました。

 世界大会に参加し、被爆者と懇談したオリバー・スト―ン監督は、被爆者に対して「大きな苦しみを受け、しかしその記憶を伝える責務を持ち、愛にあふれ、世界を本当に良くしたいという理想にあふれた大事な方々だ」(「しんぶん赤旗」7日付、広島で)と語ったといいます。

 日本政府の核兵器廃絶を裏切る異常な言動がつづく中で、被爆者ととも、若者とともに、いま、日本の国民が世界の人々と大きく連帯して、「核兵器廃絶」にむけて行動に立ちあがりつつあることを実感しました。

 


「からだの中に、原爆がいる」、”第2の白血病”ー被爆者と医師の闘いーNHKスペシャル視聴

2013年08月07日 | 核廃絶・平和

 昨日8月6日午後7時30分、NHKスペシャル、「終わりなき被爆との闘い」-「広島長崎の被爆者たち”第二の白血病”増加、68年もたってーなぜ」を視聴しました。80歳を超えた長崎の被爆者の”からだの中に原爆がいる”という言葉が強く印象に残りました。被爆者は、何年たっても、原爆症から逃れることができない、治療方法もない、そうしたなかでの被爆者と医師の共同と闘い(人間愛)ー染色体(23個存在)が傷つき、破壊された状況を映像で判り易く明らかにしていました。長崎の医師が、国際会議の場で”原爆は廃絶させるしかない”と長年の被爆者の治療と研究の結論を語っていました。

 広島と長崎でここ数年「第2の白血病」とよばれる病気で亡くなる被爆者が増えているそうです。原爆投下から68年もたった今、なぜこんなことが起こっているのでしょうか。これは、「骨髄異形成症候群」(MDS)と呼ばれる病気だそうです。専門医の研究で、この発症率が通常の人では、10万人に1人ですが、被爆者の場合は15.9人に及んでおり、爆心地に近い人ほど発症率が高いことが立証され、原爆との関係が明らかになっています。

 ジャーナリストの諌山 修氏は、「被爆者の遺伝子には被爆の瞬間に白血病という”時限爆弾”が埋め込まれ、70年近くたった今でも次々に爆発するように発病するという恐ろしい構図が浮かび上がってきたのだ」と指摘しています。被爆者に寄り添い懸命に治療にあたり、MDSの研究に取り組む日本人医師達、その一方で、原爆を投下したアメリカの対応の違いについても考えさせられました。アメリカは、原爆投下から、まもなく、原爆による放射線障害はなくなったと宣言しました。しかし、日本の医師達の治療と研究では、放射線障害は深刻化していたのです。そうした中で、アメリカは広島に放射線が人体に及ばした影響を検査する機関をつくり多くの被爆者の検査にあたりましたが、治療は一切しなかったことは、いまではよく知られていることです。今回、NHKの番組を視聴し、原爆を投下した者たちの非人間性も改めて考えさせられました。

 今日から、9日まで、「原水爆禁止2013年世界大会ー長崎」に参加してきます。その間、ブログを休ませていただきます。

 


あの日、1発の原爆は広島の街を壊滅させ、その年の末までに約14万人の尊い命を奪いました。

2013年08月06日 | 核廃絶・平和

 1945年8月6日、午前8時15分米軍が投下した人類史上初めての原子爆弾が広島市の相生橋近くの上空で炸裂しました。地上で生活し、仕事をしていた人々は人類が体験したことのない熱風、爆風で焼き尽くされ、建物は焼かれ、破壊されました。また各種の強烈な放射線は被爆者の、救援などに駆けつけ入市した人々の身体を破壊しました。

 松井一実広島市長は、平和記念式典の平和宣言で、「被爆者の苦しみを具体的に指摘し、核兵器を『絶対悪』とあらためて否定し、広島を『憲法が掲げる平和主義を体現する地』と強調し、世界の指導者に核兵器の廃絶を求めました。そして、日本政府には、「核兵器の非人道性に焦点をあてて廃絶を訴える国々との連携を求めるとともに、核拡散防止条約(NPT)に加盟していない核保有国インドに原発を輸出する交渉を進めていることに懸念を表明」しました。(「中国新聞」6日、電子版)

 原水爆禁止2013年世界大会・国際会議(3日~5日、広島市)で採択された、「国際会議宣言」は、冒頭で、「広島と長崎の被爆から68年目をむかえた。原子爆弾は一瞬にして二つのの都市を破壊しつくし、その年のうちに20万余の市民の命を奪いさった。それは人間として死ぬことも、生きることも許さない『この世の地獄』であった。生き延びた被爆者たちも、長年にわたって病と心の傷に苦しんできた。このような悲劇を世界のいかなる地にも決して繰り返してはならない」と強い決意を明らかにしています。

 そして、「宣言」の最後のところでは、「若い世代とともに、今一度、被爆者の訴えに耳を傾け、核兵器がもたらした『地獄』に目をむけよう。そして、幾千万の人びとの心をゆりうごかし、『核兵器のない世界』への扉をひらく広大な世論を築きあげよう」とよびかけています。

 ノーモア・ヒロシマ! ノーモア・ナガサキ! ノーモア・ヒバクシャ!

 


朗読劇ー「この子たちの夏」を観劇。「なんぼうにもむごいよ」-被爆の実相に心が揺さぶられました

2013年08月05日 | 核廃絶・平和

 4日(日)、大和市平和都市推進事業実行委員会20周年記念事業として、「朗読劇ーこの子たちの夏 1945・ヒロシマ ナガサキ」が市内の生涯学習センターホールで上演され、550名余りの市民が観劇しました。演劇をほとんど観ることもないもない生活をしている者ですが、今回の上演はどうしても観てみたいと思っていました。6名の女優さん達の名前にも惹かれました。日ごろのテレビドラマなどで知っている床嶋佳子・根岸季衣・原日出子さんも出演していました。また、今回は市内の県立高校の演劇部の女生徒が短歌・俳句の朗読部分を担当しました。

 90分を超える上演でしたが、観客はほとんど身動きしないで、聞き、見入っていました。原爆により、ヒロシマの、ナガサキの子どもたちが、どのように焼き殺されたのか、どれほど生きたかったのか。また、子どもを奪われた母親、親を奪われた子どもたちのすがたが、人間としての思いが、数々の証言、体験をもとに明らかにされるものでした。

 上演の冒頭には、次のような文字が映し出されていました。「なんぼうにも むごいよ みんなにもうわすれられて 埋もれてしまった ほとけたち ほったらかしの ほとけたち なんぼうにもむごいよ 月のかたぶくばんには ゆうれいになってやってこい 母さんとはなそうよ うしろむになってはなそうよ(〈声なきものへ〉 山田数子)

 今日の「神奈川新聞は、「英の原爆使用同意 広島投下1カ月前」と報じました。「英国が政府として日本への原爆使用に公式に同意したのは第2次大戦末期の45年7月4日にワシントンで開かれた原爆開発協力をめぐる合同委員会(CPC)の会合。議事録によると、英代表のウィルソン陸軍元帥は冒頭、原爆開発計画を監督するスティムソン米陸軍長官や計画責任者のグローブズ米少将らを前に『英政府は日本に対する原爆使用に同意する』と言明した」ことが米公文書で裏付けられたと述べています。

 

 

 

 

 

 


被爆68周年。”被爆体験こそ廃絶の原点”被団協の藤森さんの訴えに強く共感します

2013年08月04日 | 核廃絶・平和

  原水爆禁止2013年世界大会の国際会議が3日、広島市で始まりました。広島で母親と被爆した日本原水爆被害者団体協議会事務局次長の藤森俊希さんがあいさつの中で、被爆の体験を語りました。「私は、広島の爆心地から2.3㌔の神田川の土手の上で母親とともに被爆しました。1歳でした。母は毎年8月6日、子どもを集め、体験した地獄のような広島を涙を流しながら話し聞かせました。ことし4月、2015年NPT(核不拡散条約)再検討会議第2回準備委員会のNGOセッションで、母から受け継いだ被爆体験を話しました。アイルランド代表は、被爆体験が核兵器廃絶の原点だ、そのことを思い起こさせてもらって感謝する、と述べました。母が子に託したのは、このことだったのかもしれないと私は胸が熱くなりました」(「しんぶん赤旗」4日付)

  被爆60周年の世界大会は広島で開催されました。その大会の時、久しぶりに原爆資料館を訪れました。過去からの展示品とともに最近、寄贈された遺品も展示されていました。その一つの遺品の前で、自然に足が止まってしまいました。「遺髪」でした。その説明文には、母親の言葉が書かれていました。被爆し12歳で亡くなった娘さんをようやく探し出し、その娘さんの遺品として、被爆後60年間、家で保存してきたけれど、もう何年生きられるかわからないので、資料館で保管してほしい、と書かれていました。「遺髪」は心をこめて大事にされ、手入れも行き届いていたのでしょうか、今生きていいる娘さんの髪のように黒く輝いていました。同時にどんな無残な姿で亡くなられたのか、頭の中をその時の地獄の様相が駆け巡りました。

 藤森さんが参加した、4月のジュネーブの第2回準備委員会で、核兵器の非人道性を批判し、核兵器の不使用を主張した共同声明が発表され、賛同国は80カ国に広がっています。ところが、被爆国日本の政府はこの声明への賛同を拒否しました。その理由が、「いかなる状況下でも核兵器を2度と使用しない」という部分が受け入れられないということであったと報道されています。一定の状況下では、核兵器使用を正当化するものです。「核兵器のない世界」にむけて努力している国際社会への重大な背信、妨害行為ではないでしょうか。

 7日~9日開催される「原水爆禁止2013年世界大会―長崎」に参加します。全国の、世界の仲間とともに、「核兵器のない平和で公正な世界を」めざし交流し、学んできます。

 


臨時国会開会ー当選8氏晴々笑顔いっぱいの登院、もう一人いたらいいね!

2013年08月03日 | 国会

 今日(3日)付「しんぶん赤旗」は、一面トップを当選した8氏の笑顔いっぱいの登院写真を掲載しました。また、議員団総会での志位委員長の躍進した議員団の「3つの役割」を強調したあいさつ、当選議員の「決意」などが大きく報道されています。

さらに13面の「首都圏版」に、「紙・小池・吉良参院議員が初登院」「首都圏の願い実現へ力合わせ」の見出しと共に、3氏の笑顔の写真が掲載されていました。

 記事の中では、「3氏は、首都圏選出の、笠井亮、塩川鉄也両衆院議員、田村智子、大門実紀史両参院議員と握手。 国政の転換とともに、8都県の住民要求実現のために、力を合わせて奮闘する決意を固め合いました」と紹介されています。
 衆参合計7名の議員ですが、もう1人、重要な議員がいます。
志位和夫衆院議員・委員長です。

日本共産党は、現在衆院8名、参院11名合計19名の国会議員となりました。
この中の8名が首都圏から選出されている議員ということになり、力強さ、頼もしさを感じます。

 ただ、この議員団の中に、神奈川県出身の議員がいないことが残念でなりません。
しかし、2010年に比例代表で選出された田村智子議員に、小池晃議員が加わることになり、神奈川県民の要求を1歩でも2歩でも前に動かす参院の力は2倍になりました。

志位委員長は、「『共産党を伸ばしてよかった』、『今度は共産党に』という奮闘を、新しい衆参の議員団が力をあわせてとりくむ」ことをよびかけました。

 小池晃議員は、議員団総会の中で、「3年ぶりに参院本会議場に入り、自公政権の暴走とたたかい抜く闘志がわいてきました。選挙では議席に届かなかった方がたがたくさんいます。今度は、そうした人たちも一緒に(国会に)来て、どーんと真ん中を占めるような議員団をつくりたい」と決意を語りました。

彼の胸の中に、”神奈川”が含まれていることを強く感じさせられました。