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<改訂版>漫画の話 お気に入りの作家を軸にマンガの可能性を考える(上)

2010年03月22日 08時41分18秒 | 書評のコーナー


私はマンガが好きだ。奥様の寛子ちゃんもマンガが大好きだ。つまり、我が家はみんなマンガ好きである。マンガなんか単に楽しめればいいのだろうけれど、マンガに理屈はいらないのだろうけれど、時々、何でこんなにマンガは素晴らしいのか考えないではない。お気に入りの漫画家;諸星大二郎・森雅之・岡崎二郎・西岸良平さんなど;の作品を思い浮かべながらマンガの素晴らしさ(=パワー)とその可能性について考えてみる。春三月の休日の朝。


◆マンガは素晴らしい。漫画は人類の文化遺産だ!
マンガは素晴らしい。漫画は人類の文化遺産だ! このことを論じる。語る。KABUはマンガが好きだ。寛子さんもマンガが大好きだ。5年前にBLOGをはじめたときから、BLOGというツールはサブカルチャー評論、特に、マンガ評論に相性がいいと漠然と思っていた。ということで参ります。楽しみ♪

楽しみだが、のっけから予防線を一つ。要は、「マンガ」の定義をここでは保留したまま話を進めさせていただきたいということ。取り敢えず、ページにコマ割がなされ、台詞がフキダシの中に入っているストーリー性のある画像と文章の合体した情報媒体くらいのイメージでマンガを捉えており、つまり、アニメーションは一旦除外し、挿絵入りの小説も一応マンガではないと考えて話を進める。また、外国の特に米国のコミックと日本のマンガの違いについては書きたいことはてんこ盛りだけれど本稿は日本のマンガに絞らせていただきます。

よって、ここで言うマンガとは、田河水泡『のらくろ』、横山隆一『フクチャン』、島田啓三『冒険ダン吉』等の大東亜戦争前からの伝統を持ち、手塚治虫・横山光輝・白土三平という戦後のストーリーテラーの巨匠達が育て、長谷川町子・石ノ森章太郎・ちばてつや・藤子不二雄・赤塚不二夫・萩尾望都、池田理代子・みつはしちかこ・大和和紀・大島弓子・竹宮恵子・里中満智子・山岸涼子、等々の才能が技とアイデアを競った<昭和>に隆盛を誇った出版ジャンルとしてマンガをイメージしてい。けれども、20世紀の最後の20年間も21世紀も、大友克洋・石井隆・ジョージ秋山・梶原一騎・鳥山明・秋月リス・たがみよしひさ・桂正和・高橋留美子・本宮ひろし・あだち充・吾妻ひでお・岡崎京子等々のカリスマに日本のマンガ界はこと欠かない。ちなみに、私のお気に入りのマンガ家ベストファイブは、西岸良平・森雅之・諸星大二郎・岡崎二郎・川原泉である。


10年前の統計だけれど(2000年)、実に、日本で出版される出版物販売総額の25%をマンガが占めており(雑誌・書籍の販売総額は2兆5千億円であり、その内の約6千億円がマンガである。)、況して、単価比較から想定される出版総数の中のマンガの割合は絶大である。マンガを出版の一つのジャンルとして見た場合、マンガは他の文学ジャンルを販売総額でも出版点数でも圧倒しているのである。しかし、私は思想的な影響力や教育的効果においてもマンガは他の文学ジャンルを圧倒していると考えている。特に、今時の<読書をする習慣のない>子供や子供のような大人に対しては際立った優位性をマンガは持っていると思う。何故そう言えるのか。そのポイントは、以下の4個である。即ち、

●文字を読む習慣のない者に対する教育効果の優位性
 ①ストーリーを追う訓練における優位性
 ②場面を構想する訓練における優位性
●心象風景と写実描写における優位性
●SFと歴史と最先端思想的課題を表現する優位性
●複合的アートとしての表現の多様性


以下、これらのポイントについて説明していきたい。蓋し、「マンガやゆうて舐めたらあかんぜよ!」ということ。マンガって本当に素晴らしいですよ(そうそう。岡崎二郎さんの作品は、8年前出版された『時の添乗員①』以来まとまった作品は読んでいない。その第3話「交換日記」なんかにはジーンと来ましたね。彼は素晴らしい。岡崎さんもっと作品一杯描いて下さい! )。





◆マンガの構造と本性
マンガは教育と情報のツールとしての側面と複合的なアートとしての側面を併せ持っている。小説やビデオ画像と比べた場合の教育ツールとしてのマンガの優位性はしかし劣位性の裏返しであるかもしれない。「大学生にもなってマンガばっか読んでどないすんねん」とは今でも時々聞く台詞。世には、小説の挿絵でさえ<本質的な想像力や構想力>を身につけるのに有害だと仰る先生方も少なくない。そのような先生方にとって画像が主、文字が従のマンガなんぞ教育ツールの範疇に入らない、もし入ったとしてもそれは補助的な役割をしか与えられないに違いない。私もマンガが<本質的な想像力や構想力の開発>においては補助的な役割しか果さないだろうことに同意する。あくまでもマンガは自転車に乗れない子供が、自転車に乗れるようになるためのトレーニングの一時期に使う補助輪に過ぎないであろう、と。しかし、現在の子供や子供のような大人の国語力の現状を鑑みるにこのマンガという補助輪の意義は残念ながら小さくないと思う。


マンガは、文字を読む習慣のない者への教育と情報伝達の効果において文字媒体に数段優る。昔の記事の繰り返しになるかもしれないが、さいとうたかお『ゴルゴ13』を通して国際政治を学び国際関係の情報に親しみ、石ノ森章太郎『マンガ日本経済入門』や『マンガ日本の歴史』で日本の経済や歴史に関するイメージを獲得した方、雁屋哲&花咲アキラ『美味しんぼ』で食べ物や食文化について考えさせられた経験を持つ人は決して少なくないはずである。教育的の影響力という点で、ゴルゴ13に優る国際関係論のテキストはないし、石ノ森版日本の歴史を上回る日本通史の書籍は存在しない。而して、この情報優位性を担保するものが他の文字媒体に比べた場合のマンガの持つ二つのユーザーフレンドリーネスではないかと思う。即ち、読者がストーリーを追うことの容易さ、読者が場面イメージを構想することの容易さである。この容易さが教育ツールとしてのマンガの優位性に他ならない。整理する。

●マンガの優位性
(A)文字を読む習慣のない者に対する教育効果の優位性
① ストーリーを追う訓練における優位性
② 場面を構想する訓練における優位性
(B)マンガの情報媒体としての優位性



◆マンガの機能と属性
マンガはその複合性(文字と画像との、)によって文字のみでは切り込みにくい対象にまで思索の営みを広げることができる。例えば、SFと歴史と最先端の思想的課題である。これらを表現するマンガの優位性は説明するまでもなかろう。手塚治虫・横山光輝・白土三平という戦後漫画界の巨匠は各々これらのすべて領域で代表作を持っている。『鉄腕アトム』『ブッダ』『火の鳥』であり、『鉄人28号』『項羽と劉邦』や『カムイ伝』と記せば、この点でのマンガの優位性をこれ以上説明する必要はないのではないかと思う。

マンガは教育ツールや情報媒体として優れているだけでなく、心象風景の描写や写実描写においても優れている。心の内側と外部世界のイメージを文字を通して構成する訓練を受けていない子供や子供のような大人にとってマンガは恰好のトレーニングツールを提供している。否、文字の作る世界で戯れることができる大人にとってもマンガは独特の存在意義を持っているのではないだろうか。それは、より厳格に作者のイメージに拘束される反面、最も、微妙な心理と世界の認識に自己の解釈を集中的に投入できる。物理学は数学ほど自由ではない。けれども、物理学が数学に比べてクリエティヴィティーの乏しい知的分野であるという人は少ないだろう。

立原あゆみ『本気!』の中の風景はほとんど写真画像である。しかしそれは間違いなく絵画の画像であって立原が作画においてモデルにしている千葉県船橋市や習志野市の風景ではなく、読者は自分なりに『本気!』の作品世界をイメージしなければならない。

作者に拘束される度合いが小説よりも大きいものの(作者が与えた登場人物の容姿や気分や街の風景を前提せざるを得ないとしても、)マンガを読む読者は別の意味で想像力と構想力の翼を激しく羽ばたかせることになる。柳沢きみお『夜の街』、たがみよしひさ『軽井沢シンドローム』等々。桂正和『電影少女』、ジョージ秋山『浮浪雲』そして、私が日本マンガの最高傑作の一つと考える森雅之さんの『夜と薔薇』、川原泉『笑う大天使』はある意味小説よりも小説的であるのに関わらず阿刀田高、星新一という日本の短編小説創作の名手をもってしても文字のみで表現することが不可能な事柄と思想内容を<作品世界>にまで昇華していると私は思う。

複合的なアートとしてのマンガは文字と画像の必ずしも相性が良いとはいえない二つの要素により豊穣で官能的な作品世界を作り上げる。マンガは挿絵交じりの小説でも言葉が少し添えられた絵本でもない。それは、絵画によって触発されたイメージとエクリチュ-ル(書かれた言葉)によって意味づけられたストーリーとの鬩ぎ合いの結晶である。

サッカーやアメリカンフットボールでも将棋や囲碁でもデイフェンスとオフェンスの二律背反的なバランスの上で闘い(ゲーム)が展開されるのと寧ろマンガは近しい。マンガはノルディック複合(ジャンプと距離レースとの複合)である。石井隆『名美』『赤い教室』、大友克洋『アキラ』『童夢』『さよならニッポン』、および、諸星大二郎の諸作品、例えば、『孔子暗黒伝』『無面目・太公望』『天崩れ落つる日』『暗黒神話』は人類の知的遺産でさえあると私は思っているけれど、その作品の価値はマンガという表現ツールの性能にそのかなりの部分を依存していると私は考えている。

マンガは小説や絵本にはできない多様な表現をしかも先端的な思想的テーマに対して投入することができる。そして、その情報伝達と教育ツールとしての効果は極めて高い。マンガは本当に素晴らしい。では、何故にマンガはそのような「パワー」を持ちうるのか。このことを、今度は具体的な作者に引き付けて考えてみたい。

<続く>



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